頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

ラインで定期報告、苦言呈されるのわかりきってたからクソサボってたけどアパートの更新手続きのはがきが届いたからいい加減連絡取った。案の定、まだ面接受けてないの?という意味の返事が来る。はい、受けてないです。
「前回のメッセージから1週間経ってるんだけど…」「それはどういう意味?」「もうとっくに何件か面接受けてると思っていたのに、まだ面接すら受けてなかったなんてね、という意味だよ」
嫌味だな。スローペースなのは自分が一番自覚してるんだから言われるまでもなくわかってる、ていうかその嫌味言われるのが嫌で現状報告するのが嫌だった。あなたは急かすばかりで、なぜ急げないのかを説明しても一切興味なしで、無理解なのがムカつく、いや悲しい。みたいな意味の文章を送ってやり取りを終わりにした。結構真剣に書いたのに「じゃあ月末また」で普通にスルーされて草生えた。
そこに無理解なのはこの人だけじゃないわけだし、と思うとすべて放り出したくなる。
「努力が足りない」
そうかもね。それで、努力で補えない、変わらない性質はすべて病気扱いだし。病気。病気なのかもね。病気ってなんなんすか?「社会にとって都合が悪い」って意味でしょ。僕にとっては社会のほうが都合が悪いんで、なら社会側が病気に見えるけどね。
なんなんだこの世界?
人格のない単なる機能、機能としての有能さを求められ、使い捨てのように扱われ怒鳴り散らされ、それが最悪の状態だったとして最高の状態でも、やりたいともそれをすることが絶対に必要だとも思っていない行動に時間を費やさないといけない、という労働へのイメージが身を縮こまらせる。
僕のやりたいこと、僕に必要なことはくつろぐこと。
緊張しないでいたい。
四六時中ビクビクして、緊張している。
うんざりする。
悲しい。

無理解や興味を持たれないことが悲しいのは当たり前だ。それは前提にしているハードルや願望があまりにも高いからだ。もっと低く見積もれば、いちいち悲しまなくてもすむと思う。
理解されたい、興味を持たれたい。
でも、前提として他人は他人を理解したいとは基本的に思っていない、なぜなら理解することはコストが高いことだから、だから興味も持たないんだよ。
なんてこった、当たり前の事実じゃないか。
当たり前の事実だよ。
だからね、だからこそ上手にアプローチする必要があるんだよ。私はこういう人間で、こういう部分であなたの役に立てる、もしくは立てないので、私と接するときにはそれを念頭に置いてくださいという丁寧でわかりやすい説明。他人を軸にした説明。
きっと僕はそれをうまくやるのが苦手で避けてきた。
「役に立てないなら立てるようになればいいじゃないか」
それは無理なんです。
その努力は一生続けなければいけないたぐいのもので、一生苦しみ続けろという提案に等しいので。
それができるのは一生苦しみに耐えられる人だけ。僕は苦しみには耐えられません。
あなたが私のことで苦しまず、私もあなたのことで苦しまない、第三の選択肢を一緒に考えてほしい。
でもそれは「ワガママ」で、高望みなんだろうな。
他人のことなんかどうでもいい、自分にとって都合が悪かったり必要がなかったりしたら、簡単に殺すし、切り捨てる。
それが人間だよ。そしてすごく自然なことでもある。その判断は自然的なものなんだよ、だから嫌だ受け入れられないなんて言っても現実は変わらないぞ。
そいつらとうまくやっていかないといけないんだよ。
殺されないために。
あ、いや殺されていいのか。
ああそうだった。
もういいや、殺してくれ早く。
「悪」は死ねって大勢思ってるし言ってるし実行してる。
僕だって昔はそういう考えを持ってた。
僕は悪でいいから。役に立たないし使えないやつでいいから。
役に立つから生かしてやる、使えるから認めてやるなんて世界観で一生生きていかないといけないのか。
そんなの苦しすぎる。

やめよう。違う。こんな恨みがましい状態でいたいわけじゃない。
恨みがましい自分が嫌いだ。
自分にできることをやるのがいいんだ…。
自分にできることってなに。
生きること。
死ぬこと。
違う違う。そういう漠然とした発想じゃなくてもっと日常に即したことだ。
日常に即した。
少しは文章が読み書きできる、それを楽しめる。少しは料理ができる。少しは絵を描いたり写真を撮ったりすることを楽しめる。少しはインターネットを使って情報を得たり発信したりすることができる。
あとはなにも思い浮かばない。
自分にできること、それが優れているとは思わない。人よりなにかが優れていると思うこと、それ自体が嫌だ。おごった自分が嫌いだ。人を見下す自分が嫌いだ。優劣も上下もないところで人を、自分を見て、接していたいよ。