適応拒絶、無力さの自覚、権力の希求
「力が必要だ。やりたいことをやるために。力をつけるためには続けることが肝心だ。やりたくないことでも続けていればいつしかそれが自分の身を助ける力になる。だからやりたくないことでもやる必要がある。頑張り、努力し、我慢をすることが」
そのとおりだね。
じゃあ「我慢」してもらっていいですか?
嫌です。
なんでだよ。
僕は力を必要としていないからです。
いや必要なんだって。盾のない状態でどうやって生きていくつもりなんだ? そのままなら野垂れ死ぬだけだ。
それで構わない。
自分がしたいことをするために必要なんだ! それができなくても構わないのか?
それをするために我慢が必要なら、できなくても構わない。
それはつまりこういうことだ、「生きていくためには我慢が必要だが、我慢が必要なら生きられなくても構わない」。生きていたくないのか?
そうだよ。我慢をするくらいなら死ぬほうがいい。
我慢。
我慢って何。
自分を抑えつけること。自分を騙すこと。人を騙すこと。歯を食いしばり辱めに耐えること。自分の意に反する行いを続けること。屈辱を受け入れ、屈辱に慣れること。
なぜ僕はそれを「恥」だと感じるんだ。
なにも屈辱を感じる必要のないことなのに。
屈辱を感じなければ解決する話だ。
屈辱だと感じなくなれば済む話だ。
自分の一部を改造できるならそいつを感じさせる部位をまっさきにいじくればずいぶん楽になるだろう。
それを「恥」「屈辱」だと感じなくていられる人と僕のなにが違うんだろう。
僕のほうがより幼稚なんだ、自分の意志が通らないことを認められない。
多くの人々は自分の意志が通らないとわかったなら、その時点で諦められる。ある程度自分の意志を曲げられる。自分の意志と反するものを受け入れ、妥協し、その中でやっていくことができる。
僕がそれを困難だと感じるのは、いつまでも自分の意志が通らないことを受け入れられず、諦められないからなんだろう。
幼児的万能感の幻想の中にいるんだ。
違うか?
違わないですね。
なんで頭でここまでわかれて体は全然動かないんだ?
幼児的万能感を崩すためには組織や集団に所属する必要がある。僕はどこかへ所属しようと試みるたびにいつもここに帰ってくるから、いつまで経ってもそいつは崩れない。幼児的万能感は堅牢な壁だ。崩すためには強制力が必要だ。逃げ場のない、適応しなければ生きてはいかれないという環境。檻。枷。安全な揺り籠にいつでも戻ってこられるとあれば、そりゃ揺り籠に戻る方を選ぶさ。
揺り籠。安全圏。そこも全然安全じゃないけどね。
組織や集団に対して自分を「恥」だとは感じないのか? 自分の意志を通すことにだけ注力して、集団に対して迷惑をかける存在であり続けるということは。
恥だが、まあ天秤にかけて、どっちがより恥かと問われれば、僕にとっては屈辱を受け入れることのほうが比較にならないほどの恥だと感じられる、だからこそいつまでも面の皮厚く幼稚性を保てているんだろう。でなきゃもっとうまくやってる。僕が要領悪いのは、折れるべきところで折れないからだろう。
平行線だ。
逃げ場のない環境。
ここはもうすでに逃げ場のない環境だよ。だったら今すぐ適応するために体を慣らしたほうがいい。
僕にとって逃げ場がないのは「自分の意識」だけで、他はどうとでもなると感じられるらしい。だから「自分の意識」からだけは逃げるのを諦めた。他からは逃げ続けても。
僕は「自分の意識」に今まさに適応しようとしている。つまりそれは自分に対して嘘や誤魔化しをしないということだ。自分の本意は外界への適応によって隠され、覆われ、見えづらくなっていく。そこにあるものをただあると認められなくなる、存在に色がつく、フィルターがかかる。僕は案外自分をうまく騙せる方だと思う。思い込みが強い。簡単に「自分の意識」をないがしろにできる。それが嫌なんだ。それを真っ先に避けたい。
思い込みの強さ。それは両親が離婚したとき、親の不仲は自分の責任であるという、自分でもでたらめだと感じていた答えを強く信じることができたときからずっと自覚している。僕は両親が不仲だと嫌な気持ちだった、だから不仲でない状態を望んだ。だが現実は望み通りじゃない、だから望み通りに事が運ばないのは自分が力不足だからだと、自分に何かが足りないからだと。そう思おうと努力した。実際にはただ不条理があっただけなんだが。両親の不仲は僕じゃなく両親たち自身の持つ意思から生じた出来事であって、僕の力が及ばなかったこととは関係がない。現実が自分の望み通りじゃないなんてのは当然の事実で、事実を変えられると、不条理は条理のもとに正すことができると考えられたからこそ、自分の力を過信した。それで、ただ悪が必要だったという理由だけで嘘をつくことができ、それを信じられた。悪が必要だった。条理が。悪は自分だと思い込めば筋が通ると思った。楽だった。それらしい答え、もっともらしい理由、AだからBだと思える支柱が欲しかった。
「自分には力が足りない」=「力が足りないから状況が悪かった」=「力があれば状況はより善くあったはず」
なぜ自分には力があるという前提なんだ。ないよ。力は。
なぜ自分は単に無力なのだと認められなかった?
無力さを受け入れたくなかったんだろう。自分には望みを叶えられるだけの力があると信じたかった。望みを叶えられないのは自分の力が足りないからだと思えば納得がいった。
今力を必要だと感じないのは、自分は無力だと認められるからだ。
力を求めるのは、虚しいだけだ。
自分がより善良で・有能な・価値ある人間だったら、現実は自分の望み通りに事が運ぶかも知れない!
そうかもね。
でもそれは権力だ。
望み通りに事が運ぶということはすなわち、望み通りに誰かを捻じ曲げられるということだ。
そんな力いらない。
確かに僕は自分を無力だと感じているが、でも一方で幼児的万能感に溺れてもいるじゃないか。それはどう説明する?
自分の力ではどうにもならない望みを持つということと、望みは叶わないと頭で理解しているということ、望みを叶えられるだけの力が自分にはあると信じられること、これらを区別すればわかる。僕は望みを持っているが、それが叶わないことを理解している。そして自分には望みを叶えられるだけの力もないし、力を欲しようともしていない。幼児的万能感に溺れる、それは、叶わないとわかっている望みをいつまでも持ち続けているという状態のことを指しているんだと解釈してる。だったら僕は溺れてる。叶わないとわかっているのに望み続けている。でも力を手に入れて叶えようとも、すっかり諦めて望みを捨て去ろうともしていない。どっちつかずで中途半端で、だから苦しむ。
どちらか選びなよ。力をつけるなり希望や期待を捨てるなり。
ダメなのか? 力はいらないけど、希望は捨てられないという状態は。
それは単なる祈りだ。祈りは無力だ。
どうしても力が欲しい?
そうだよ、だってそれがないと生きられないから。
僕は別に生きられなくてもいいと言っているのに。
僕はそうじゃない。
無力さを受け入れられないのか。
違う。無力だからこそ力が必要なんだ。
それで自分が望む通りに世界が働くよう力を振るう?
うん。あるいは世界が望むように自分を働かせる。そうすれば力が手に入り、力は無力さを克服させてくれる。
無力さを克服することがゴール?
違う。持続可能な生存環境の構築がゴールだ。力はそれを可能にする。
抑圧に苦しみながら生きる環境を維持することが望みなの? 力によって得られるものってそれじゃないの?
死ぬよりマシだ。
僕はそうは思えない。
生き延びる中で変わってくることだってある!
25年生きて変わらなかった。
それは我慢を覚える経験、努力が足りないからじゃないのか? 自分を追い込み、力と対峙し、力をつける経験が。
力をつけて、望み通り事を運ぶことができるのを喜びだと感じるの?
喜び? 力がなければ死ぬ、死なないためには力が必要で、喜びは関係ない。
死ぬってなにが死ぬの?
身体、精神、社会性。
それが死ぬとなにが困るの?
自分を生かすことは大前提だ。前提が崩れる。
なぜ自分を生かすの?
自分が大事だから。
どうして、どこを大事だと思うの?
自分の生命は自分の意思とは別のところから生まれた。それは僕を生んだ父や母も同じこと。両親の両親も、両親の両親の両親も、どこまでさかのぼっても同じ。自分の意思とは別のところにあるもの、それを大事に思う。
さあもういいだろう。僕は生きなければならない。僕にはなにかしらの力が必要だ。それがあれば生きていけるというだけの力が。そのために我慢も必要だ。
やっぱり納得できない。なぜ?