頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

退屈とひゃくまんえん

暑。なんかもう夏っていうか地獄。ひたすら灼熱。クーラーなしじゃマジで死ぬ。昔はエアコン使うこと自体に環境汚染…電気代…みたいな罪悪感あって痩せ我慢してたけどアカンわもう。

新型コロナウイルス感染症が流行りだしてからはや半年? 勤め先は通常運転。えらいひとが売上減るのを恐れてピリピリしてます。こわいですね。電車通勤だけど、以前と比べると満員電車が7/10員電車くらいになった気がする。

先日、体調が怪しくなって休みを取る機会があった。発熱はないけど喉が痛いとか倦怠感があるとかの症状が出たので。医者曰く、ただの喉風邪。一応回復後も一週間様子見てから復帰したけど、自分がほぼ無症状の感染者だった場合を考えて憂鬱になる。あくまでも自己判断で休んだり復帰したりしてたけど、その判断が間違ってたらとか。あのとき復帰しないでいればこんなことには……みたいな展開が今後ないとも限らない。といって完全休職ってわけにもいかねえんだな。生活費潰えるし。そして自身の発症より他者への感染拡大それ自体よりアレが怖い。「お前のせいで」って目。なのでますます引きこもりたい。正直先立つものつーか金さえあれば体調問わず一生引きこもってたいです。正直もクソもなにもない平時からずっと同じこと言ってましたわ。実際例の10万円給付金の話が出たときには、おいおいひと月丸々生活費まかなえるやんけとマジでまる一ヶ月休みをもらうなどの暴挙に出ることに成功した。他はみんな通常通りなところ、一人だけこの判断。目立ちたくない村八にされとうないという気持ちを振り切って合法的に引きこもりてーーという気持ちが勝った。緊急事態なんちゃらで今のなあなあな空気よりずっと緊迫感あったから、ここぞとばかりにその気に乗じ喜び勇んでこもりましたとも。しかしいつももう辞めてえ辞めてえ言ってるけど突然こういう行動に出ることを許容してくれるくらいには寛容さのある弊社なのであった。すいませんすいません。体調より収入的な面でお前の生活どうなってんの的な心配はされた。自分でもわかりません。

無駄に節制してたらいつの間にか預金が100万いってた。ひゃくまんえん。一瞬ぼーっとする。実質、一年間なにもしないで暮らせるじゃねえか。でも、じゃあそうやって一年引きこもったとして……一年後は? 残高からっぽのままどこへ? また職に就けるのか、今みたいな高待遇のところに? こんなこと考えてる時点でね。結局、もう今の環境に慣れちゃって、初期みたいな無視できないデカい不満も有耶無耶に霧散して、違うところを試すのがどんどん億劫になってる。違う場所へ行きたいと思う。遠いところへ。別の場所、異なる暮らしを試す……。そうすると、それを引き留めようとする自分がいる。想像を巡らす。たとえば、その世界で、人々はすごく親切だ。互いをねぎらい合っている。当たり前のように、個々の能力を出し惜しみなくふるって厭わず、生き生きと仕事を楽しみ、期待と尊敬を交わす。地域に根ざした付き合い、自然で嫌味のない交流、会話、日常や他者への興味と関心、細やかな日々の試行錯誤、発見、爽やかな汗。そして自分と対比する。僕はどうなんだ。第一に卑屈、自己完結的で自閉的、臆病で猜疑心が強く、緊張を解くことができない、自分に踏み込まれるのを恐れるし、相手に踏み込むのも嫌う、作り笑いの表面上でだけしか自分を表せず、失敗を隠したがり、そういう自分を憎み、絶えず怯えている。このように恐怖で凝り固まったまま、どこへ行こうったって同じだろう? なにより、今よりひどい環境に行き着いたら。ひどい体験を受け止めきれず、耐えきれないで、もう二度と立ち直れないくらい深く傷ついて、また身動きが取れなくなったらどうしよう? 今はまだこうして、せっかく身動きは取れているのに、それをおじゃんにするのか? などなど。でも身動きが取れないってのはつまり、まさに今がそうなんじゃないですかね。もうこれ以上ないってくらい行動を拘束されてるよね。恐怖で。あっちへ行くのが怖い、こっちへ行くのも怖い、どこにも行きたくない。それでどこにも行けないし動けない。変化を恐れて。アホらしい。まあ、とはいえ具体的にこっちへ行きたいとか、プランやあてがあるわけでもなし、ぼんやりとするばかり。本当ならあてなんかなにもなくても、身軽にすべてを放りだして気まぐれに、目的地なんかないまま、ふらふらそのへんでのたれ死ぬのが理想な気もする。実際、僕は今もってあてなど持っていやしないし、こうしてふらふらと死にかけながら生きているんだから、望みのとおり生活し続けている気もする。身軽にすべてを放り出せていない点を除けば。執着すげえもん。アパートは、都心に近いのに自然が多く、静かで治安がいいわりに家賃は安い、職場は僕に干渉しないでおいてくれる人ばかりで、仕事はそのほとんどが一人きりで行える業務だし、ほんと言うことないんですよ。手放し難い。でもずっと続くのか、これが、と思うと、マジで憂鬱になる。端的に言って退屈なんだと思う。退屈! 退屈だって。実家で引きこもっていたとき、同じ気持ちだった。親の庇護下。少なくとも暮らしに不自由はない環境。快適で安らかで。退屈で臆病だった。そうして、自分がこのように生きながらえていられるのは、親の血肉を削ってそれを得ているからだと自覚していた。僕はそれと引き換えになるだけのものをなにも持っていなく、なにも還すことができないで、しかもこの先もずっとこれが続くという予感と、実際に続いていく生活、それが苦痛だった。そのときは、これ以上カニバリズムを続けるならどうにかなっちまうな、と思ったから、どうにかなる前にどうにかしたいという強い動機があって、状況を打開せざるを得なかったので、どうにかなるまでどうにかもがいた。結果今。今はどうなんだろうか。どうにかなっちまいそうなのか?僕は。多分ね。

都会型の生活を、僕はすごく気に入っていて、どこがかと言えば、みんな不干渉なのがいい。知り合いなんかいないから、どこへ行っても知らない顔ばかりだし、いちいち誰もなにも言ってこない、誰も人生に関わってこない、とにかく一人を満喫できる、その上で生活が成り立っているのが素晴らしい。よそじゃこうはいかないだろう。密な関係が避けられない。僕は完璧に社会を捨てて一人で生きようと思ったらすぐに死んじまうだろうクソザコ個体なわけですが、およそ社会性というものを憎み、そうでありながら、強制的な他者とのつながり及び価値観への強い干渉、生活上の世間的な付き合い、などを介すことなく、暮らしがある程度成立するという、この、ありがたさ。でも、現在のこの都市型生活の基盤を支えているものの正体、すなわち、搾取の構造を直視してなお、この生活にしがみついていたいかと問われれば、ノーなわけで。ひとつふたつニュースを見聞きすれば、どれだけ今この構造が、多大な犠牲のもとになりたっているのかたちまちにわかる。そのいびつさに吐き気がし、めまいがして、この瞬間もそいつに取り込まれている、歯車としての自分を見、軽蔑し、逃げ場を求め、逃げ場がなく、絶望。絶望してなお、腹の減る体。なにかひとつ買うだけで、僕は人殺しになる。生活それ自体が殺人に結びついている。なにが違うんだ? 植物、生き物を、殺して食って生きるのと、群衆の間接的殺人に加担しながら生きるのと? 同じだ。それはあるいは自然の摂理なのか? 死のない生はないからと。しかしそんなのは自分に都合のいいだけの自己正当化じゃないのか? あれらは自然の摂理なんかじゃなく、ヒトの信仰と狂気がもたらす生贄なのでは? もっといい方法が……。とか考えちゃうよね。で、僕にどうしろってんだ。くそ。

ところでひゃくまんえんってどう使えばいいの? 頭悪くて金の使い道がわからないんですけど。最小のかけ金で最大の利益。僕にとっての利益って何? 生きる意味って?