頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

朝で、蝉が鳴いてる。

バイトは不定休、週3日休み取るようにしてから、前みたいに急に無理がたたって全部のルーティンが崩れるってことがなくなった、今のところ。

休みに入るとすぐに生活リズムが狂って、よふかしからの朝寝昼起きになる。

仕事のある日は朝起きて出勤して夕方帰ってきてすぐ寝て、夜中に一度起きて食事してもう一度寝直してまた朝起きるというパターン。

僕は相変わらず鈍臭いし気が回らない。人から向けられる「こいつアレだな」という視線を敏感に察してヤベッと思う瞬間を何回も積み重ねてはどうすればそれを取り繕えるかに執心するのも変わらない。ヤバい空気察~知する能力オ~ンリーで~生き延び~た~。

全然取り繕えてないすけど。

職場には最近新しく人員が増えた。

新しく入ってきた人と客の対応がない二人きりで作業する機会があって久々に長い雑談をした。地雷原を歩いてるような感覚。なんという緊張感。そして地雷が埋まっているのは自分の頭の中だ。ウヒャヒャ。自分不真面目でだらしない人間なんですよおっていう情報を織り交ぜないと自己開示できない。なんの予防線なんだ。明かす情報全部が卑屈を帯びている。だから自分のこと喋るの嫌なんだ。口を開けば劣等感が見え隠れする。自意識過剰感にとらわれている自分を意識しながら喋るのも嫌だ。意識が自分にしか向いてないのが嫌。

基本的に話をする時は相手のことをもっと知りたいと思っているが踏み込もうと思うと自動でセーブがかかる、自分がいかに迂闊なのかを知っていて、迂闊さを恐れてるから。僕の一挙手一投足は常に顰蹙を買う対象だという感覚が染み付いていて、実際にそうだと思う。それで、どういう言動が顰蹙を買わない行動なのかを見て真似て、演じるが、ぎこちないし息苦しい。顰蹙を買うかどうか常時気にしながら行動してるわけだから、そりゃそうだろ、と思う。僕の行動は恐怖に支配されていて、僕は恐怖から解放されたいが、なぜ解放されないのかというと恐怖から解放された自分もまた恐れているからで、何重にも恐怖が。だもんで常に自分の緊張した神経に注意が払われており、そこ以外に向けたい視線が塞がれるのが不快だ。それ塞ぐのヤダからやめていこうねというモノローグを延々繰り返してるんだけど、やめたいけどやめられないんだから、じゃあどうすればいい塩梅のとこに落ち着くんだろうねっていう。ここにシフトするのにえらい時間かかってんな。やる必要があると思ってるからやってるんで、必要があると思い続けてる限りはやり続けてるだろう。必要があると思っているところ無理矢理やめさせようとするのは横暴だし、逆効果だし、目的は達されない。

顰蹙買うのを恐れるというが、だいたい実際に頭がおかしいのに「あいつは頭がおかしい」みたいに言われることにビビったり、必死で頭がおかしくないふりをし続けるのはどうなんだ。ていうかふりはふりだから完全に頭おかしくない人になることはできないし、開き直っておっしゃる通り僕は頭おかしいですと言って回ったほうがマシ。いや既にそれに近いことはやってる自覚ありますけど…ていうかそれが本来やりたいことなんだし。でもまあ頭おかしい部分以外にも比較的物分りいい部分もあって、そこは比率の問題なんで…。それで自分の中の感覚を頭おかしい部分とそうでもない部分で切り分けて前者を隠し通そうとするの?でもこの切り分けが全然うまくいかないのでなにがあたおかでなにがあたおかじゃないのかが判断できないんすよ。正常な判断ができない。正常な判断ってなんだ?正常と異常の境目ってどこ?とか一生考えてるからラチあかん。だいたい「頭おかしい」とかそれがもう。比較でしかないし。アイツと比べたらコイツは頭おかしい、みたいな話になってくる。僕を誰かと比べたら誰かほど僕は頭おかしくなくなるんだろうし、また別の誰かと比べたらそいつよりは僕の頭はおかしい、そういう話で、本当にどうでもいいな…。でもどうでもいいと思い切れないからぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ延々考えてるんだろう。思い切りてえー。

環境を構成するしきたりや規則にそむいた価値観とその行動を指して頭おかしいと言うんだったら、その環境における常識に反するすべては頭おかしいのくくりに入る。常識は環境によって違うし、そもそも個人単位で異なる。頭おかしいとか言ってひそひそやるのは異文化理解を根本から拒絶する態度で、僕は理解を拒まれたくないと思うから、ひそひそ言われるようなことはやるまいと思い、でも同質にはなれず、いやなりたいとも思ってなくて、そうやって僕自身異文化理解を拒んでるし。なんで同化=異文化理解だと思ってるのか謎だし。くしくし。へけっ

また同じことぐるぐる書き続けるモード入ってる。もう既にどこかで吐き出した内容をなぞることほどつまらん話はない。なんのために出すかつったらもちろん感情の痰壺的な役割もあるけどそれ以上に情報の整理や状況把握の道具も兼ねてるわけです。あんまそれが機能したことないけど。痰壺としての役割に重きをおいて吐き出された文章はマジでうんこじゃんと思うがそこに含まれた要素を分析したり解体することで得られるデータもあるんだよ!つまらん言うけどデータ云々とかの前に結構僕は感情的になってるときの自分を眺めるのを面白く思っているので別にそこに文句はない。うんこはうんこだけどなんでうんこのことをそこまで嫌うんだ?

だって汚いから…。

僕は汚いと感じる感覚こそが汚いと思う。でもなぜ汚いものを嫌うんだろう。

伝染される感じするからじゃないか、病気を。

感情は病気?

病気病気。

 

どうも現状感じている問題に対して根気強くアプローチすることよりも、現状含めたすべてを無に帰したくなる衝動に駆られる習性があり、従って極端な思想を持ちがち。

問題が起きたら、なぜそれを問題だと感じるんだろう、つって、問題だと感じる感性に対してメスを入れはじめる。それを問題だと感じる感性が求めていることはなんなんだろう。求めているもの、満足は、ひとつの問題が解決されれば満ちるものなんだろうか。生きている限り問題は絶えず起き続け、生きている限りずっとその満たされなさ、渇きに飢え続ける。途方もない話だ、と思って、渇きが起きる感覚自体に、変化を期待する。渇きの感覚自体がなくなることを。なんでやねん。喉渇いてるから水飲みてーっつってんのに。身体の機能なんで。身体をなくせば喉の渇きが満たされますよとか言われてもね。心頭滅却?水だよ欲してるのは。でもそうだなぁと思う。身体がなかったら渇きもないよなぁと思う。水がない状態で渇きにうんざりしてくると、じゃあ身体なくすかぁみたいに思う。いや水を飲め。また希死念慮の話してる。なんかナチュラルに死にたいから諦めの早さオイと思う。手を尽くしてから死んでも遅くないじゃんね。手を尽くすって?どこが渇いていて、なにが僕にとっての水なんだ?そして思いを馳せてみると、人格から生活から限りなく認識全域が砂漠の様相を呈するので、思考停止して匙投げる。投げるな投げるな。

 

感覚が泥のようになっているときほど、高く開けた視界の中に空の色味が飛び込んできたり、木や葉や、濃い影の輪郭だの、花の形だのをじっと見ていると、脳内麻薬がドバドバ出て、これのために生きてたんだあと思う、他はなにもいらないし、すべてが些事に感じられ、些事なんで匙投げちゃう。

自分の書いた昔の記事斜め読みで見返してたんだけど、うじうじうじうじ鬱陶しいなこいつ、演技がかってて嘘くさいしよ。表現の内訳が、芝居じみた部分に重きが置かれすぎててくどいし、中身がない。

厳しいなあ。

でも必死なんだ。演技がかるステップを踏まないとなにも言えなくなるみたい現象あるんだよな。表現ってそうでねーの、たいがい。芝居だよ芝居、なんもかんも。芝居じゃない表現なんてあんのか?

出たよまたすべてはXである論法。AはXである。BもXである。したがって、いかなる場合もXである。

うじうじしてて鬱陶しいのはそれなと思いますけどね、なんか考えてもしょうがねえことを延々水で薄めて飲んでるみたいな、思い切り悪い、原液飲めよ原液。

原液の濃度に耐えられないから薄めて小出しにしてる感じはある。

なんですぐ比喩合戦になるの。

このこれがもう中身がない嘘くさい芝居の典型なんだよ。

すぐ自己言及。

なんか書いとけ感

shita red big

うじうじしてるのが嫌いなのは思い切りが悪いかららしい。思い切りが悪いのが嫌いなのはなんで?

潔くないから。

潔くないのが嫌いなのはどうして?

なんでだろう。すげえ余裕あるじゃんと思ってしまう。なんか切羽詰まった感じがなくてそれがムカつく、その程度の薄さじゃねえだろもっと本気出せやみたいな。原液原液。なんで全力出さないんだよ余力を残すなよと思う。気取る余裕があるならその余力を全力全部出し切る方に使え。

でも僕は全力を出すことの危険性を知っている。

僕は力の制御方法を探っている。

制御方法を探る中で全力の出し方を忘れた。

力は経験の中で調節して体得するものだ。

僕はそれを方法論で得ようとし、方法論を学ぶだけでは習得できなかった、という経験を得た。

いらないよ制御なんかしなくていい。全力だけが純粋で本当だよ。打算や保身に裏打ちされた嘘はもういい、もう見たくない。

嘘じゃないよ。それはそれで本当なんだよ。なんで本当のものと嘘のものがあると思う?嘘は嘘という形で本当なんだよ。

そうだね。

でも言葉遊びじゃないか。

言葉を弄するのは遊びだよ。抽象的な概念を、意味をまとわせた呪文、インクを含んだペン。言葉はインクの染みで、そこに描かれた細部や道具自体を解体して、観察して遊んでる。

うじうじしていて潔くないのが嫌いなのは、余力を残した気取りがムカつくかららしい。余裕があるのが嫌い?

違う。余裕自体は別にいい。余裕から生まれる打算や保身が嫌い。

なんで?

わかんない。それがもたらす弊害を多く見すぎたせいかも。

弊害?

同調圧力、大量虐殺。

多数派と少数派があって、前者が後者を殺すという構図を見すぎた。前者が後者を殺す大半の動機は、少数側に回ることにより殺されたくないから自分の身を守るために多数側につく、多数側に従っていれば誰をどんなひどい目に遭わせても自分の身の安全と利便性を享受できるから、という打算と保身に由来している。だから多数側におもねるような心理全般が嫌い、そういう理屈っぽい。

じゃあ僕が嫌いなのは多数側におもねるような心理なんじゃん?自分の身を守るために誰かの意向に従い間接的に虐殺に加担すること。でもそれで自分の身を守ろうとするあらゆる保身的な振る舞いを打算と呼んでキレるのはおかしくね。

状況や、言葉の意味を大きく…拡大解釈しすぎるから…もっと細かく、分割して見ないと。

「余力を残した気取り」と「多数側におもねる保身」は別物。

そうだ。自分をよく見せようという作為はそもそも気に食わない、汚い部分を隠したいみたいな…恥の観念が。それを汚いと感じる感覚自体を汚いと感じる。

でも、汚いものを隠したいという感覚も同時にある。拮抗する。混乱する。

大変ですね。

大変じゃなくいられないからわざわざ大変にしてるんだと思う。どっちか一方を殺してどっちか一方だけ生かすと判断し、踏み切れてたら全然大変じゃないけど、そうしたくないとも思う。

なんでどっちか殺さないといけないと思ってるんだ?殺さなくていいよ、両方大切にしたらいいのでは?

そうするよ、でも、両者が両者を全力で殺しにかかってきてるからそうでいられない。生き延びるためにお互いを潰し合わないといけないと思っていて、殺し合ってる。

これは?これは気取り?どれが気取り?なにが気取りでなにが気取りじゃないの?なぜよく見せようとすることが気に食わないの?

自分をよく見せようとするのは体面を取り繕うことで、体面を取り繕うのはその体面が通用する相手を見定め相手の価値観、作法に合わせるという目的を持ってのことで、相手の好みに合わせて自分の装いを変えるのは、判断基準を相手に委ねてすぎている、と思う。この人がいいと言ったから自分もいいと思う、という考え方。この人が悪いと言ったから、きっとこれは悪いものなんだろう。思考停止。

相手の好むものを好むのは、相手の好むものを好む、という好みだよ。それは危険だし思考放棄だけど、そういう好みがあるのは別にわかるし、すべての場面で危険で思考停止的ってわけでもない。

好みってか習性って感じするけどね。

自分をよく見せようとするのは、誰か他人に向けてじゃなく自分から見た自分をよく見せようとする思惑もあるから、体面を取り繕うことだけが「気取る」ことじゃないと思う。

美意識高いのが嫌い?

いや。それ自体は別に。でも、自分の中の美意識を自分以外の人間に適用するのはすごく傲慢な感じがする。相手の基準じゃなくて自分を基準にしてるのが。ウエメセ

めんどくせえな…

いやめんどくさいよ。今更?

これらはずっと気にしてることだからこれらをここまで言葉にできたのは前進した感じがした。なんでもないことみたいに言えるようになるのに、できるようになるまでに、時間がかかったけど。数年前だったらなにも言葉にならないままだった、言葉を言葉にすること自体に嫌悪と抵抗があったから。よくわからない。なにもかもよくわからないままだ。ずっと混乱してる。よくわからないものをわかりたかった。でもわかれない。やっぱり根本的な部分で幼稚なんだと思う、現実に根ざしたものの考え方をうまく運用できない。自己嫌悪を自己嫌悪するみたいなのを繰り返す。魔法みたいにたちどころにすべてうまくいけばいいと思った、そりゃ思うよ。でもそうじゃないから。時間をかけてやるしかなかった。結局自分の美意識に障るからなにもかもが許せないみたいな状態に陥りがちなのが苦悩欲の正体なんだと思う。美意識っていうか、セルフ倫理観。個人的な信条。それがあることも嫌だった。でもむずがって泣いてその中身をぐちゃぐちゃにしたまま点検するのを避けようとするからいちいち混乱するんだとわかった。それを避けたのは痛みを感じたくなかったから、それ以上に。その瞬間以上に。今以上に。でも痛みを避け現状維持することもまた自分を許せないことの原因になったから動くしかなかった。自分を許したかったから。根気強く絡まった紐をほぐしていく感じ。