承認欲求、好意を期待される不安、理解の希求
モテについて考える。
なんか、人々がモテたい、承認欲求を満たしたい、と言うのを見るにつけ、なんかしら自分の中に引っかかりを感じるが、それがなにに引っかかっているのかわからないので考える。
僕はモテたいのか?
いや……全然。
うーん、いや、人から好かれると嬉しい。
好かれるようにも動く、というか少なくとも積極的に嫌われるような行いは意識的に避けようとしている。ちなみにブログを書くときは意識的に好かれようと動く意識を避けるよう意識している。
人から嫌われたくないと思う。それは好かれたいということなのでは?
まあそうすね。でもそれは恋愛とは別のベクトルだと思うんだけど。なんていうか、人間としての尊厳をお互いに尊重していることが確認できる関係が欲しいっていうか。それを「モテたい」に含めるのは違くねえかと思うし。これの場合は生存権の死守(人格否定の回避?)って感じで、誰かの特別になりたい、みたいな感覚ではまったくないし。
あ、そう、好かれるのが嬉しいっていうか、話を聞いてもらえる状態を築けている関係がそこにあるのが嬉しい。
誰かの特別になりたいという意識がない?
いやある。それはある。
あるある。
でもそれは恋愛的なものでは無理だ、達成されないと思う。というか恋愛は特別になりたいという考えに逆行する感情だろう。というのも恋愛の主題は"主体が"愛でることにあると思うから。"主体にとって"美しく感じられる客体を"主体が"愛でること。思うに、愛でているのは客体ではなく、美しいと感じられている主体自身の感性なんじゃないのか? 美しいと感じられるものであるなら、愛でられる客体はなんだって構わないわけだ。ならそこにおける客体は全然特別でもなんでもない。唯一絶対の特別ではない。
僕は誰かの特別になりたいと思うが、恋愛ではそれは満たされないと感じているらしい。
"主体の感性に最適化された存在"でなくても好意を向けられていること、が条件に加わっている?
あとしかも、僕は自分が愛でられるという状況にただならぬ居心地の悪さを感じる。褒められる。価値を見出される。そうであるなら、じゃあ僕はある点ではその人にとって価値がある。でもそれが失われたら? その人は僕に価値を見出さない。その人にとっての利用価値がなくなる。僕は「無価値で、いらない、切り捨てていいもの」にカテゴライズされる。少なくともその危険を孕んでいる。この人は僕に価値を見出している今だからこそ愛でているだけに過ぎない。と思う。だから褒められると警戒する。都合の良し悪しで価値がひっくり返るような基準をあてにはできない。そういう良いもの、価値があるもの、有益なもの、であるかどうか、という目線で見られると、非常に不安になる。いつそれがひっくり返るのかと想像して怯える。
僕が好かれたいと思うとき欲しているのは多分、友人としての好意なんじゃないか。友情は個人的な善悪や益不利益や美醜といった価値判断を挟まずにあれる関係だと思う。知的関心。好奇心。僕という人間そのものに興味を持っておもしろがってほしい、そういう感じの「好かれたい」。
人々がどこまで好意という感情にメスを入れて自己を認識しているのかが判別できず、好意を素直に受け取れない。それは僕のどの部分をどう判断しての好意なんだ?
しかも僕からは望んだ通りのものを与え返すことができない。僕がなにを与えられるっていうんだ? 友情的であれ恋愛的であれ、望んだ通りに好意を感じられるわけじゃない。感情はコントロール不可能だ。だから好意に対して必ず好意で返すことは約束できない。好意を返してくれることを期待されるのが怖い。自分には制御不能な部分に期待を持たれるのが。期待に応えられないのが怖い。期待させてしまうのが怖い。期待に応えられないこと、自分が誰かを傷つけ拒絶する行為を恐れているから。ということは同時に、自分が誰かに傷つけられ拒絶されることも恐れているんだろうけど。
えーと。
つまり、僕は別にモテたくない。なぜならモテて満たされたとしても次の瞬間それが失われることを想像して失うことに怯えるから。でも多くの人々はモテを求める。なぜなら一時的にでも満たされることのほうを求めているから。
僕はそこにギャップを感じてるのか?
僕はいずれ失うくらいならはじめからいらないと思う?
いずれ失ってしまう暫定的なものでは満足ができない?
人はそれを「理想が高い」と呼ぶんじゃないか?
そうかもしれん。
>僕という人間そのものに興味を持っておもしろがってほしい
興味を失われることについては恐れてないの?
怖い。でも善悪・益不利益・美醜とかで判断してないんだったら別に受け入れられる。
なんで?
だってそれについてはもう満足したってことでしょ。好奇心は満たされた。もうそれ以上知りたいことがない。欲するものがない。それなら理解できる。欲することがないというのは、良いか悪いかで判断して無価値なものだと切り捨てることとは違う。むしろ理解と受容が完了した状態なんじゃないかと思う。「興味がない」って状態では往々にして「理解」に誤解が含まれている、だからそれを想像すると怖いよ。誤解が怖い。でもそれはそれでまた誤解についての新しい興味が生まれる可能性はあるし。あ、いやでもやっぱり「それ以上理解する気はない」っていう意味の、誤解は誤解のまま放置するってスタンスの「興味がない」は怖い。怖くて悲しい。まあ、でも100%の理解とか自分にだって無理だし、そこは怖いし悲しいけどしょうがないという気持ちのほうが強い。1%でも理解しようという意識が示されることのほうが僥倖だと感じる。
そんな感じだ。
ついでにモテへの疑問でも書いてみるか。
モテ。モテるとはなんだろう。モテたいってなに? モテてどうなりたいんだ? チヤホヤされたい。都合よく愛でてほしい。なぜ? 気持ちいいから? 安心する? そうされないと不安だから? なんで不安なの? 「モテない」のは不名誉だから? 不名誉だとなにが不都合なの? 人から認められないと思う? モテることだけが人から認められることなの? 自分で自分を認められている? 自分が自分で認めている部分を他人にも認めてほしい? なぜ他人を介すことが必要なの? 自分で自分を認めるだけでは足りない? 自分を認めさせることで他人を支配したい? どうして? 自分に力を感じたい? 力がないとなにが不都合なの? 無力だと生き残れない? なぜ生き残りたい? なぜ生きたい?
しらんがな
あっ!誤解を放置する人だ。
うるせえこんなこといちいち考えてられっか!俺は部屋に戻るぞ!
船は沈んでいきましたとさ。
とっぴんぱらりのぷう。