頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

見下し発露、加害恐怖、強迫的他者受容

見下しの感情について考える。

僕は自分が人を見下しがちな人間であるということを知っている。

そして見下されるのが嫌いな人間だということも知っている。

そして嫌いなことをしている自分、という自己矛盾に苦しむ。

見下し。

馬鹿にするとか、価値がないものとして捉えるとか、軽蔑、さげすみ、嘲り、取るに足らないものとして扱う、意義を認めない。そういう反応。

僕は人から見下されたくないので、人に対しても見下すという気持ちを抱きたくない。

自分がされて嫌なことを人にする=人からされてもおかしくない=されたくないからやらない

という図式が頭の中で成立しているらしい。僕が見下そうが見下すまいが、されるときはされるし、されないときはされないのに。

なら僕が見下そうが見下すまいがなんだって構わないことだ。心に生じたことをそのまま受け止めれば終わりだ。僕は今こいつを見下していると認めれば終わり。

なのに認めたくないんだよね、自分が人を見下してるって状況を。

なんで?

それは「偽善的」とか「八方美人」と形容することも可能だと思う。

共通するのは自己欺瞞的だってことだ。自分の心に起きた反応を正直に認めようとしない、否定しようとする、抑圧しようとする。あるいは隠そう、取り繕おうとする。

「見下してる自分」の姿が醜く感じられる?

それは確かにそうだけど、なんか違うな。

軽く扱うっていうところにポイントがあるっぽい。

なんでお前ごときが他人様の価値観を軽々しく判断しちゃってんの? そういうことできる権利があるとなんで思えるんだ?みたいな。

越権行為感。

僕のような自他の線引が曖昧な人間には必要な苦しみかもしれないですね。見下してしまうことへの危機意識。

でもそれを隠しながら接するっていう状況の居心地悪さ半端ないわけで。本音で付き合う気がないわけだから。「僕はそれつまんないししょうもないことだと思いますけどね」っていう表明が有利になることだってあるだろう。

どんどんそれやってけばいいじゃんと思うけどね。リスクない代わりにしんどいだけのぬるい関係を維持するよりか、思ったこと思ったままにぶつける付き合いのほうが僕が求めてるものは得られるんじゃないか。

なんで僕は望んでない方にばかり舵を切るんだろう。

決まってる、見下しの意識を露呈させないことで得ている利益があるからだ。

それがぬるい関係の維持であり、そうすることが「傷つけない」ですむ行為だと想定しているからだ。確かに見下しの表明は紛れもなく人を傷つける行為だよ。でもそれを隠していることもまた傷つける行為足り得るのだ! 本音を隠した付き合いを望まない人の価値観を無視してるという点で。そしてそれは僕のことなんだけど。

なにしてても人は傷つくし、なにをしなくても傷つくときは傷つく。つまり自分の影響力の範囲外なの! だから「こうであればいいのに」っていう(傷つかないでほしい、傷つけないでいたい、傷つけられたくない)みたいな期待が叶うことは100%はありえない。もしそれが叶うとするなら全知全能の神的なアレでつまり想像上でだけだよ。現実は空想じゃないんだって。人間は生身の有機体で他人で自分とは別の存在なんだから。自分と同一視することは失礼に当たるんだ。それはその誰かの価値観を自分の価値観で上書きすることであり、相手の価値観を受け入れないという姿勢なんだから。

ちょっと待て、なんで「人の価値観を受け入れない」といけないんだ? 受け入れるも受け入れないも僕の好みで、僕の勝手だ! 必ず受け入れなければならない理由なんてどこにもない。聖人君子にでもなりたいのか? なんで自分に「綺麗事」を求めるのかわからない。自分が汚れた人間であるということを認めようとしていない。違う、どこかで自分は「キレイ」な人間なんだと、少なくともそうあれる可能性があると思い込んでるんだ、あるいはそうありたいと。だからそういう欲求を自分に向けられる。一ミリも可能性がないとわかれば認識を改めてくれる? だいたいなんで見下しの気持ちを「汚い」と感じてる人間のことを「キレイ」だと思えるんだ? マジモンの聖人君子なら汚いとかキレイとかいう概念で人を区別したりくくったりしないんじゃないのか。それやってる時点で程度が知れてるよ。はい1見下しポイント。

他人の価値観を無闇に否定したくない=見下したくない

この考え方がもう、見下す人を見下してる。否定すること否定するやつを否定してやる! みたいな図式になってきてて、笑える。

混乱するよ。

あ。

違う違う。「受け入れる」の意味が違ってる。「人の価値観を受け入れる」っていうのは「そういう価値観があることを認める」という意味であり、理解するというニュアンス。否定も拒絶もしない全肯定をするって意味で言いたかったんじゃないんだよ。

え? でも否定も拒絶もしたくない、と思ってるのも事実ですよね?

それは「価値観の理解」において、否定や拒絶が邪魔くさくなるときがあるからだ。

いやいや。否定や拒絶をしているからといって「理解」していないわけじゃない。むしろ無批判全肯定で受容しているときのほうが「理解」から遠いときだってあるくらいだ。それを邪魔と言い切ることこそ危険だし、"邪魔"という理由で感情そのものを切り捨てようとする姿勢も気に食わない。

そうだけど……でも、否定や拒絶が「価値観の抹殺」につながりやすいっていう警戒がある。そこからのホロコースト的現象も容易に想起される。

じゃあ否定や拒絶をしないで、一方的に組み敷かれてろってことなの?

そうじゃないけど……時と場合によるじゃんか。

便利な言葉だ。僕は殺されてたまるか。

人格分裂して喧々諤々しはじめるいつものやつ、楽しすぎる。

潔癖症の自分と汚言症の自分が戦ってるみたいですね。

人はそれを葛藤と呼ぶ。

さっさとアウフヘーベンに達してくれません?