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「やりたくないことやってまで生き延びたくない」なら、やらずに死ねばいいじゃん?
っていう極論が常に頭の片隅にあり、僕はどうしてそれにイエスと言わずに済んでいるのか不思議だ。
頭の中がごちゃごちゃするとき。
なにも説明できなくなって、説明できない自分にみじめさと不甲斐なさと無力感を強く感じて自暴自棄になるとき。
箇条書きにして書き出す。それ以外ない。
細かく分解する。
それが僕を助けてきた。
漠然とした不安、漠然とした恐れ、曖昧模糊な輪郭、その断片を拾い集め、なにがその霧を構成しているのかを見る。観察する。
僕は死にたい。でも、生きたくもある。それで、死にたくないと生きたくないが両立して、拮抗して、ただ、今は生きているから、とりあえずは積極的に死を選ばなくてもいいと思う。自分で選ばなくてもいつかどこかのタイミングでは死ぬんだから。それだけが平等。この世の唯一の公平。自分の意志と無関係に降りかかる誕生と死だけが。不条理だけが無差別。
なんだこれ。
こんなことが書きたいわけじゃない。もっと具体的で、現実的で、目の前の生活のことを考え、書かないといけない……。僕は生活をないがしろにしてしまう。生活。生活の連続で命は続いていく。連綿と。
母に、半年だか一年近く無気力かつ無活動でいて経済的損失を与えてしまったことを詫び、これからは自立心を持って自分で金を得ていこうと思いますというメッセージを送る。
定期的に打ちひしがれて無気力になってすべての物事を放り出し自分の内にこもり外界を拒絶し、関係を長続きさせず一方的に打ち切って期限は守らない約束も反故にするそういう人間である僕が、信用に足るわけないのはわかっている。
母はそういう、僕の人間性に対して怒っているんだろうか。
しかし僕は僕自身の人間性を、改めることはできない、なぜなら、今まで人間性を改めるための努力をし、変えようと目論み、あの手この手で自分を叱咤し、時に変われとなじり、時に変わるよう優しく誘導し、あらゆる趣向を凝らして理想像たる自分へ、導こうと、変化を促そうと、試したが、まったく徒労に終わったから。
僕は僕の性質について、それが損害をもたらしたことを詫びるが、できるのは詫びるところまでだけで、性質そのものを矯正することはできない。
生活をないがしろにしてしまうような考え方に怒ってる?
観念的なことにばかり思い悩んでいる。
もっと実際的に生きろという怒りかもしれない。
生きるためには我慢が必要で、我慢をしたくないと駄々をこねるだけの、ワガママへの怒り。