頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

このブログの趣旨として、手足を縛られ目を潰され口を縫われ刃物や銃口を全身に突きつけられた状態から脱するためのわるあがきとして、脳みその中身を半強制的にぶちまけることで封じられた感覚をこじあけるその打開を模索する試みが、目的のうちに大きく占められているのだが、ここに働く強制力は飽くまでハングリー精神を基盤に据えているから、あらがおうという意力がうしなわれたときその希求もおとろえる。自分を救いたいという気持ちよりも体裁へのこだわりや過剰な保身による自己防衛、だれかの権利や利益や事情を汲むことを優先するほどに、ハングリー精神はうしなわれていく。まあ、それはそれで構わない、そういう働きも自然の作用で、それはそれとして初心に戻ると、僕は、自分に向けた遺書、自分に向けたラブレター、自分へのたむけとしてこれらを書いていて、とにかくこれはひとつの歌なわけですよ、歌をおくりたいわけです、自分用に調合した、それは薬であり、毒であり、なぐさめであり、たくわえられた汚物、叫び、願い、祈り、捧げ物だ。自己救済を目的にした歌の、でもその動機に、ハングリー精神や抗う力は、なくても構わない、それがあったほうがエンジンのかかりがよかった、だから利用した。でももう枯渇した。救われたい、抗いたいという気持ちが弱まった。一時的に弱まっているだけで、またすぐ隆起するんだろうか。でも、なにも動機がなくても、ないところにでこそ、歌は歌われるし、踊りはおどられる、舞いは遠くへ、うつわは溢れからになる。意思を離れたところに、求めるものはあって、見えないものを見えないことがわかるところ、明瞭と不明瞭の境が融解したところ、0と1の間に。でも、いつまでもここにいられない。僕はなにを言ってる?喋っているのは僕で、でも僕じゃない、僕は体を任せているだけ、それは最初からそうで、僕は任せてた。なんていうんだっけ、あれだよ、自由意志だ、自由意志だな、それがないことに気づいた。錯覚の連続がある、錯覚のことを自由意志と呼ぶ。アイデンティティだ、自己同一性だ。編みあげられた物語、それはよるべになる、それにすがる必要にもかられる。でも、その物語からはなたれる、教え、命令はとても、うるさいので、耳をふさぎたくなる。でも、いつまでもここにはいられない。