頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

人と関わるのは嫌いだ。

なぜなら自分が口を開くと開かなくてもそれが強烈な悪意となって相手を痛めつけることに繋がるから。

人を痛めつけるのは嫌いだ。

なぜなら自分が誰かに取り返しのつかないダメージを与えてしまうことにひどくショックを受け罪悪感を持つからで、罪悪感を抱きたくないから。

罪悪感は嫌いだ。

それは自分に加害意識と被害意識をもたらすから。

被害者で居ることは嫌いだ。

怯えと萎縮と恨みと妬みを呼び起こすから。

怯えも、萎縮も、恨みも妬みも嫌いだ。

それらを抱いたまま人と相対することは苦痛だ。それらは内的自己によって封じ込めるようにと命令されている。決して表出すことのないようにと。

なぜならそれらは強烈な悪意になるから。

 

自分が取り返しのつかないダメージを与えられるような影響力の大きな人間だと思ってるんだね。影響力を過信しているよね。自尊心が高いね。

え?あくまでも自分にはなんの影響力もないと思っているの?無自覚すぎるよ。当事者意識が低いね。

 

加害意識を持つことにはメリットがあるよ。自分には誰かを痛めつけることができる能力があるということを把握できるから。それがどれだけの威力と効力を持つのかを知ることができる。知れば抑止もできる。知らなければ抑止もできない。

被害意識を持つことにもメリットがある。自分が痛めつけられたとき、それを痛みだと感じたのなら、それは自分の大切にしているものをないがしろにされたという信号で、なにが自分の大切なものなのかがわかる。自分がなにを踏みにじられたくないのかが。わかれば守れる。踏みにじられずに済む手段を考えることができる。わからなければ守ることもできない。

 

人を傷つけるのは悪いことだと言う。信じた。人を傷つけるのは悪いこと。なぜなら、人とは、命とは、尊重されるべき大切なものだから。大切なものを乱暴に扱うのは悪いこと。でも現実に即してない。人は人の尊厳を簡単に踏みにじるし乱暴に扱う。僕もそうだ。あなたもそうしてきた。人はみな人をないがしろにして自分を生かしている。ひとつの命は維持されるために大量の命を間借りしている。尊厳。なにを大切にされたいかは人により異なる。オートマチックに尊厳を尊重することはできない。でも、大量の命、ひとつひとつに関心を払い、関わりを持てるほどのキャパシティがない。疲労は無関心になる。無関心はひとつの暴力になる。目の前でないがしろにされていく尊厳に対して、目の前で消えていく犠牲に対して無関心でいることは、黙認になる。黙認は、暴力に加担することと同義だ。僕がなにかに関心を払わず黙認したとき、それは僕が間接的に暴力を振るったことと同じ。

傷つけることとは、大切なものを尊重しないこと、乱暴に扱うこと。

傷つけないこととは、尊重すること、乱暴に扱わないこと。

 

ナイーブだな。影響力の過信。

でも、わかったよ、尊厳を尊重したいんだよね、乱暴に扱いたくないんだよね、へへへ、無理じゃん、だって存在そのものが乱暴に当たるからな、なにしろ、100%完璧な尊重はありえないわけだから、自分がそこに居るだけで、困らせ、不快感を催し、迷惑で、無礼さを感じさせる、僕は自分をそのような存在だと認識しているらしい、なにしろ暴力への加担を黙認して生き延びた人間なんだ。自分のもたらしてきた不利益を認識していながら厚顔にも自分の保身を選び続けてきた。異質で非倫理的で道理にかなってない。異質さは人を怯えさせる。

高級ホテルの中の浮浪者、禁煙席の中の喫煙者、女性専用車両の中の男性、発展途上国の中の先進国観光者。

僕はある常識をもった人から見たとき自分が非常識にあたると認知している。集団のルール。暗黙の了解。穏便に完結した世界を土足で踏みにじる価値観を持つ。

だいたい僕は、他者から向けられる嫌悪感に鈍感なんだ、だから敏感であるために"自意識過剰"になった。うまくいった。常に誰かに嫌悪されている可能性を脳裏で探してる。それで、嫌がられてることがわかったらどうする?嫌がられてることをやめればいい。やめられなかったら、やめたくなかったら、相手が僕の存在そのものを嫌がったら?対話と説明と交渉、妥協点を探す。平行線だったら?二度と相手の目の届かないところに行く。集団単位で、対話も交渉も届かないところで、嫌がられ続けているときには?

誰の目にも届かないところに行こうと思った。でもそれは無理だった。僕の妄想の中の集団は形を持たないからだった。その集団は僕の想像の中にだけ存在していて、実態がなく、でも確実に存在しているという強い思い込みがあって、実際それは確からしいと思った。こうだ、「迷惑をかけるな。目立つな。和を乱すな。危害を加えるな。空気を読め」迷惑をかけそうになったり、目立ちそうになったり、和を乱しそうになったり、危害を加えそうになったり、空気読めてなさそうだったりすると、病的に恐怖を感じる。身動きが取れなくなる。なにがその場に適したいいことで、なにがその場に適さないわるいことなのかのボーダーラインを咄嗟に引けなくて、混乱する。それは人、場所、環境によって変わるから。オールラウンダーな安全牌はない。随時更新される誰のなにがなんの琴線に触れるのかのデータベースが必要。完璧に全部に合わせるのは無理。誰にも嫌われないのは無理。八方美人は疲れる。しかも僕はいい顔しいな自分が嫌いで、嫌われまいと策略を巡らせることで自分自身から嫌われる。あの、いまだにこういうこと考えてるのに心底ぞっとするんだけど、早く諦めてくれませんかね、誰にも危害を加えないのは無理なんだっつの、迷惑をかけたらかけたことじゃなくてそのアフターケアにスポットを当てることが大切で、危害を加えたくない、とか思ってる限り、自分が危害を加えてしまう事実から、どうにかしてそれを認めまいと逃げ続けるだろう、僕はそういう人間だ、それは嫌なことだ、自分が加えている危害から目を逸らすのは嫌だ、僕は危害を加えるような人間だ、それをわかっていなければダメだ。

自分が危害を加えそうな場面に病的に恐怖を感じるのは、自分の行動が「取り返しのつかないダメージを与えてしまう」と感じるからだろう。なんかやらかしたらすべて終わりだと思ってる。そうじゃないことのほうが多いのに。むしろ取り返しがつかないと思い込むことによって本当に取り返しをつかなくさせていることのほうが多い。思い込み激しいね。知ってた。ていうかまたこれ。この話何ループしてるの、被害だの加害だの、聞き飽きたもういいよ、理屈ではわかってるんだよ。大事なことだよ。何ループでも考えるさ。