頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

不登校児でガチめに引きこもりやってた時期、誰との対話も拒んだ。自分で自分を説明できなかった。すべての社会的要請が不快で苦痛だった。それをどう表現すればいいのかわからなかった。今でもあんまりよくわかっていない。固定観念による押し付けの期待は不快だ。それだけがわかる。でも、完全に固定観念抜きで物事を認識することもできない。そのこともわかる。構造上、社会的要請に応えることでしか生存を維持できない。それもわかる。社会的要請の要求レベルが高い。それがつらかった。説明のできなさに由来する自己放棄的な行為はすべて、我儘、甘えと一括りにされるのも嫌だった。だから説明できるようになりたかった。今でも、そう思ってる。でも、あんまりうまくいっていない。自分で自分を説明するのは難しい。自己検閲が激しいと、これは言うべきではないという意識が邪魔をして、発言がいびつになったりする。以前は、発言にいたる想念の段階で検閲が入って、今よりもっと発言は困難だった。

引きこもり。母は僕が引きこもりから脱することを望んでいた。僕もこのままじゃいかんやろなと思った。膠着していた。この先を生きるための能力がないから、善くない。善くないから、矯正が必要。それで、この先を生きるための修復方法を知りたかった。生き残るには社会参画が必要で、でも、社会参画が苦痛だった。苦痛に感じないためのなにかが必要だと思った。自分に力が足りないのが善くないと思った。力があれば生きられると思った。僕は力を求めた。知力、処世術、権威的肩書きだ。それを欲した。それらを得られるよう渇望した。具体的には、勉強という行為自体に固執したり、人付き合いへの苦手意識を克服しようとしたり、難関校進学を志したり。それらへの渇望と並行して、そんなことしてなんになんの、という諦念が常にあった。そんなことしたくないんだけど、っていう。それは今でも思う。がんばって努力して目標と向上心を持って生きるという戦略が、根本的に合わない。それに気づけた。合わない方法を無理して施行する理由はない。向上大好き成長を感じられないと生きてる気がしない!みたいなのが根っからの性分であれば向上を志すのは自然だけど、僕は、そうじゃない。そりゃできないことができるようになるのを楽しく感じる瞬間はあるけど、それは結果的にそうなるってだけ。向上を目的とした努力じゃない。なら、身の丈にあったやり方でやる。僕はもっと適当に生きたい。今はとにかく、肩の力を抜きたい。安定や快適さを捨てても安心は得られる。安心。自分はなににも脅かされないという確信。脅かされても平気であるという感覚。そうだ、ずっと安心を求めていた気がする。