頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

今日もまた日が暮れる。

一日が終わる。

眠りに落ちるたびに意識が消えて、気がついたらまた意識が戻っている。

不思議なもんですね。

前の日の記憶がわずかに残っていて、前々日となると危ういけど、ずっと遠い前の日のある一瞬の記憶が、焦げのように落ちずに残ったりしている。

連続性。

記憶の不確かさ。

とりあえず前の日の続きをやるという流れ作業で人生を生きてる。

前回のセーブデータを読み込んで続きをプレイ。

僕は、大昔のセーブデータを頻繁にロードしてはその続きをやって、かと思うと最新のデータをロードしてその続きもやって、みたいに並行して生きてる感覚があって、大昔のデータっていうのが、悔いとか罪の種の類で。わからないけど最近は、その古いデータにアクセスする頻度が減ってきている感じがする。根源的に、自分を許せないという感覚が鈍くなってきてる。感覚の恒常的な変化と、単なる気分の違いがわからないから、今鈍ってるだけなのかもしれないけど。

まず、自分は自分を矯正しようという思想にとりつかれている、それに自覚的になった。「改善しなきゃ。もっとよくなれる。よりよく生きなければ。よりよい人間でありたい」

それから、自己矯正的な思想を憎み、拒絶した。「善くない自分を、善くないといって責めるのにはもううんざりだ。そうだ、実際に善くなどはない。だからなんだっていうんだ。僕は善じゃない、それは確かだ。だが悪である、それを理由に暴力を振るうその姿はおぞましい」

今はそのどちらもが拮抗してある。

いいよ。僕が善でないという理由で殴りたいなら殴ればいい。僕は、黙って殴られてはいない。僕は自分が善ではないことを理解している。暴力で、僕は変わらない。変われない。僕は、善にはなれない。殴られたら、殴り返すこともできる。僕は従順ではない、でも、時にひどく従順になる。僕は我が強い、でも、自分がない。僕は自分の利を最優先に動く、でも、不合理な選択を選び続けてきた。僕は誰の思い通りにもならない、そして、自分で自分をコントロールもできない。僕はただ、好ましい感覚と、不快な感覚を感じ分けた。春には日向に、夏には日陰に、塩梅のいい環境を見つけて眠る動物のように。自分にとって好ましい感覚を手探って生きてきた。それだけだった。

無自覚に、自分は正されるべき間違いだらけの存在だという思い込みがあった。その思い込みは絶対的で不変だった。だから間違いを正したいと思った。それで間違い探しがはじまった。改善点探しが。正義の名の下に虐殺がはじまった。昔々のお話。戦争は終わりだ。正されるべき自分などいない。間違いなどない。正誤、善悪、それは夢。泡沫の夢。昔々、誰かと同じ夢を見ていた。共同幻想という夢。

 

破壊と創造。

破壊も創造も、行為が違うだけで、目的は同じなんじゃないか。生と死が似ているのと同じだ。生まれるというのは無を死なせるということだ。無が死んで有でありながら生きる。有が無になり死んでいく。でもそれは無の誕生だ。

なにかを壊せば、破壊が完成する。なにかを作れば、未完の状態は壊される。