頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

日記。

昨日は一週間というブランクからの出勤で雑巾のようになって帰ってきた。

外に出た瞬間、家の中にいるときよりも気力が1.2倍くらいはマシになる。

気力というか、止まっているとやばい動かないと死ぬという本能。引きこもってる間は真逆で、動いたら死ぬという本能ですべての行動に重力の重しがかかっている。一挙手一投足に全力のエンジンをかけないと体を動かせるモードにならない。備蓄の火種がないので火がつかない。必死に火種をかき集めてなんとか小指ほどの炎を焚く。シャワー浴びて飯食って寝た。

爪に火をともす…………。

今日も働いてきた。

アホほど寝て睡眠時間自体は長く取れたのに、2時間おきくらいに目が覚めては、記憶にも残らないような雑多でぐちゃぐちゃな夢をたくさんみる、浅い眠りだった。

 

そういえば先月の給与明細もらいそこねてる。

 

フリマサイトがタダで配ってたポイントで落札した本が帰ったら届いてた。バイト先の同僚先輩がすごく好きと言っていた小説。気になってて図書館で借りようと思ったけど人気な本らしくて若干読むの諦めてた。読んでみるか。

 

掃除が終わって帰り際に、参拝客と話をした。いつもはたいてい二、三言用件のみのやり取りに終始するけど、今日の人は人懐っこく食い下がってきたのでしばらく喋っていた。東南アジア人で近所でお店をやってるらしい。名前を教えてくれて、発音を日本語で例えていた。「水」「力」「東」……。

 

職場のえらい人に「休むときは出勤時間より前に連絡してもらわないと無断欠勤扱いになって、解雇の理由になるよ」と険しい顔で注意を受けた。すんません。持ちうる限り最大の悲壮そうな表情で神妙に謝っておきました。あの連絡を入れるのにどれくらいの激痛を伴い、どれくらいの血を精神から流したのか、わかってはもらえないだろう。詳しく事情は聞かれなかったし、自分から説明するにしても、伝えたところで言い訳にしか聞こえないだろうなと思って黙っていた。いや黙るなよ説明をしろ。無茶言うな。無茶じゃねえだろ。いや、まあ無断欠勤です、実際のところ。あとから連絡を入れただけでも立派なもんですよ。えらい人が枕詞に使っていた「社会人」という言葉が僕には「善良な奴隷」という意味に聞こえた。ここで一発叱っとかないとな、社会人としてあるまじき行ないだということを教育するためにも、という"社会人"としての"善意"を感じた。いい加減まともに労働に従事してる"社会人"を奴隷とかいって見下すのをやめろよ。見下してるわけじゃない、なんでガチガチな規則に縛られて規則のために生きるみたいなシステムを是としているのか疑問に思ってるだけだ。なんでなんだ?

雇用契約に違反したんだよという通達。ルールの提示。僕は自分の肉体と精神と命を優先した。その結果ルールを破った。それだけだ。あなたがたのルールを破った、それは悪いことをした。迷惑をかけた、悪事を働いた自覚はある。でもそれ以上に自分のルール、自分の命を優先してしまった。それを悪いことだとは思わない。

 

歩きながら聞いてるラジオの中で回避性パーソナリティ障害の話が出た。

「その病状と定義は、社会的活動の抑制、自分は"ふさわしくない"という感覚、否定的な評価に過敏になること。1人でいると安心するものの孤独を感じる。繋がりを求めるものの親密になることに恐怖を覚える。他人と関わる際に膨大なエネルギーを使っている。恥をかかないように、普通に見えるようにという一点に全意識が集中。身体的に傷つけてくるとは思わないまでも、他人に対してはかなり懐疑的。恐怖と欲求と自己懐疑を軸に、"人であること"に苦心している」

………。

以前読んだ、回避性パーソナリティ障害の本のことを思い出す。『生きるのが面倒くさい人』。以下は読んだときのメモ。というかほぼ引用。

「悪循環から脱するためには、自分を隠そうとする行動から、自分を出していく行動に少しずつ切り変えていく必要がある。立派な自分以外は恥ずかしいという思いがあると、ありのままの自分を知られたくないために、距離をとって表面的な付き合いに留まってしまう。背伸びをやめて、困っている自分をそのまま出せれば、状況は変わってくる」

「他者ではなく、自分が決めることから逃げないこと。自己決定をしないでいると、なんとなく誰かに任せてしまう。なんとなく誰かが代わりに決めて、誰かが代わりにやってくれることを望む。そのようにして、行動以前に自らなにかを決定することから逃れているのではないか。回避から脱するには、主体性を取り戻す、自己決定をすることが重要」

「悪循環から脱することができるようになると、不安がなくなり、ブレーキをかけすぎなくなる。自由に動けると感じ、他者の意向や顔色に縛られなくなる。自分で決断、行動することが楽しい、いろいろな挑戦をしたい、好きなように生きてよかったのに、なにをあんなに恐れ、遠慮していたのかと感じ、目の前にある時間をもっと大切に使いたいと思えるようになる」

 

先月の終わり、つまりおとといは、映画を見に出かけていた。まだ微妙に回復しきっていなくて、移動中電車の中で朦朧としていた。電車に乗っていると年に二回くらいの頻度で謎の症状に襲われるんだけど、それがキそうになった。乗り物酔い、強烈な吐き気、悪寒、発汗、発熱、全身のしびれ、めまい、視界のチカつきが一気に来る。キそうになっただけで、症状は乗り物酔い、吐き気、悪寒、発汗でとどまっていた。過去体験したのは夜行バスの中で一回、電車の中で二回。ひどい目にあった。結局この症状がなんなのかはよくわからん、乗り物酔いのひどいバージョンなのか?

映画館は都内近郊のミニシアター。好きな絵描きの人がアフタートークで登壇するというので見に行った。なんとも気味の悪い映画だった。ヒューマンドラマで、4つのストーリーを1本の映画の中で展開させるオムニバスな内容。どの話もおおよその人間関係には恋慕の情が絡んでいて、まったく趣味に合わない。またこれか、と思う。恋愛、恋愛、恋愛だな。まあ、全体の雰囲気は嫌いじゃない。アレだよ、画面全体がぼやっと生成り色で、もたいまさことかが出てくる系の雰囲気。いや、荻上直子じゃなくて岩井俊二のほうがテイストが近いかもしれない。ストーリーには一見して大きな起承転結も明確な説明もなく、淡々と主人公の日常をカメラ越しに追って眺めることになる。ちょっとしたやり取り、ちょっとした感情の機微、表情。そこから全体で起きていることや細かな情報が組み上がってきて、終わりを迎えるころにああこういう話だったのかとなんとなく話の輪郭がわかる。AがBだからCになった、1+1=2、みたいなわかりやすい形じゃないにしろ、なんらかの因果によってなんかこういう結末に至ったは至った、ともあれそこに至った理由や経緯それ自体じゃなく、この結末に至るまでの体験や時間の流れが重要だったんだよ、的な。見た人が好きに行間を埋めていいですよスタイル。そのスタイル自体はわりと好みの範疇なのに、ここまで絶妙にズレてくるか、という感じで刺さらなかった。あたかもそれがセクハラじゃないかのような空気を醸し出して、おじさんが女の子に性的な言葉を使ってうざ絡みして来るシーンとか、走ってる女の子の胸元と足元をカメラが集中的に映すところとか、熟年夫婦が延々いちゃついてるだけのシナリオとか、胸焼けがした。セクハラおじさんはそのセクハラに意味があったっぽいから必要な設定だったんだねと思うけど、その設定を持ち出してきて描きたかった話が、恋慕や性欲や好きとかいうきもい感情を自分も持ってることがきもくて自己嫌悪、きもいって言いたくなかった相手にもきもさを感じてしまって自己嫌悪、みたいな、ひたすら女の子が苦しむ話っていうのが。気分悪かった。あと、歌手の女の子がひとり、父の残した写真を手がかりに、写真の中の場所を探して旅をするという話があった。話の筋だけ見ればすてきですねという印象なんだが、偶然気のいい親切な中年のおじさんが足になってくれて、しかもそのおじさんは偶然女の子の知りたがってる場所について詳しくて、偶然予定も空いているので時間を気にせず旅に付き合ってくれるという、とても都合のいい展開に笑ってしまった。それはまあいいんだけど、こんな気のいいおっちゃんに対して女の子は、必要最低限の受け答えだけで会話を済ませる。基本的に自分の世界にこもりっきりで、自分のことについて説明もしないし、まともに相互理解を図らないという強気の態度。オイオイ。この前後に女の子がかねてからの知り合いとは至って普通にやり取りしていることから、会話が苦手ってわけじゃないことはわかる。人見知りなのか。そのわりには初対面の人の親切に乗っかるくらいの度胸はある。その図々しさと心の閉ざし方加減が……とても自分に似ている!激しく同族嫌悪した。僕は自覚しながら自分の世界に閉じこもってるけど…おまえそれ、ごっつ失礼な態度やぞ。自分に関心を寄せている人間が目の前にいるのに、気づかないふりや無視というテクニックを使って、寡黙な態度で場をやり過ごそうとするのは、すごく失礼なことだと思うんですけど。めちゃくちゃ嫌な汗かきながら見てたわ。あとこの歌手の女の子の話は唯一恋愛が一切絡まない、ようにみえる話なのに、他3本がバリバリ恋愛かましてる話だから、これもそうなんじゃないかと疑って見てしまい、親切なおっちゃんは単なる隣人愛や協力精神、親切心からじゃなく、恋慕や性的な好意、つまり下心から女の子に手を貸しているんじゃないかと思うと、もうなにも信じたくなくなりました。総括として、性嫌悪者向きの映画ではなかった。なにが嫌いかじゃなくなにを好きかで自分を語れよ!!!!!!!すいません。それにしても、好きな絵描きの人これ好みなんだ、趣味合わんわー!!!!と思った。映画見終わったあとで絵描きの人が描いた映画のファンアートをもう一回見直して、いい絵だ…と思った。あとアフタートークで監督が、絵描きの人にその場で初めて対面で会ったらしく、「事前に想像してた人物像と違う」といって狼狽えてた。おい、失礼なやつだな、と思った。その発言にその後特にフォローも入れないし、むしろ、想像と違う人だったからどう話をしていいのかためらってる、みたいなことまで言い始めて、無自覚に人間を見た目で判断する人だヒエーッと思いました。僕は人間を見た目で区別して態度を変えるやつを信用しないです。まあ自分が完全にそれをしていないとは言えないし、自分には差別心がないとも思ってない。差別はしてるだろう。でもそんなあからさまに態度に出さんよ。とここまで考えたところで、自分の狭量さ醜さに自己嫌悪を一回挟む。差別を意識しながら隠してる人間と、差別してるけど正直にそれを明かしてる人間だったら正直なほうが潔いぶん好ましいのでは?一方は差別を罪だと認識しているから隠している。一方は自分の差別に無自覚だから正直で居られる。差別を認める、自覚しつつ正直でいる、のが一番潔い姿だと思う。でもそれはスタートラインであって、その先の関係性、相互理解の目的が前提の関係性を築こうとしている意思がないなら、差別は単なる差別で終わりだ。ともかく、監督は正直だった。絵描きの人はそれに対して苦笑していた。それだけ。それだけだ。あくまでそれは二人の間での話であって、僕は部外者。部外者が勝手に感情移入して勝手に憤ってただけです!

気付いたらめっちゃ長文打ち込んでてわろた。

文章書かないと脳の機能が衰えるから……脳トレっす、脳トレ。もしくは排泄。出さないと詰まって苦しいから。