頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

今日も人と喋った。例の喫茶店。基本、人と喋るのって自分にとってイレギュラーなことなんで、この一ヶ月内で立て続けにイレギュラー起こりすぎてて感覚麻痺ってる。起こったというか、意図的に起こしてるわけですけど。

一個気づいた自分の変化として、罪悪感の軽減がある。それも、大幅に減ってるみたいだ。バイト初日から数日の間は、まだ強かった。緊張もあったんだろうけど。いくつかミスをして注意を受けた際局地的に強まった以外は、常時感じてたあの息苦しいほどの罪悪感がない。リラックスとまでは行かないけど、ガチガチでもない。ただやっぱり、相手や環境による気はする。罪の概念を共有してこようとする場所や人を相手にするときは違うんじゃないだろうか。いや。うーん、そうでもないかも。今なら結構受け流せそうだ、ああそう君はそう思うんだ僕はしらんけど、つって。前までは、受け流すことは不可能だった。受け流すことができる/できないとかそういう次元じゃなく、まともに共有しちゃって飲み込まれて一体化してて。罪の概念から離れている自分というのが居得なかった。今はそうじゃないらしい。罪の概念から距離を取ることに成功したのかな。

今日、初めて人に自分はXジェンダーだと名乗った。相手が先に自称してたから自分もそうだよという形で。僕はでもXジェンダーっていうのを、僕の性自認が男でも女でもないってニュアンスを伝えるための道具として使ったんだけど。Xジェンダーって肩書きを自分のアイデンティティの一部として提示したかったわけじゃない。相手の人はそうじゃない、Xジェンダーであることが自分のアイデンティティの一部みたいだった。いや、その人だけじゃない。男だの女だの、性別の概念を自分のアイデンティティに組み込んでる人は大勢いる、ていうかまず9割9分はそんな感じで、辟易する。それと同じニュアンスで、自分はXだと言っていた、ように僕は受け取った。えっと、性別をアイデンティティに組み込まないというのはつまり、自分という人間を構成する要素として性別は無関係だと僕は考えてるってことだ。音楽が好きとか、甘いものが好きとかいうのを自分を説明する道具として使いはするけど、音楽が好きだから自分って存在があるわけじゃない。自分って存在が音楽を好きなときもあるというだけで。音楽を好きじゃなかったとしても自分は自分だろう。音楽を好きだから自分なんじゃなくて、自分が音楽を好きなんだよ、順番が逆。伝わる?これ。 えー、じゃあなにによってアイデンティティは構成されているのかというと。これが自分だと説明できるものを全部剥ぎ落としていったところにあるものがアイデンティティだと思う。今そこにいる自分だよ。それがすべてで、それ以外の要素はおまけみたいなもんだ。政治家だから、マイノリティだから、大企業の社長だから、西成のホームレスだから自分なんじゃねえよ、今そこにいる自分を自分と認識している、意識が原型で、それ以外はあと付け。肩書きは肩書きでしかない。A型だとか不細工だとか、頭がいいとか小金持ちだとか、そういうのも全部肩書きだ。男だ女だっていうのはそれと同列で、肩書きの一種だよ。存在は存在でしかない、関係ない。僕は人を好意的に思うとき、肩書きを取っ払った先にある君を好きになるんだよ。肩書きを好きになるわけじゃない。それで、自分という存在を肩書きでゴテゴテに着飾った人間と接するのに、僕はひどく戸惑う。

ところでそのXの人は、かなりアグレッシブで行動派な人だった。シューカツと演劇と映像活動をマルチタスクでこなす、小説も書くし仲間内でリーダーシップも取る。体力おばけじゃん。他人と会ったり話すことでエネルギーを回復するタイプだと言っていた。身を投じるいろいろな活動の中に、Xジェンダーについて説明して認知度の向上をはかる活動も機会次第で入っているらしい。宝石販売の仕事と、手相占いと音楽活動と俳句を嗜んでる人とも話した。あと大学生で、同窓の友人に片思い中っていう恋愛活動を楽しんでる人とかとも。共通して、皆やりたいことがハッキリしており自分を主張するのに抵抗がない。各々の人生を今まさに生きている最中だという熱量を感じた。同時に、自分を説明することの慣れっぷりから「肩書き」に沿って生きている印象も受けた。自分が先なの?肩書きが先なの?肩書きがなかったらそのとき君は君でいられないの?

肩書きが先?なんでそう思ったんだ?え?自分先行じゃねえの?その結果ついてきた肩書きだろ。多分。で、説明するのに便利だから肩書きを道具として活用してるだけだ。自分が身を投じているもの自分の好きなものは自分を構成する一部である、なんて誰もなにも言ってない、そう思ってるかどうかもわからないのに、僕が勝手にうがった見方で自己都合解釈してるだけだ、雰囲気で邪推して邪推をもとに疑問を呈すなよ。
すいません。
ていうか、これは自分自身への疑問でもある。生きている以上肩書きからは逃れられんよ。肩書きが悪いとかそういうことを言いたいんじゃない、そいつを扱うもっと別の方法があるんじゃないのかと思うだけだ。僕には自分に対して自分を説明しようするとき、表現するとき、言葉にするとき、肩書きを用いる癖があるだろう。引きこもりだとか、低学歴だとか、罪人で、臆病で、打たれ弱くて卑屈で卑怯で、云々。それを自分の一部として組み込んでるんじゃないのか?え?どうなんだ?
そうですね。

会話中、僕はもっぱら聞き役で、でもあの気まずい沈黙がほとんど生まれない、皆絶え間なく喋る。自分のことを喋りたいという欲、喋ることに抵抗がないという姿勢に気圧される。沈黙を生みたくないって気持ちからくるマシンガンなのかもしれない、と想像する。なにも話さないでいて気まずさを味わうより、自分のことでもいいからとにかく話題を作って喋っているほうがマシという動機。自分だったらそういう動機でやるという自分を当てはめたパターンにおける想像であり、それが当人たちの動機まさにそのものだと思ってるわけじゃない、もちろん。僕は会話において、自己主張をするよりも沈黙を味わう方を取ってきた、今まで。なぜなら、自己主張は危険な行為だから。それをすることは、恐ろしく、悲しく、痛みをともなうことだから。人々はその恐怖や痛みを克服している。そうしてでも自分を主張する必要とその利便性を理解している。それが無意識にだったとしても、体でわかっている。僕はそのことに心を動かされている。僕はまだ自己主張に対して怯えを持っているが、それも罪悪感と同じように徐々に、薄れつつある。そして、でも、そのことがまた恐ろしい。僕はただでさえ鈍感なのにまた今以上に鈍感になって、人を重んじる気持ちを忘れてしまうんじゃないかと。そして自己主張に抵抗のない人々の中に「そういう」部分を見出し、疑問を持つ。どうやって自己主張することに対して自己正当化しているのかと。僕?僕はあれだよ。自己主張しないでいるのは苦しい、でも生身の相手に手の内を明かす過程で心ない扱いを受けるのもゴメンだし、自分を露出することで不快がらせるのも、しのびない、だからこういう自己完結可能な領域で自己完結的に主張する。
は?全然自己完結的じゃないだろ、ネットにアップロードしてる時点で。
そう。だからこれは特定の相手を想定しない自己主張。誰かが見て、読んで、不快になる。少なくともその可能性がある行為を実行している。違う!生きていることそのものがそうなんだ!実際そうなんだ!誰かを殺して、奪って、不快にさせて生を、表現を得てるんだよ。でもその誰かは、僕には見えない。だから顔見知りであるとか、お互いがお互いを認知してる状態より「スイッチを押しやすい」。一種の、アイヒマン実験だよ。段階を踏むんだ。で、最終的にはスイッチを押すんじゃなく、直接自分の手でことをくだせるようになる。でも、自己主張は自己主張だ。生きているということは、奪い、殺すことだ。スイッチを押していることに変わりはない。電撃が誰に当たってるかがわからないだけで。生存権を勝ち取ること、自己主張をするっていうのはそういう覚悟が必要なものだろう?僕はそう思ってる。人を殺すことと同義だよ、自己主張は……。まあ、その電流が誰かにとって威力が微弱だったり、まったく痛覚に引っかからない刺激未満の電流だったらなら、ありがたいよ、心が晴れる、寂しいけどね。刺されよって思ってるもん。僕の牙がどこかの誰かに傷をつけることを望んでるよ。だってそれが自己主張の動機だしね。ひどい欲求、ひどい期待だ。しかも、自意識過剰がもたらす期待。でも、実際微弱だよ。取るに足らない。刺激にも満たないよ。そうだろう?
また自虐か? こりないね!