頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

忖度の枷、異文化理解への逆行、封殺恐怖、共存という理想

人コワイについて考えてみるか。

対人恐怖症っていうとなんか大げさなんだよな。程度のひどい病状が出るとか、まったくできないとかいうわけでもなく。無理すれば多少は人付き合いもできるし、会話も支障なくできる、と思う。

支障なく? いや支障があるから困ってるんだっけ?

どう支障があるか?

それはこうだ、どこまで自己開示していいものか逡巡があり、逡巡しているうちに本心と違うことを言ったり「気を遣ったり」して、まったく自分のやりたくないことをいつの間にかやってしまっている状態に陥るのが。

で、それを避けようとする意識もまた強く、自然、人との会話や人付き合いや人間関係を築くことに対して悲観的・消極的になる。し、避ける方に避ける方に思考も行動も連動して、実際避けて。こうやって立派な引きこもりに。あはは。

しかし人を避けると自分にとって不都合がある。なぜなら現代社会に置いてコミュニケーションを取らないでいるという状態はあまりにも不便で不都合なことが多いから。

え、なんで? だいぶ引きこもりに優しい世の中だよ? ワンクリックで買い物もできるし人間らしい会話も絶対特別必要ってわけじゃない、いくらでも逃げ道があるし基本的には事務的なやりとりで終始可能だ、コミュニケーションは。不便でも不都合でもないじゃん?

いいや。不便だね。なぜなら自分の意思を表示したいという気持ちが常時抑圧されているからだ。ここでこう言いたいな、と思う。でもこれを言ったらどう思われるんだろう。不快に思われたくないな。不快にさせてしまったら悲しいし本意じゃない、わかりあえないことは一般的に敵対とみなされる、僕は別に誰とも敵対したいわけじゃないのに。こういう考えがいつもいつもいつもいつも巡ってる状態で人と接することになる。

あーうん。そうだね。それで、なにがこの人にとっての不快でない表現なんだろう?と必死で想像を巡らせて発言をするんだよね。ところで、いくら不快な表現を避けようと、誰にとってなにが不快に当たるか、というのは表現してみるまでわからない。そうだよね? 反対に、なにが好みであるかもわからない。それは僕の想像の範囲外の、相手の価値観であり、じゃあ僕は相手の価値観を確認しようとせずに勝手に推し量って喋ってるってことですよね。勝手な想像で相手の価値観を作り上げて、それを基準にして話をしようとするのは、すごい失礼な態度じゃないのか?

とか考えてますます口下手になるよね。あーあーあー考えすぎ考えすぎ考えすぎ。わかってるよ! こんなこと考えずに体でぶち当たって良好な人間関係の築き方を学んだほうが早い! 傷つけ傷つけられながら一進一退することのほうが……。でも僕は臆病なんだ。小心者で、卑怯で……またはじまった、いいよもう自己憐憫は、飽きないのか? 僕は飽きた。すいません。

ということで、なにが誰の不快に当たる表現なのかを気にして気にして気にして気にして発言できなくなる、発言に対して消極的に、自罰的に、悲観的になる状態を避けるため、なにが誰の不快になるか想像せずに書く練習をしているわけですここで。

練習? 実践だよ!

ポリティカル・コレクトネスっていう概念が広く認知されだして、あっ僕がいつも頭の中で苦しんでるやつが今まさに広がっていこうとしている、人々に共有されそれを是とし実行する人が増えることになる、と思ったとき、すごく複雑な気持ちになった。だって、誰かを傷つけたくない、不快にさせたくないという気持ちを出発点にしている考え方なのに、それやることで実際は真逆の結果を引き起こすことになるんだよ。価値観の相互理解から遠のく。コミュニケーションの断絶。腫れ物を扱うように接しあうより、傷まみれになってでもお互いの考え方を正確に理解し合えることのほうが(理解とは、もちろん共感や同意とはまったく別の意味)僕にとっては望ましいから。

そう思っているのに、僕は自分が傷ついたり、誰かを不快にさせてしまう状況に対して臆病であるあまり、結局ポリコレ的に振る舞うことになる。嫌なのに。そんなことしたくないのに。誰かを傷つけても自分の考えていることを嘘や忖度なく正直にきちんと言葉にできているほうが、息苦しくなくなるための一歩だと思うし。

話長いな。別に自分のここが嫌い気に食わない!っていういつものアレやりたくて書き始めたわけじゃないのに、結局いつの間にか自分への不満に収束していくのが嫌だ。っていうこれも自己嫌悪のひとつだし。あっ! 無限ループだ。

結局なにが言いたいんだっけ。

えっと、僕は人とのコミュニケーションにおいて自分とは異なる価値観をいかに理解し、その過程を楽しめるかってところに重きを置いてるんだけど。でも、まず自分の中に起きる反応として、反射で「え?それおかしくない?自分とは違うな」とか「珍しい、そんなの見たことない。どういうものなんだろう?」とか「こういうことってこの人にとっては普通なのか?僕にはまったく受け付け難いんだが」とかって感情が起きるとき。それを表現しないでいるっていうのが僕がすごくすごく会話下手な理由だと思ってんだよね。だってそこ出発にして理解が進むこともあるし、純粋に興味から出発しているのは確かなんだから、これって「失礼な態度」かもと思って「遠慮」することが自分の興味を殺すことになるんだよね。で興味が死んだ状態で話してても自分も楽しくないし相手も楽しくない、なんにも自分が望んでない結果になるんだよね。それが悲しい。いやそれで楽しい相手もいるかもしれないけど。だって基本的には相手の価値観を否定したり疑問視しないっていうスタンスだから。でもそれは自分の中の否定的な気持ちや疑問を無視し続けてること、自分の腹の内を抑圧してる状態だから、自分が苦しい。し、それを隠されている状態で「この人は私の考えに否定も疑問もないってことは私と同じスタンスなんですね、私を受け入れてくれているんですね、同じ楽しみを共有できる人なんですね」みたいに相手に誤解され続けることになる。あるいは「なぜ取って付けたような言葉でしか会話してくれないのだろう?なぜ自分の考えや感想を述べてくれないのだろう?この人は私に興味がないのかもしれないな」みたいな誤解や。そう、ずっと誤解が続いてる状態の関係になっちゃう、それだ。それが嫌。誤解を解きたい。でも、興味を持たれたくないって人もいるわけで。ていうか第一僕に興味ない人が、僕が熱心に誤解をとこうと熱弁しはじめたらその時点でドン引きだろうし。

とか考えるよね~考えちゃうよね~めんどくせえ。しかし僕は元来面倒くさい人間なんだ。それは変わらない。変えようがない。しょうがないですね。

結局お互いに、傷つける覚悟も傷つけられる覚悟もある人間同士でしかコミュニケーション、っていうかなんだろう、これだと意味広すぎるよね。対話が適当? 対話は成立しなくて。で、自分が対話したい、と思ってるのに、傷つけるのはもちろん傷つけられることも恐れて臆病になっていたりだとか。実際に対話っていう踏み込んだ関係が求められていない場所においてもそれを求めてしまって、結果達されないっていう状況をフラストレーションに感じたりとか。そういう部分を自分一人の頭の中できれいに落とし込めなくてぐちゃぐちゃして集約された言葉が人コワイ、なんですよね。

そうそうそうなんですよ。あーすっきりした。

すっきりしたのはいいけど大事な部分が抜けてるんだよね。

人を傷つけるのがコワイ!っていう部分に注目して喋ってたけど、そっちよりもっとずっと、自分が傷つけられるのがコワイ!って部分の方がデカいよね。

「へー変わってるんですね。どうでもいい。自己陶酔お疲れ様です」「常識を欠いている。気持ち悪い。理解できない」「バカだ。バカなのは恥ずべきことだ。こいつは恥ずかしい人間だ」みたいな。

自分がそれを言う勇気もないし言われる勇気もない。絶対こんなこと誰にだって言われたくない。じゃあなぜその言葉を自分に向ける? 結局僕は自分に酔ってるだけ。外から見てみりゃキモい異常者に違いない。おまけに頭も要領も悪いから人の足を引っ張る足手まとい、云々。あー言いたくない、言いたくないさ、それはまさしく絵に描いたような人格否定だから。僕は人格否定をしたいわけじゃない。非難したいわけじゃない。攻撃してウサを晴らしてそれで満足したいわけじゃない! もっと根本的な部分と向き合いたい。こいつはこういうやつなんだと決めてかかった状態で話を勧めたいわけじゃないんだ。そしてそれは自分に対してもだし他人に対してもなんだよ。

僕は僕をこういうやつだと決めてかかって話をするのが嫌だし、これまでずっと、そうし続けてきたことを、今では意識的に避けてきたつもりだ。その結果自分自身とはまともに話ができるようになった。その状態に至るまでは一方の自分が一方の自分の口を塞がせるために一方的に殴って殴って殴って終わり、みたいな地獄絵図だったけど。今でも自分を人格否定しないことが100%ないわけじゃない、でも話をまったく聞かずに一方的に口を封じるなんてことはもうしていない。

ああそうなんだ。そうか。それで他人と接するときでも「口を塞がれたら」というところを想像して過剰なまでに諦めと絶望を感じるのか?

「こいつはこういうやつなんだ」という切り捨てが怖い? 固定観念のままに、ステレオタイプで、一面的な自分を判断されることが? 意見を封殺されることが? 話を聞いてもらえない姿勢が。善悪どちらに沿うかで裁かれ、悪として扱われ、まともに話も通じなくなることが。

そうだったのか。そうだったかも。話を聞いてもらえないこと。そうか。それが人コワイの正体かも。

ああ。なるほどね。それなら、すごく勝手で夢みたいな希望や期待を人にかけてるってことがわかったよね。話を聞いてもらえることが大前提っていう。

人にとってそれはすごくコストがかかる行動だよね。

そのコストを払うだけのメリットが、価値が、自分にあるって思ってるってことだよね。

異物に対して人は防御的になる。理解を拒む。それが普通で、そうじゃないほうがレアだよ。異物を好んで取り入れようとするのは、それが自分にとって異物じゃないと思えるときか、異物だと思いたくないときだよ。

「理解を拒まれるのが嫌」?

100%理解を拒まれない状況なんかない。拒絶することのほうが自己防衛の面から言って正常な反応といってもいい。自分に害なす異物とどう共存しろと?

でも、話を聞いてくれる人だっているはずだ。同情や建前からじゃなく理解のための理解を示してくれる人だって……それが零点小数以下の可能性でも。いや。ていうか自分がいるじゃん! 自分が自分で自分を理解できてたら、それでもう十分だよ。それ以上望むなんて高望みだよ。それを望むからまた苦しむんじゃないのか? 「自分はこの人に理解されたい、でもこの人は僕を理解してくれない、悲しい」「自分はこの人を理解したい、しなければならない、だからこの人を理解できないような自分は嫌だ」つって。

「奪ったり殺したりしなくても、異物同士で共存は可能だ」という理想から醒める必要がある。誰もが互いを理解し合いたいと考えている状況は非現実的、夢の話。少なくとも僕が生きている今この場所では。それは現実としてそうなんだから。まずそれを「理解」しないと話が進まない。人は奪い合うし、殺し合って生きているよ。

それを受け入れた上でなにができ、どうしたいかだ。