頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

過去の記憶、贖罪、嫌悪との確執

いやあまた昼夜逆転しちゃった。最近朝寝て夜起きる習性続いてたんだけど一回夜更かし挟むとオセロみたいにひっくり返っていくな。モニターの反射で寝癖がひどいのが見えてる。17時前。もう暗い。外から工事の音が聞こえる。

過去の精算をしよう。

多分過去に対していろいろな解釈や脚色を持ちながら記憶を保持してきたんだろうけど、どんな色をつけてどう捉えながら今まで生きていたのか意識に上らせまいと努力していたので。なぜかというとそれを知るのが嫌だったから。見たくなかった。自分が記憶にどう意味付けしてきたのか知ると恐ろしかった。どうしてこんなふうに捉えられていたんだ?と思う。でも今はそんなに抵抗感がない。だから振り返えれる。自分で自分をわかるために必要な工程だ。

時系列順に、と思ったけど思い返したくなった順でいいか。

幼少期の僕。普通の女児だった。普通じゃないか。手間がかかる子供だったと思う。学年が上がっていってもいつまでも癖のようによく泣いていた。乳製品アレルギーで、食べられるものが限られていた。淡白な味のおやつが嫌いだった。甘くて味が濃い食べ物を食べると嬉しかった。覚えているのが、泣き止ませようと策を講じた母がスプーン一杯の蜂蜜を舐めさせてくれた記憶。

やっぱり抵抗あるよ。なんでこんなこと書かないといけないんだ?

さっき「必要な工程」って言ったばっかりなのに……。

頭の中だけでもいいだろ!言葉にする意味がわからない。

いつも言葉にする前の段階で頭の中にとどめているじゃないか、それならなんにも変わりはないね。言葉にすることに意味があるんだよ。自分の中に、人に話せるような歴史がないのがコンプレックスなんでしょ?人と比べて人生経験が足りないからっつって。足りてないにしろ経験はしてきたんじゃん。自分を説明するためには説明したっていう経験があったほうが話しやすいんじゃないの?

そうだけど……。

別の話をする?

えーと、じゃあもうちょっと最近の話。

14歳頃はどうしてたっけか。

もうすっかり引きこもりになってたな。

20歳頃。通信制高校通ってた。

どこなら言葉にできそう?

あ、ひとつ思い出したことがある。ネットで喧嘩した記憶。喧嘩っていうか、なんだろうあれは。

11歳前後だったと思う。僕はそれまで普通に会話していた人相手に、唐突に「もう付き合えません」みたいなこと言って縁を切る宣言をした。その人の言葉遣いが嫌いだから、みたいな理由だったと思う。話していて楽しくなかったとかそんな感じの。この記憶思い出すたびに「なんてことをしたんだよ」という気持ちでいっぱいになる。正面切って言うことないだろ。大義名分がそれらしいならともかく自己都合も自己都合。それ言われた人がどのくらい面食らったか、どれくらい悲しんだか想像すると居ても立っても居られなくなる。当時はそこまで頭が回っていなかったようだ。自分が快適なら人を切り捨てても問題ないと思ってたのかな。なにを考えていたのか思い出せない。正義が自分にあると思ってたような気もする。それにしてもその頃から不器用だったな、縁切りたいっていうならもっと自然消滅的なうまいやり方だってあったと思うが。嫌いな人とどう付き合っていいかわからないという他人との距離感、今もあんまり変わってないし。当時の僕はこれ以上嫌な気持ちになりながら接したくないから、じゃあ縁を切ろうと判断したわけだ。やってることめちゃくちゃだけど、SNSのブロック機能を口に出して宣言してただけのような気もする。もっと相手と話せばいいのに、と思った。もしくは自分の感情について考えてみればいいのに、と。一方的に嫌って一方的に縁を切るって、自己完結がすぎるだろ。とはいえ今似たような状態になったとして「もっと話せよ」って言われたところでそれは困難なんだけど。それは、僕は人との距離以上に、自分の中の嫌悪の感情に対する距離の取り方が下手だからなんだろう。嫌い、で終わってる。その気持ちをそれ以上どうすればいいのかわからない。「縁切ります」言われた側の人はもちろん黙ってなかったけどね。めちゃくちゃキレられたしいろんな掲示板で僕のどこがひどいかを書いて伝聞して回ってたな。不登校っていう情報を明かしてたからしまいには「そんなんじゃ将来困るよ」みたいな説教されたり。言葉遣いのこと言うならあなたの僕っていう一人称も変だよ、みたいな至極まっとうなツッコミももらったな。それで僕はどうしたんだっけ?だんまりだったんだ。対話拒否。しびれるね、クズすぎて。死ねよ。おっと。いかんいかん、必要なのは罪と罰じゃなくて、理解と受容なんだよ。攻撃じゃない。じゃあ理解してくれよ僕の僕への怒りを。はあ?自分に怒ってるつって己の失態を恥じてるだけで、相手への無礼を恥じてるわけじゃないんだろ?理解できるわけないんだよなぁ。

もういいよ。飽きないな僕も。

そう、結局、自分の無礼さにちょっとずつ時間をかけて気付いていったんだった。キレられたあとも話をすればよかったと今思った。向こうは話を続ける気があったようだということに今また気付いたし。ああ、まあ、そりゃそうだ、納得できないだろう、あんな一方的で勝手で自己完結的な切り捨て方ってないよ。その時も僕はまた自分が自分のことを説明できていないということに気がついていた。これでは自分の行動原理を説明しきったことにならないとわかっていながら、それ以上なにを付け加えるべきなのか情報としてなにが欠けているのかわからなかった。精緻な動機とそれを実行するに足る正当性を自分の中に見つけられなかった。衝動だった。それで、自分は衝動でしか動けないのだと理解した。行動の動機を説明できない自分にコンプレックスを持つようになった。説明できない行動を取りたくない、と思うようになった。自分がこれをしているのはこういう理由があるからだと胸を張って言いたかった。でもいつも自分の欲求を理解できないまま行動していた。悲しかった。

自分がどのくらいひどいことをしてしまったのが気付いたあと、どうすれば償ったことになるのかで苦しんだ。謝りたい、と思った。ひどいことをしてしまった自分を言葉や思想で責めた。何度も相手の痛みを想像して疑似体験を試みた。流石に365日それで苦しんでたわけじゃないけど、いや形而上ではそれが根っこにあったのかもしれないけど、ふいに意識に上ったり思い出す瞬間が何度もあって、そのたびに苦しんだ。望み通りすでに縁が切れていたからもう為す術もないんだが、何度もその時のことを思い出しながらその人に宛てたメールの文面を考えていた。年跨ぎで。しばらくして、それも傲慢な行為だと思うようになった。なにもかもが一方的すぎる、自分のことしか考えていない行動だと思った。謝るのをやめた。謝りたいのは、自分が許されたいからなのだと気付いたからだった。僕は許されるべきじゃないと思った。謝って許されたいと思うような自分を許したくなかった。それで、自分はひどいことをした、という意識だけ持つことにした。自分はひどいことができる人間なのだと。彼の人はその被害を被った人で、その人が僕を憎むと言うならそれを受け入れ、僕を許そうと言うならそれを受け入れ、もう興味も関心もないというならそれも受け入れようと思った。それが精一杯自己完結的でない償いだと思った。結局僕はずっと自分のことだけを考えていた。僕の意識の中で僕はずっと悪人だった。

そうだ、そういえば小学校を登校拒否しはじめたのもそんな感じの衝動でだったんだ。人間関係、っていうほどのものじゃないけど、それが嫌で。具体的なエピソードがあるわけじゃない。人の噂話とか上下利害関係とか意地悪な側面を垣間見たくない、悪意に触れたくないっていうのが漠然とした動機だった。やっぱりそれをどう説明していいのかもわからなかったし、ひたすら泣いて抵抗するだけで終わってた。え?自分が嫌いだからって人を切り捨てる行為は意地悪な行為に含まれないんすか?含まれてなかったんじゃないか?だから実行できたんだろ。マジで自分が正義だったんだな。怖。今でも自分に正義がある、自分の方に正当性があると感じる瞬間自分を警戒する。し、同じような思考回路の人間を見ると警戒する。悪意。悪意ね。それを避けようと思って登校拒否ったんだけど、まあ避けられるわけなかったよね。だって学校の中だけに存在するものじゃないし。むしろインターネットの中でより深く悪意の中に沈んでいった。いろいろな種類の悪意に触れた。そして自分の悪意に気付いていった。僕は嫌悪や悪意との付き合い方がわからないまま、自分の中でどうそいつと折り合いをつければいいのか、自然そのことを考え続けるようになった。

記憶を頼りに描かれるその辺り僕の自己イメージは、無邪気で、傲慢で、正義心を善とし、善性を好みながらも自分の悪意に無頓着な、そういう人物像。それから今以上にナルシスティックだった。自分から見て自分がどんなふうに見えているかとか、自分の好みを開示することに抵抗がなかった。自分はこういう人間ですと胸を張って言えた。自分の好きなものは心から好きだった。後ろ暗いところがなかった。ところが次第にそういう部分に劣等感を持つようになる。人と自分の在り方を比較しはじめ、より大人っぽく洗練されているほうが好ましいと思うようになった。自分は幼稚で考えが足りない、頭が悪い、視野が狭いと思うようになる。自分のことを衝動以外で説明できないのがますます嫌になった。好きだから好き、嫌いだから嫌い以上のなにもわからないのが嫌だった。僕の癖で、ひとたび自分に不満を持ち始めると、そのことに非常にこだわるようになる。不満を持っていることに不満を持ち始めるという循環が生まれ、そこから脱する手段を持たない。しかも僕は「嫌い」をどう表現していいのかわからなくなっていた。ちょうど自分を悪人扱いしはじめた辺りと被っていて、「嫌い」を表現したり感じたりするのは悪いことだと自己洗脳してた。嫌いだと感じさせるものが悪い、というふうに考えてたところを、嫌いだと感じる自分が悪い、というように書き換えた感じ。まあ書き換えたからと言って嫌悪の感情が自分の中から消えてなくなるわけじゃないんだけど。それはずっとそこにあって、表現の仕方がわからないままくすぶってた。だいたい嫌いという感情や衝動に善悪はない。善悪というのは後付けの法律だ。感情は、食欲や性欲みたいな欲求の一種だと思う。欲求を感じるのは悪いことだと法で律されたからといって、欲求が消えてなくなるわけじゃないし、法律が作られるより前はそれが悪いことっていう概念だってなかった。

僕は自分の中に自分を苦しめる法律を作った。ということを、今はわかっている。