頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

女の体、性役割嫌悪

ううう。どうやってブログ書いてたんだっけ。

なんか思いつきで、そう、気負わずにしゃべるため、自分の中身をぶちまけるため、浄化作用を求めて、と思ってやってるんだが。汚い部分、痛みや、懊悩を。自分自身で見つめるために。

なぜならそれがどうしても必要だから。

なんで必要なんだっけ?

決して消えないから。

自分の意識は。

生きている限り自分の意識と向き合い続けねばならず避けようがないので、避けるほどより足を取られるのなら正面切って取っ組み合ったほうが気持ちを切り替えられる、集中して自分と対峙できるから。

自己意識から目をそらせる方法はいくらかある、中毒症状とかで。

自己意識っていうか、思考の迷宮?

語りかけてくる自分だ。

なぜそうなの? なぜ自分は自分なの? なぜ苦しいの? なぜ楽しいの?

絶え間ない問い。

しらねえよ答えなんか!

でも考えてしまう。

答えを知ってどうしたいんだ?

どうしたい、とかじゃないんだろうな、もうなんか、自分を知りたい、自分の状態を、自分の在り様を知りたいっていうのが基盤にあって。やめたいと思って、やめようと、そいつを切り捨てようと思っても、自分の意志でどうにかなるたぐいのものじゃなく。体がそこにあるのと同じで、五感が働いているのと同じで、心臓が血液を循環させるのと同じで、そこにあるんだよ!

ああ、うん。そうなんです。

体。

体の話でも書くか。

僕はマジで生まれてから少なくとも2/3はずっと自分の体に対する嫌悪感と付き合い続けてる。いつくらいから? 第二次性徴期からか、やっぱ。

胸に当てる下着も生理が来るのも不快でしかなかった。不快で、しかたがなかった!

しかし僕は女の体を持った現代人として女の体の扱い方を、現代の様式に則ったやり方で覚える必要があった。そしてそれがどのように扱われるものなのかを学んでいった。引きこもりの僕はインターネットで、漫画で、映画で、小説で、否が応にも目に入ってくる、明るい部分から暗い部分まで「女」について語られている様々な言葉を読み、なるほどこれが女性というものから想起される共有された概念なんですねと。なるかボケ。まったく頓珍漢で理解不可能だった。確かに僕は女の体を持っているが、身体機能としての女性性と、言葉によって定義される思想、あれですか、ジェンダーっていうんですか、そことがまったく結びつかず。人の手により語られる女性像、優しい、可愛い、穏やか、華やか、そういうイメージからはじまり、あのあれ、こうあるべき論に照らして語られるこういう人間・女性であるほうが語り手にとって好ましく都合が良いというイメージ。10代の僕は「女の体を持っている人間はこういう性質や人格を持っていることがスタンダードとされており、そこからはずれる女の体を持った人間は人間扱いされないんだな。少なくともこれを語るこの人にとっては」みたいな解釈を取った。あと女の体を性的に消費する楽しみ方にももれなく嫌悪感を持っていて、気持ちが悪く、そのように扱うことが可能な体を自分が持っているということを意識するとおぞけがし、できるだけ体のことを考えたくなかった。そして女の体を持った人間は「女の体を持った人間」としてしか扱われないんだなとわかると、その替えがたい事実に自殺を考えるほどだった。そして「女の体」がどのように扱われ、どのようなイメージ、個別性を無視した固定観念を植え付けられた概念なのかを思うと、本当に自分がそれを所有していることが嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌でたまらなかった。

女の体を持った自分のことを考えるときはいつもセットで、男の体を持っていたら僕はどう考えていたんだろう?と想像する。でもたぶん同じことだ。同じように嫌だっただろう。こうあるのが自分にとって自然な在り方なのに、自分にとっての自然な在り方を否定されて、いやいやそう感じるのはおかしいよ病気だよ、こう感じるほうが正しいんだしそれ以外は異常だよみたいな、これが自分にとっての自然だっつってんのに、押しつけの正解、押しつけの答え、誰かの期待する服を着ることを強いられる圧に納得いくわけがない。

だいたい男/女は◯◯だろう、であるべき、なはずだ、っていう思い込みのもとに語られる共通観念みたいなものってなんのためにあるんだろう。そんなもんで縛って縛る側の人になんの利が?自縄自縛やし。縛られたいの?マゾなの?でもある程度これはこういうもんって決めてかかって考えるやり方のほうがラクで面倒でなくてお手軽で便利で思考停止でいられて手間がかからないんだろうな。それはラクかもしれないけど、それでスムーズに行く人間関係ってなに?って感じがする。それはイメージや肩書きみたいなもの、属性、道具としての機能、自分にとっての益不利益を見ているのであって、個人の精神の根っこや人間の存在の在り様を見ようとしてるわけではないようにお見受けするが?そういう関係を人との間に求めてないってことか。

あれ、なんの話だっけ。

ああ、まあ、でそんな感じでもう人生の半分以上は女の体を持っているということが本当に嫌で認めたくなくてそのために死にたかったくらいなんだけど、最近受け入れられるようになったというか。まあ体は体っていうか、臓器じゃん。機能じゃん。みたいな。外から付けられた「女」のイメージって、イメージじゃんっていう、まあ当たり前なんだけど、その当たり前のことがやっと腑に落ちた感じがあって。それは僕「個人」のイメージじゃなくて「女の体」と「女の体を持った人間」に対するイメージであって、そこは分けて考えられると思った。

まあそれは僕が引きこもっていられるからなんだろうけど。一歩外に出たら、出なくても固定観念前提の押し付けまみれやんけ、外出てられるかっつって。耐えられてたらとっくに引きこもってねえよ。

不思議なのが、第二次性徴期来るより前はいわゆる女の子趣味、少女趣味みたいなのにも親和性があって普通に楽しんだり受け入れたりしていたのが、第二次性徴期以降では徐々に、でも確実に一切受け付けなくなっていって、それを楽しんでいる自分が気持ち悪いみたいな感覚が強くあった。女装をするのが拷問かっていうレベルで嫌だったし、およそ「女性らしい」とされる定義に当てはまりそうなものはなんでも「その行為を自分がやっている状態」が果てしなく嫌悪の対象だった。当時ほど苛烈じゃないにしろ今もその傾向はあって、それはなんていうか、縛ってますね、自分を、って感じですね。

僕は性同一性障害というやつなのか?と疑うところから始まり、このXジェンダーってやつワカルナァこれやんけとか思ったり、いろいろ見て読んできて、もうどうでもいいよってところに落ち着きそうではある。男や女という区分は体の機能の話だ。精神における男性性や女性性、あるいはそこに紐付けられたイメージ、男性らしさや女性らしさみたいな概念っていうのは確かにあるだろう、でもそれと肉体とは別だ。誰の精神の中にも男性らしさも女性らしさも両方含まれているんじゃないのか?どこにそれを肉体の区分と同期させる必要が?

でもまだ本当に「どうでもいいよ」の境地に達してないから、これもまた人コワイの要因に組み込まれてるんすよね。結局そこに一番とらわれてるのは自分で、一番気にしてるのは自分で、だから過剰に性別を意識する。はっきりと自分を男/女だと性自認できている人を羨ましく思うのはそういうときで、性自認に関して一切悩んだり苦しんだりする必要がない、ただそこに置いてある服と外殻を抵抗なくかぶれば終わりだし話が早いし他のことにエネルギーも回せる。効率的で、合理的で、無駄がない。

僕は非効率的で非合理的で無駄の塊みたいな存在だ。でもそこを肯定してくところからでしか生きていく方法がわからない。自分を生かす方法が。

生きていたいのか?

いや、もう、ただ、自分を殺さなくてもいいかなと。思って。せめて自分だけは。