否定恐怖、自己救済、罪人意識
人が怖い。
というのはどういうことなんだろう。自分の中で。
ってのをずっと延々考えてる。
それは多分こういうことだ。
受け入れられないのが耐えられないとか。
自分は認められるに値しない存在で存在を否定されるような存在なんだと自分を認識してしまうことが耐えられないとか。
傷つくのが怖い傷つけられるのが怖い傷つけてしまうのが怖いっていうのも要は。自分が誰かを否定してしまうことが怖い。だって別に殺したくないのに。
そして僕は誰かに殺されてしまうと思ってる。
否定されることは殺されてしまうことだ。と思ってる。
でもそれは思い込みなのに?
実際にはなんにも死んでいないのに。
なんにも失われていないのに。
自分の中に、被虐的で照れ屋で引っ込み思案で自己肯定感の低いAと、メサイアコンプレックスのBがいて、BはAを救うことでしかAを、自分自身を救えないと信じている。
僕が言葉を、自分のことを言葉にしようとするのは、Bの働きのためで、でもそれでAは救われるんだろうか。
Aを肯定することがBの考えた唯一の救出方法で、でもAは時にそれを拒む、怯えたり泣いたりしながら抵抗して、それでもBはこれ以外の方法がわからない。
自分で自分を肯定する以外に自分を生かしてやれる方法があるのか?
おまえはダメでいいんだ、と言われると泣いてしまう。ダメなままでいい。ダメなことのなにもダメなんかじゃない。
「よくしらんけど、いいんじゃないか」とか「どっちでもいいんじゃない?詳しくないから」っていうトーンの肯定じゃなくて。「僕はおまえのダメなところを知り尽くしているし、おまえのどこがどんなふうにダメだと感じるか感じられるかを説明もできる。でも、その上で、そのままでいい」というトーンの肯定ね。
僕は、自分がダメなままで肯定されるのがつらい。嬉しくて、つらい。許されることが。なぜなら、ダメじゃないことを自分が自分に求めているから。自分自身がダメなままで居ることを許せないでいるから。
僕は盗人だ、と思う。
人々は対価を払って人との関わりを持つ。
僕はなにも与えない。ただ人の作ったものを横から勝手に奪って生きてる。
対価を支払わずに利益だけ得てる。
権利がないと思う。
それを受け取る権利がない。
僕が受け取ってきたものはすべて人から盗んだもので、僕の所有物じゃない。僕の血肉じゃない。血肉にしてはいけない、と思う。
そういう思い込みがある。
自分の中に許せない自分がいると、人の中にその姿、片鱗、影を見つけた時、同時に見も知らぬその他人のことを嫌いに思う。それはその人が嫌いなんじゃなく、その人の中に見える自分を嫌っている。
そういう心の働きが自分の中に生まれると、そのことにまた自己嫌悪する。
自己嫌悪の輪の中で僕は生きている。
そうして、この輪から抜け出したいのに抜け出せないでいる自分をまた嫌いになる。
堂々巡り。