頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

悩みは、何に悩んでいるのかを言語化できたらほとんど解決したようなものだとよく言うけど、言うか?言うということにしておいて、それは本当にそうですねと思った。目をつぶったまま、どうして暗いんだろうどうしてなにも見えないんだろうと思っているのが悩んでいる状態で、まぶたを開ければいいじゃないかと気づけることが解決で、暗くてなにも見えないのは自分がまぶたを閉じているからじゃないかと気づくことができるかどうかが肝で……。

 

何に苦悩しているのかをうまく掴むことは僕にとって難しい。苦しいときはまず、ただ苦しいという感覚だけがひたすら強く感じられて、なにがどう苦しいのかをよく見ようとしたり、言葉にしようとすると、そこで歯止めがかかるのを感じる。何度もしつこく少しずつそのストッパーをこじ開けているうちに、昔ほどなにも見えないということはなくなってきた。でも、今でも精神の視界はかなりぼやけていると思う。

考えていることをうまく言葉にするのはとても難しい。波もある。気持ちよく思っていることを出力できたと、爽快感や達成感を感じるほどうまくいくときもある。なにひとつ取っ掛かりをつかめないままで、永遠みたいに長い唖の時間に包まれて、感覚が一文字も音にさえならないときもある。

せっかちで、結論を急く。さっさとピンポイントに必要な部分だけ出力して発散させてしまいたいと思う。なにか表現したいわだかまりがあるのなら、それをそのまま出したい。なんの話をしているのかわからない、なにが言いたいのかわからない、輪郭のぼやけた寝言のような、話の筋や軸の見えない表現しか出てこないときは、自分にイライラする。結局なにが言いたいんだ?そうやって自分を急かす。僕は…話しながら考えがまとまっていくタイプだ。だから話しはじめるまで、自分がなにを考えどう思っているか、明瞭な姿では捉えられない。話していくうちに、自分がなにを言いたかったのかが段々明らかになっていく。喋るより前には曖昧な大きな塊があるだけで、喋ることで曖昧を削って掘って形を浮き彫りにしていく。だから、自分がなにを言いたいのかを知るためには、寝言をかき分けながらじゃないと知ることができない。急いても曖昧は曖昧なままだから、根気強く彫刻していくしかない。

 

自罰、自己嫌悪、被害妄想、加害妄想、軽度の、対人恐怖、社交不安、場面緘黙希死念慮、発作的な強い悲しみ、怒り、抑鬱

自分を観察していると、そういう症状が現れるのに同期して、これをどうにかしたい、どうにかしよう、どうにかしないといけない、これから逃れたい、どうしたらいい、そういう風に右往左往する意識が通底して湧き上がるのを感じる。この状態は、簡単に「怖い」とか「混乱している」とか「パニック状態にある」と表現される。恐れや混乱に支配されたこの状態にあると、物事を整理して把握したり、順序立てて考えたり、絡まった紐をほぐすようには考えられなくなり、ただ呆然とする。呆然と思考停止して、身動きがとれない状態は、「朦朧としている」と表現される。僕はよく恐れ、混乱し、朦朧とする。

恐れや混乱に支配されているときの自分にとって、恐れや混乱を生む原因になった症状は、よくないもの、いらないもの、解決しなければならない個人的な問題、自分の内のもっとも汚く恥ずべき、隠さなければならない部分だと感じられている。

恐れや混乱の外側にいる自分は、それがなければもっと違った振る舞いができるのに、と考える。

違った振る舞い。

僕は、自分の中に沸き起こるこれらの症状に、毎回毎回大きく意識を割く。そこにばかり注意が向いて、周りが見えなくなる。そのために、その場で本当に取りたいと思っている行動を取ることができない。そのことに、一回一回、絶望するし、失意も、幻滅も感じる。

本当に取りたいと思っている行動。

他者に意識を割くこと。敬意を払うこと。状況を理解すること。状況に対する情報を得ること。状況に対して自分がどう関わりたいと思っていて、どう働きかけようとしているのかを、意識でき、説明できること。気持ちに、余裕と遊びを持つこと。興味や関心や疑問や好奇心を働かせること。心を開くこと。冒険をすること。感情を置き去りにせず、自覚して、素直に、正直に、忌憚なく、なおかつそれを自然に表現できること。

それができることを自分に期待している。

僕は、自分の感情や考えを他人に開示するのは、よくない、危ない、避けるべきことだと感じている。

僕の中身を素直に正直に忌憚なく表現すると、とても暗く、冷たく、ねちっこく、情の薄い、あるいは幼い、懐疑的で、攻撃的な形の感想が、おおむね真っ先に出てくる。自分にとって不快に感じられる、違和感のある部分を素早く感じ、見つけるのが僕は得意だ。でも、一度そこに意識が向くと、そこにだけ注意を向け続けがちなので、不便だ。「君は物事の暗い部分ばかり見すぎる」。その通り。「もっと明るい面を見る癖をつけたほうがいい」。そうだね。

喋りながら考えを成形していくのに、はじめに現れる形が冷淡に見えるものだと、いきなり喧嘩腰になりすぎる。はじめに現れる形がそうでも、「でも」とか「あるいは」とか、逆説や例外をあとからいくつも思いついて、徐々に自分の中での解釈が変わっていくのは、よくある流れとして踏み固められた、僕には馴染みのいつもの思考回路だ。脳内会議。自己対話。ひとりごと。頭の中でそれをやっているぶんには、自分の中の不快感や違和感を、直接喋っている相手にぶつけずにすむ。自分の中の不快感や違和感を、特定の目の前の人物にぶつけるのは、避けるべき行為だと思う。

……。

僕の中には、こうしたいという欲求や、こうすべきだという要請が、常に生じている。その中には、どんな欲求も持ちたくないという欲求や、なにも要請するべきではないという要請もある。

それらの声を受けて、最終的にここではこうするのが暫定的にベストだろうという、無意識の判断のもと、行為として結果が現れる。無意識は無意識なので、そこに意識的になるのも難しい。ベストだと思ってる?あれやこれを。よくわからない。

自分の内部で常に生じている欲求や要請は、いつでも複数あって、でも僕は、複数の声を聞き分けられていないと思う。一度にすべてに耳を傾けるのは難しい。ある声が別の声を封殺しようとしたり、お互いがお互いを弾圧し合おうとしたり、自分の中に蹴落とし合いが激しくなると、なおさら混沌としてくる。

自分がなにを感じていて、なにを欲していて、なにをすべきだと考えているのか、淡々とそれを眺めることができたら、それはすばらしいと思う。

ただ眺めることは難しい。

僕はせっかちだから、早急に、それは良いものだとか悪いものだとか言って、すぐに何らかの判断を下したがる。自分の中から不快感を取り除きたいという発想から、思い通りいかない物事を、自分に都合よくコントロールしたがったり、魔法のようにたちどころにきれいさっぱり消え去ることを望んだり、それが叶わないと、むずがって暴れたりする。赤ん坊のように。ただひとつの強い声に、複数の声は無視される。自分の中に、無視され、理解を得られない自分を生むのは嫌だと思う。そのために、ただ眺めるという視点を欲している。それで、自分地獄の万華鏡を覗き込む。

気に入らない自分を、一方的に裁いたり、断じたりしている自分。気に入らない自分を、改造したがっている自分。気に入らない自分を、組み伏せようとしている自分。気に入らない自分を、殴っている自分。殴られている自分。殴られて、抵抗している自分。怒っている自分。悲しんでいる自分。笑っている自分。自分を殺そうとしている自分。死を受け入れている自分。反撃を試みている自分。茶化している自分。道化けている自分。冷めている自分。諦めている自分。戦っている自分。逃げている自分。許しを請う自分。懺悔している自分。祈っている自分。叫んだり暴れたり泣いたり喚いたり、殺意や憎悪や毒物や汚物を撒き散らす災厄としての自分。それを鎮めようとする自分。受容する自分。肯定する自分。臭いものに蓋をしようとする自分。罪悪感にさいなまれる自分。死にたがっている自分。生きたがっている自分。助けを求める自分。救いを求める自分。すべてを拒絶する自分。なにもかもを信用できない自分。楽しんでいる自分。興奮している自分。もがいている自分。飽きてどうでもよくなっている自分。面白がっている自分。うんざりしてすべてを放棄した自分。それらを観察している自分。

地獄の万華鏡は常にそこにあって、常にそこに感じられる。吐き気がする。でもやめられない。これを覗き込むのが一番の娯楽だから。