頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

いつもの

我、煩悩にまみれすぎ。

煩悩、108個あるんですよね、内訳知りてーと思って、煩悩 一覧 とタイピングした瞬間、めちゃくちゃおもしろくなって爆笑した。「煩悩 一覧」。煩悩 一覧!おもしれえ。

煩悩一覧を眺めてみて、なんの新鮮味もなくてがっかりした。それから、煩悩を滅したいという気持ちがそもそも煩悩なのでは?なんで煩悩一覧に含まれてないんだ?と疑問に思った。調べたらそういう欲求のことは菩提心と呼ぶらしい。また爆笑した。なにが菩提じゃ。立派な煩悩のくせして俺だけは違うとばかりに威張りくさりやがって。おとなしく煩悩一覧に数えられていろ。などと悪態をつきながらもうちょっと調べたら、煩悩具足という考え方があることを知った。人間はもともと煩悩でのみ構成された100%煩悩の存在だから、そういう存在から煩悩を消そうとすることは、雪だるまから雪を取り除こうとするのと同じ、とかなんとか。雪だるまから雪を取り除いたらなにも残らない。なるほどね。よくわかる。じゃ、煩悩具足たる100%煩悩人間はどう煩悩と向き合い付き合っていけばいいのか。そのページによれば、煩悩がそのまま菩提…悟りとして価値転換される境地まで行けばいいと。そうですか。悟りってなんなんすかね。多分、この結論らへん、100%煩悩でできた人間がどう煩悩と付き合っていくか、その部分が宗派の違いになってくるんでしょうか?いや、全然知らないけど。ネット付け焼き刃以上の知識はない。それでも、仏教で煩悩は、煩悩すなわち少なければ少ないほど善いもの、多ければ多いだけ悪いもの、諸悪の根源、害悪、滅菌の対象、人類の敵、滅ぶべし、滅ぼすべし!みたいな扱われ方なんだろう、どこもかしこもそんな調子だし、という刷り込み、思い込みがあって、必ずしもそうじゃないという認識の上書きができたので、そこには新鮮味があった。

仏教や宗教全般について、まじめに調べてみればおもしろいんだろうなと思う一方、知識量重視のかたい本を読むのは全然楽しくないので、腰が重い。無感情にデータが並んでるだけの教科書的な世界に全然入り込めない人間なので、まあその程度の興味。感情移入できるレベルに興味あれば違ってくるんだろうけども。こういうのって、いかに興味の支柱を自分で組み立てられるかがコツなんだろうな。だいたいなんで知識を仕入れるかっていうと、そのモチベーションはおおむね、まずなにか疑問があって、疑問を解消するために必然的に知りたくなり、流れで周辺知識も手に入る、そういうパターンが多いし。そういうのは知的好奇心っていうか、単に必要があるからそうしてる、要は追い詰められてるだけで、火事場の馬鹿力だし、猫に噛まれそうだから生き延びるために喰らいつく鼠と同じ、そういうノリで、好奇心とはかけ離れたもののように思う。別になににも追い詰められていなく、知る必要を感じないものに対してはそもそも疑問さえ持たないからな、僕は。好奇心薄いよ。ああ、へえ、そうなんだ、そういうのあるんだ、それで終わり。その程度の認識。その程度の関心。情が薄い。薄情なんです。冷たい人間だよ。浅い感性っす。

また卑下してる。いちいち自分を貶めなきゃ喋れないのかね。自分で自分に蹴りを入れる癖、これは予防線なんだろうな。他人から殴られる前に自分で自分を殴って、人に殴らせる手間を省いてる。自分には、殴られるだけのいわれがあることをわかっています、そういう自覚の表明、アプローチ。自虐。言われなくてもわかってる、本当かな。最低限このくらい自分にはメタ認知能力があるんだと、先回りして示すことはそのまま、その程度のメタ認知能力しかないことの露呈になっているんだよな。隙きをなくしてるつもりで、隙きをなくそうとする行為そのものが隙きになってるっていう…。けど、自分が殴られるいわれがあることは百も承知で、それでも、とその先を続けたいからこそ、防衛的にそう振る舞うんだろう。その先を続けるために、毎回自分を殴る必要があるのかという話だが。いや必要あるなしの領域じゃなくて、これはもう意識と無関係に自動で行われる習性なんだけどね…。喋るためには一回殴られとかないと進めないと思い込んでるのがオイオイって感じだ。あらゆる自分の思考、言動には、あらゆる方向から反論を…蹴りを入れることが可能なんだから、毎回それやってりゃきりないって、体でわかるまでにすごい時間がかかったよ。しかも意識だけは全方角から蹴りを入れたいと思ってるのに、実際に蹴りが飛んでくる方角はワンパターンで、視野が狭いのも丸わかり。ホゲ~。しかもしかも!自分で自分を殴るのに精一杯になって、いざ実際人から殴られるようなことがあったときにはうろたえて対処できないっていう…バカウケのオチつき。いやーアホすぎる。あはは…また自虐。自虐じゃなく、単なる事実確認では?単なる確認でアホとか嘲笑しねえよ。いやアホなのはアホやってるから事実確認だな…。

それにしても毎回毎回、殴ってくる人間を勝手に想定して、そいつを模倣して、暴力振るい倒して、自給自足、元気溌剌という感じですね。結局、「こういう言動を取ったらこういう反論があるだろう」という情報の集積、それが反映された人格を内面化して、そいつを必要以上に暴力的に再現してるんだろうな。僕の中では、なぜか反論と暴力が固く結びついている。反論を暴力だと思ってる、なんで? 単なる反対意見でも、じゃれ合いのディベートもどきでもなく、暴力をともなう強烈な否定として現れる、その必然性は? 僕はAだと考えるが、Aではないと考える人間もいる、以上。それでよくねえか。Aではないと考える人間は、僕をこういう風にこき下ろすに違いない!!!はい、まあそういうのもいるのは確かだが、いちいちそれを再現して打ちひしがれるの、本当疲れるからやめてほしい。僕の場合、頻出するのは「お前はこの程度、調子に乗るな、身の程を知れ」みたいな形の暴言で、ああ、じゃ僕は調子に乗ってる自分を抑制したいんだな、とわかる。これが意味してるのは、ものすごく人の評価、人からの目線を気にしているってことだよね…。自分の程度、身の程を、高く評価しても、低く評価してもだめで、適正な評価を下すのがよい、そして適正な評価に合った振る舞いをするようにと、こうだ。そして僕には「適正な評価」がなんなのかわからんので、そう言われても困るだけ。で、殴られて途方に暮れて終わるという。適正な評価がなにかわからないのに、適正な評価をわかっているように振る舞えと指示されても、どう振る舞うのが「正解」なのかわからなくて、大混乱。混乱しながら、見様見真似で芸を仕込もうと懸命になって、空回りして、そんな感じ。「正解」がなにか知ろうとしてみる。あれはだめな例、これはよい例。でも異なる場所で、真逆のことを要求されたりする。それがだめなら、これもだめなんじゃないの?いいえ、それは例外なんです。なんで?なんででも。これがいいなら、あれもいいのでは?いいえ、それはだめなんです。どうして?それは例外だから。そうやって「正解」の輪郭がわからなくなっていく。そりゃそうだ。もともと正解なんかないんだからな。というか、人によって異なる。人、場所、集団、土地、国。なにをいいとし、なにをだめとするかは、その数だけある。

「適正な評価判断に従ってそのように振る舞え」、それって、自分は客観的に見て変だから、変じゃないように振る舞え、そういう意味でもあるんだけど、変じゃないように振る舞えたらなんなんだっつう話だよ。馴染まなさ。居心地の悪さ。気まずさと、自分がそれをもたらしているという罪悪感。気を遣わせたくない。腫れ物のように扱われるのは嫌。心配や迷惑をかけるのは嫌。かといって、指刺して笑われるのも嫌。なるべく注目されたくない。悪目立ちして、やり玉にあげられたくない。そういうののごった混ぜで「変じゃないように思われたい」なのか。でもそうやってあれが嫌これが嫌で、回避回避抑制抑制で自分を装い続けるのは、常に関節外し続けてるみたいな感じだし、そういう回避抑制的振る舞いが自分の中の「正解」に当てはまらないこともわかっている、結局自分の望む「正解」がなんなのかわからず、「正解」通りに振る舞うこともできず、常に「間違っている」ように感じ、だから緊張するし、怯え、苦しみ、適応努力の反動で八つ当たり魔になる。そういうのに疲れて息ができなくなる前に、息抜きが、こういう場所が必要になる。なんも無理しなくていい、力を抜けて、だらしない自分で居られる場所が。それが許される場所が。まあ一人でやってろって話ですわ。ワールドワイドでやる意味とは。それ。以前はそういう姿も人に見せるべきじゃないと思った。ダサくてウザくてキモいしグロい、おまけにくどいしね。そう思わせたくない、不快にさせるのは嫌だと思った。もちろん同時に不快になりたくないとも強く願ってた。あらゆるダサくてウザくてキモくてグロいものは見たくない、存在してはならないものだと本気で思ってたと思う。だから引きこもった。あらゆる接触をシャットアウトした。それも違うんだと思った。やっぱりコインの裏表と、磁石の両極と同じなんだ。切り離せない。切り離しては存在していない。地続きで。煩悩即菩提。現状、僕は、人の中で生き続けるしかできないんだから、少なくとも人の中で生き続けてる間は、人の中でそういう、苦しくない場所を見つけられないと、作らないと、どのみち生きてはいられない。苦しいから呼吸ができる場所を探すし、そのために力を絞らざるを得ない。だからこうやって今生きてるし、そうじゃなきゃこうじゃない。最初から関節外す荒業ができない構造だったらよかった、下手に無理できるから無理して疲弊する、最初から無理できなかったら、無理をすることで苦しまなくてすんだ。最初から全部自己完結してられたらよかった、下手に人を意識するから自己満足で満足できない、最初から人目を気にしなければ自己完結して楽しんでいられた。ああだったら、こうだったら。でも、そうじゃないんだし。そうじゃないから、こうでしかない。それは善いとか悪いとかじゃなく、ただそうなだけっていう。ダサくてウザくてキモくてグロいの、いいじゃない。そういうのもある。そういうのを排したくなる気持ちもある。否定したくなる気持ちも、肯定したくなる気持ちも、無関心も執着も全部ある。それいでいい。ダサくても、ダサくなくありたくても、ダサくなくありたいと願うことがダサく感じるのも、なにかをダサいダサくないで判断する次元に立ってる時点で世界は閉じていて、鈍さと鋭さ、利益と無駄、損害と治癒、二項対立で捉える以上、一方が一方を内包しているのは、それが自然だと思う。太極図みたいな感じで。清浄すぎるとグロいし、グロすぎるとむしろ清浄で、あまりにくどいと逆になにも言ってないのと同じだし、閉口がすべてを語ることもある。なんにしろあらゆる欲求、なにかを欲する気持ちは、全部煩悩だと思う。100%煩悩よ。でも煩悩が悪とか善って話じゃなくて、それはただそうだよねって話なんです。結局僕が言いたいのは…煩悩を煩悩だと認識するそれがまず煩悩ありきですよねっていう…。煩悩を煩悩だと認識しない境地に行きてえ。特に僕は菩提心って煩悩がもっとも嫌いなんだよ。煩悩を滅したいという煩悩を滅したい。それとはどう付き合っていけばいいの。悟れって?煩悩即菩提、煩悩があるから悟りの境地もある。そうだね。でも悟りなんかいらねえから、煩悩もいらねえよ、そういう場合はどうすりゃいいんだ。煩悩を捨てようとする、清浄と静謐を求める所作こそが、相当醜く汚れた暴力的所作だと感じる。清浄を求めるのは醜く汚い自分であることが耐えられないからで、でも、清浄を求めようとすると醜く汚い自分になる。また、醜く汚いと感じる感覚、それ自体が醜く汚いものだと感じるし…。めんどくせえ。捨てたい。全部捨ててえ~一生このループに縛られて身動き取れないでいるの、圧倒的にヤダなんですけど…。でも捨てられないからこうなんだよ。悲しいな…。憐れですね。はい自己憐憫〆。