頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

特に変化のない毎日を過ごしている。

変化。変化変化。そうだな。最近朝目覚ましで起きたときの廃人度が下がった。不快だけど一時期のようなこの世を呪いたくなるほどのものじゃない。あんまり夜更ししなくなったからかな。夜更しをしなくなったのはちゃんと風呂に浸かるようになってからだと思う。前までは面倒だったからシャワーで済ませていたけど、湯船で温もると疲労度の回復が違うことに気づいてしまった。あと気休め程度に簡易温冷交代浴的な感じで冷水を浴びるのもやっていて、意識的に心臓を刺激するようにしているのも影響があるかもしれない。

時間通り、予定通りに行動しないといけないのはいつまで経っても慣れない。慣れないっていうか一生気に食わないままなんじゃないかな。まとわりつくような不快感。なんでこんなことしなきゃなんねんだという不服な気持ち。好きな時間に寝起きして、好きなタイミングで好きなことをするのがもっとも好ましい。おそらくそれがこの世の最上の贅沢でしょう。ともあれ時間を売る。感覚を、体を、人間を売って金に替える。金で生活を維持する。労働は自分を身売りすることだと思っているから、買われた先で自分がどう扱われようが、労働先の環境がどうであろうが、もうどうにでもなれというヤケクソ感が拭えない。買ってくださいとお願いしに行った時にもう自分の意志をどこかに置き去りにしていると思う。あとはなんでも同じだろ。望まれたことを望まれた通りに。なんでも命じりゃいいじゃないか。そこに人格は求められていない、だから僕はそこに居ない。なんでそんな風にしか捉えられないんだ。逆にどうして自我を保持したまま働くことができるだろう。なんでこんな風にばっかり捉えるんだろう。

働いているとき用の人格を今再現することはできない。それは人と場所を反射して映る虚像だから、その場所でだけ成り立つ。文章を書いているときの自分も虚像に過ぎない。これもこの場所でしか成り立たない。友人と喋っているときの自分、ムカつく奴に悪態ついてるときの自分、好きな人々を眺めているときの自分、親と話してるときの自分。全部虚像で全部自分だ。分人。人格はもともとうつろなものだ。単なる反射。そこに深い意味はない。

スカートの制服に着替えないといけない仕事を久しぶりにやった。歯が砕けるほど苦虫を噛み潰したけど前みたいに苦痛すぎて涙頭痛腹痛とかいう最悪の気分には至らなかった。なんであんなに苦痛なんだろう。でもドレスコードが設定されている場所に参加するのは基本的に不愉快だよ。服なんかなんでもいいだろ。マナーだの礼儀作法だのダルい風習もクソだ。バカバカしいよ。なんなんだよ。形式形式形式。どのくらい適応できているか練度を試すってわけ。誰が。なんで。また試験?どのくらい形式のパターンを網羅しているか知識の量を見る。どのくらい形式のパターンが身についているか経験の量を測る。なんのために?「育ちの良さ」の判断基準のため?どれだけしきたりに従順になれる人間かを知りたい?「お行儀のよさ」の基準をマナー遵守度に定めて、そこから外れたら全部「不躾」か?定規に合わせて人間をジャッジするって躾がなってねえのはどっちだよボケ。なにが文化だよ。犠牲を払って保持される文化なんぞクソくらえだよ。無限に怒ってるな。完全に反抗期のクソガキ精神やんけ。このままずっと反抗期終わらないんだろうか。

スカート嫌いだから履きたくない以上に、それに着替えてやるときの業務がマジで嫌。上の人には自分なりに努力はしてみたんですがどうしてもこの業務自体が苦手で云々とかふにゃふにゃ伝えてはいて、それに対する明確な返事みたいなのはもらえなかったけど、多分あまりにも使い物にならなかったからっていうのと、多分一応自分のその意向を考慮して、その業務自体しばらくやらずに済んでいたのでホッとしていたんですけどね。多分とか一応ってなんなんだよ正確に状況把握しろよ謎を残すなよもっと明明赫赫とした意思疎通をしろよ!すいません。謝罪はいらない、行為で示せ。ううっ…。できたらやってるっつの。スカートが嫌すぎるという話ができたのは、試用期間中に辞めちゃった人と、ひとりの先輩にだけだった。その人ももう辞めているけど。その人は卒のなさ隙きのなさが出来すぎていて、どことなく人間離れした印象を持た。はじめてまともに生身の人間をかっこいいと思った。個人的な趣味や情報をどんどん自分から開示するので、周囲も自然に自分を開示する。気配りとかまめなコミュニケーションの自然さに嫌味がない。当たり障りがないのに不足も過剰もないその加減や、人との距離感、立ち位置の確保の仕方が絶妙で、なにかのお手本のようだなと思っていた。なんとなく、酸いも甘いも噛み分けた何らかの達人が力をセーブして周りに合わせているとか、そういう人生経験の豊富さを連想させた。実際毎日がイベントデーなんじゃないかというくらい異様にアクティブな人だった。仕事を教えてくれるときは、こちらの理解度に合わせた確認を取りながらの丁寧でわかりやすい、やはり過不足のない説明。最初はできなくて当たり前だよーとか私もこういう失敗したことがあってーとか、そういうことを惜しみなく言葉にして伝えてくれたり、絶えず雑談を振って沈黙を避けて接してくれたり。僕はバキバキに緊張していたので後光が差して見えました。その人と話しているといつもなら躊躇したり普通には明かさないようなこともいつの間にか自然に喋っていた。怖い。すごい。それでスカートの話にもなった。私も昔スカート履くの嫌いだったよー。本当ですか。本当本当、ずっとジーパン履いてたよー、すーすーするのも寒いのも嫌だよねー。今は平気なんですか?今はむしろ楽しむようにしてますねー、せっかくパンツもスカートもって選択肢があるんだったら、どうせなら楽しめたほうが得だしと思って。確かにそうですね。慣れるとトイレ行くとき楽だよー。どうせなら楽しめたほうが得、確かにそう。僕は「服なんかなんでもいい」と思ってるんだから、ならスカートでもいいんじゃん。結局それが「女っぽい」から嫌なんだろうな。「女性らしい」とか「可愛らしい」というイメージを持たれるのすごく嫌だ。どうしてだろう?「なんでもいい」んだったら「女っぽく」見られても構わないんじゃん。そうだね。でもそう思わないから嫌なんだろうね。しつこく性別の話を続けていく。これはかなり自分の中で大きなウェイトを締めている関心事だからしかたがない。というか、やっと性別の話をできるようになったという感覚が強い。性別のことをあけすけに書くことは今まで自分の中でタブー視されている部分があって、今はその壁を一枚壊せた感じがする。

K氏がやっていた喫茶店で会った、Xジェンダーの大学生のことを思い出す。その人は、自分はLGBTQのXジェンダーとして活動していると言っていた。もっと啓蒙したい、もっとXジェンダーについての知識が広まってほしい、まずそれがどういうものなのか知ってもらわないと理解も市民権も得られない、生きづらいままなのは嫌だからもっと自由になりたい、というようなことを語っていた。Xジェンダー。出生時に割り当てられた女性・男性の性別のいずれでもないという性別の立場をとる人々を指す。byウィキペディア。その人ははきはきと矢継ぎ早に喋るタイプで、時間が惜しいとばかりに次々やりたいことやアイデアが思い浮かぶらしく、全身からエネルギーがほとばしっていた。僕は、おお、はじめて性自認Xジェンダーって言ってる生身の人に遭遇した、と思って、それなりに感動していた。Xジェンダーって知ってる?とはじめ聞かれたとき、まさに、はい、自分もそれです、と僕は言ってみた。言ってみたけど、どういう反応を返されたのか思い出せない。多分、ああそうなんだ!で終わった気がする。その後は相手のマシンガンにいつもの相づちマシーン。今はサークルでこういう活動をしている、就活でのカミングアウトはこういう風だった、親との関係、趣味の映画、エトセトラ。またこれかよ、と思う。こういうとき僕は二つに引き裂かれている。うわーどうでもいい興味ねーという気持ちと、なんだこれめちゃくちゃおもしれえなという気持ち。前者の自分は膜に覆われていて、なにも考えていない。再三言ってるけど薄情なんだよ。基本的に人に興味を持つのは難しい。楽しそうな様子を見ていると楽しそうだね、で終わりだし、怒っている様子を見ていると怒っているね、で終わり。特に感想とかない。相づちを打つのも大概はほとんど癖で同調してるだけで自分の総意じゃない。部分的に同意できる自分が部分的に出てきて惰性で同意してる。人の機嫌を伺うのが癖になってまともに喋れないって本当ひどい。まともに喋ったらもっとひどいことになると思うからそうしているんだと思います。実際ひどいことばっかり言ったり考えたりしてますよ。一方後者の自分は俯瞰していて、だって宇宙の誕生生命の誕生人類の誕生とかそういう気の遠くなるようなあれを経て今この人に流れてる時間とか生命活動の行われている瞬間に交差してるんでしょすごいな、どんな確率だよやばいな、と延々感じている。興味ないけど興味あるみたいなよくわからない状態にある。ていうかこの人の話なんか前に書いた記憶あるなと思って検索かけたらやっぱもう書いてた。まあいいや。同じこと繰り返し何回も書いてるのも別に今に始まったことじゃないし。何回でも繰り返したらいい、ループするたびに変わっていく細部を検めるのもまた一興ですよ。

連想してまた別の記憶を思い出す。昔に、Xジェンダーの人たちが匿名でやりとりしてるスレッドを見ていた時期があった。掲示板はたいてい殺伐としていた。ピリピリしていたけど、性自認に関する建前抜きのあけすけな発言を多く読むことができて興味深かった。掲示板、今久しぶりに見に行ってみたけど、もう機能していなくて無人だった。当時は1ヶ月くらい毎日眺めていて、一度だけ自分から投稿もした。自分がなんて言ってたのかは忘れたけど、ここでやってるような正直な気持ちで自分の性別観についての考えを書いていたら、それにレスがついたことがある。君みたいな人がXジェンダー名乗るとまた世間から誤解されるから二度と名乗らないでほしいみたいなことを言われて、ウケた。どういう部分を読んでそう感じたのか指摘してもらえると嬉しいとレスを返したら、君には話すだけ無駄だからこれ以上付き合う気はないと言って突き放された。なんやねん君。結局なにがその人の地雷を踏んだのかは思い出せないのでわからないが、とにかく何か誤解されるのを嫌だと思ったってことはわかった。で、その人の中にはその人にとっての理想のXジェンダー観があって、僕はそこからはずれたことを、その人から見て間違ったことを言っていたんだな、と判断した。「二度とその性別を名乗るな」って、「男としてどうかと思う」「同じ女だと思えない」みたいな発言とそう変わらない。Xジェンダーという概念を共有しているこういう場所でもそういう発言が出てくるのかと思うと、虚しくなってそれから見るのをやめた。まあ結局匿名掲示板からはなかなか僕が欲してるものは得られるものじゃない。僕が欲してるのはもっと生々しい個人的な感覚、もっと個人的な感情。それも一人で煮詰め続けてきたやつ。自分の分身を見たかった。多分、自己投影先を求めてる。でもあそこでは個人的な定義と概念をぶつけ合って終わりだった。でもそれはそれで面白いと思う。印象に残っている発言もいくつかある。無性だの中性だの、どっちの性別でもない、グラデーションがあるとか言うけど、結局性別にとらわれてるからXジェンダーなんて概念に頼るんだろう?口では性別なんかどうでもいいと言っておきながらこういう概念に頼るなんて、これ以上なく性別を気にしている証拠だ、どうでもいいなら気にしなければいいだけだ、そうしないでいるのは結局のところ男女で二分した性別にとらわれているからなんだ。などなど。はいそうですね、と思う。特に肉体において、その性別を無視することは難しいね。でもインターネットなんか肉体フリーなのに、わざわざ男女の概念を持ち出してどちらかの性別で人格を識別しているのなんのためにって感じだけど。まあ僕も例外じゃない。文章だけで、なんとなく男性っぽい、なんとなく女性っぽいみたいな漠然とした印象は持つ。人格や電子的情報だけで判断するのに性別もなにもないような気もするが。多分肉体で人間を識別するときの癖なんだろうな。人間が人間を識別するとき注目する特徴として、性別は大きいカテゴリだから。それは人間か?人間だ。大人か子供か?大人だ。男か女か?男だ。こういう具合に人間を識別する。同じ要領で人間として判断した対象の性別に注目しようとするのは、別に不自然じゃない。それに当てはめないで人間を識別するのはほとんど不可能なんじゃないかとも思うし。無意識のうちに一瞬で判断することだから。そうなんだけど、でもやっぱり人格には性別はないと思うんだよ。肉体はどうしても二極化して考えざるを得ない、例外はあるけど。でも人格における性別って単なるファッションだと思う。男らしく感じるか女らしく感じるかって、着てるものから受ける印象の差でしかないんじゃないの。服って記号だよ。どこの何に属しているかを判別する役割を持つシンボル。重要なのはその人がどこの何に属しているかとか、どこに属したいと思っているかとか、そういうんじゃなくて、もっとそういうのを削ぎ落としたところにあると思う。でもファッションを皮膚の一部や血肉として感じる人からファッションを削ぎ落とすことって苦痛で残酷な行為にあたるだろうなと想像する。性別が精神の服なら、服なしで人を捉えようとするのって、肉体に置き換えると服の上から裸を想像するみたいなことになる。まして服とかどうでもいいからさっさと裸を見せてほしいつってるのはマジで気持ち悪がられてもしかたない。僕が一番人に興味を惹かれる部分はなにかって言ったら、でもそれだと思うし。だから僕はファッションのことを大事にしていきたいとは思っている。自分があえて僕なんて一人称を使うのはそれこそ自分の中のファッションを大事にしているからでしかないと思うし。いかん。またひとりよがり比喩合戦になってきた。こうなると収集つかない。なんの話してたんだっけ。6000字近く書いとるし。なげーよ。夜更ししなくなったとか言っておきながら気づいたら午前3時じゃねえか。もう寝なさい。寝る。