頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

奉納3

過去を払い落とせない感じがする、足裏からついて回る影のように

今自分がこうして生きているのはあきらかに過去の集積があるからこそで、その連続体の終端として今ここがあって、それを思うとグラグラする

ライフステージ、通過儀礼、そういうのを無視しまくって今があるから余計整理がつかなくて混乱が多いのか

自分を説明できるものがなにもないと思う

今生きている自分はただそこにあるだけの自分として感じられるのに、自分を連続体としてみたとき全体が曖昧で輪郭を掴めない

整理がつかない

整理をつけたい

吹っ切れたい

 

僕がまだ小学校に通っていた頃の写真が出てきた

どの写真でも歯を見せて笑っている

自宅に友達を招いて誕生日会を催している写真

授業かなにかで描いたらしい絵や絵日記の写真

生命力に溢れた絵、あくまで作為を感じさせない作為的に切り取られた日常、年齢のわりに丁寧で読みやすい書き文字

完璧主義の気配を感じる

はつらつとしていて無邪気だ

恐いものなしという感じ

これも授業かなにかで、クラスメイトから自分がどんな人物か評価してもらう取り組みをやっていた形跡

「運動神経がいい」「あいさつがじょうずだね」「いつも声をかけてくれる」「べんきょうがうまいね」

自分が書いたらしい行動目標

「自分から積極的にやる」

そうか

なにをだ

人生?

マジでなんも覚えてないんだけど、登校拒否り始めた原因

たぶんよく言われるようにごく些細な嫌なことの積み重ねが原因なんだったとは思うんだけど

説明のつかない些細さ

不快感を感じるのが「間違い」とされるような対象に不快感を持つ自分への嫌悪感

潔癖気味なのは昔からなんだろう

「みんな仲良く」の世界観を本気で信じてる

正義感が強く、したがって無神経

正義は、正誤という枠の中で過ちを一方的に糾弾し、徹底的に排除しようとする危険なツール

なのに、危険さを自覚せず盲目的に自分は正しいと信じられた、それが無神経

その尺度でもって、「みんな仲良く」できないのは間違ってると思ったわけだ

その尺度でもって、周囲をジャッジし、自分をジャッジし、結果なんもかんも嫌になった

うーん、今でもバリバリある、その傾向

「みんな仲良く」!

ある一定期間まではそのシンプルさでも通用するけど、長じるごとに環境も関係もどんどん複雑になってきて、その思想だけでは複雑さに対処できなくなって、パンクした感じ

「みんな仲良くなければならない」か

だから両親の不仲にも怯えた

仲良くなくても問題ないと思えていれば生まれなかった怯えだ

攻撃的な態度全般に対する恐怖

確かにこれらは今でも根幹にある

それらへの対処法を身に着けようと苦心した記憶がある

他人から向けられる攻撃だけじゃない、自分の内から湧いてくる攻撃的な感情もそうで、自分が攻撃的であることを許せなかった

攻撃的であることに対してムカついて攻撃的になったり

あるある

今は攻撃性への対処法がわかるのか?

結局身につけたのは曖昧な笑いと逃げ腰な態度で誤魔化す技能ばかりじゃないか

ある時認めようと思った、攻撃性を

それで意識的に露悪的になって、攻撃性を自覚し、慣れ、自分の中に攻撃性を見つけるたびに、いちいち罰さずに済むよう、繰り返したこともあった

わざわざそんなことしなくても素で攻撃的なのに

素でいりゃいいんだ

そう、だから露悪的な取り組みに走る前は、攻撃性を抑え込める訓練をしていて…素でいないようにいるための訓練を…しつけをしようとしていた、自分に

それも暴力で

攻撃性でもって攻撃性を抑え込めようとしていた

あほだな

それで、抑圧を解除するのための露悪趣味だった

本来、より注目すべきなのは攻撃的な態度自体じゃなく、その態度がなにを求めて示されているのかを見る方にあるは確かで

僕は態度自体にだけ強く注目する癖があったから、ある感情が発された過去や背景のディティールにまで目が向かない

それで、単に態度が攻撃的だからという理由だけで瞬発的に警戒したり避けたり抑圧的になったり

それはとてももったいないことだと感じた

他人に対してもそうだし自分自身に対してもそう思った

でも、とにかく、素の自分はひどく暴力的だと感じる、だから隠すためのミノが必要で、それで…攻撃性を抑圧しようと試みていたのがちょうど高校の頃なんだった