頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

ああ落ち着く。この白い画面。記事編集画面のでかい白紙。

また頭がおかしくなってきた。情緒の乱れが激しい。情緒っていうか認識。認識が乱れる。認知の乱視。

起きたことを振り返ってみよう。

今日も出勤した。なぜだかとても気分がよかった。当たりのきつい人から当たりのきつい注意を受けた。でも心から愛想よく自分の不手際を改めてくれてありがと~という気持ちでニコニコと受け答えをしていた。口うるせえなおまえがそういう責めるような口調で俺を責めるっつーならこっちだってそれに応戦して殴り返してもいいんだぞわかってんのか?という青黒い気持ちは1ミリしか沸かなかった。1ミリは湧くんかい。ぼんやりとベールのかかった安寧。実際に起きていることが仮想的に感じる。いつも漠然と感じている、周りはすべて敵、常に命を脅かされている、という危機感のようなものが薄れている。ああそうか。世界はこうやって捉えていればいいんだ、と思う。普段おっかねえと感じるものがなにも怖くないし、どうでもいい。にこやかに電話を切ったあとすぐ悪態をつきだすおっさん。不機嫌な様子の同僚を噂話する雑談。すごい、怖くない、むしろなんか笑える、と思ってうっとりする。すばらしい。これが生きるということなんだ!なにしても死ななさそう、殺されなさそうな気がする。今ならなにをやっても悲観的に倦むことなく当たって砕けられそうな気がする。なんでいつもこうじゃないんだろう?はい、典型的な躁状態ですね。これを振り返っている今はもう無敵状態終わってるから普通にいろいろおっかないですね。なにを怯えることがあるんだよ、自分が自分にやってることとなにが違うんや、同じだろ同じ、同じことを自分はやってOKで人にはダメ出しって理不尽すぎる。それは本当そうだね。

ツイッターを見る。鬱病の友人のツイートを読む。闘病の様子をツイートしている。それをひどく感傷的に受け止める。とても同情的になって感極まった僕は一緒に暮らそう!と思う。どこか自然の多い、地価の低い田舎へ行って、サナトリウムよろしく二人で療養しよう!胸中はまるで白馬の騎士だ。僕は長い手紙を書きはじめる。一緒に暮らそうという提案を本当に文中に盛り込む。来年で今就いている仕事の契約が切れる、そのタイミングでどこかへ越してまた別の仕事を探すつもりだから、一緒に引っ越しをしよう。ツイートを見た瞬間に神経が発火して思いついた妄想だった。どうかしている。雇用契約が来年で切れるのは本当。どこかへ越したい、別の仕事を探したいと思っているのも本当。一緒に暮らす?一緒に暮らすってなんだ。なに言ってんだ僕。嫌だよ。そんなことしたくないよ。冷静になって妄想の箇所を削る。臆病のあまり普段から声をかけられなくてごめん、あなたが自殺に失敗してよかったと思ってる、生きていてくれて嬉しい、これはお見舞いのつもりのメッセージだから返信は気にしなくていい、云々。友人から返信が来る。しばらく雑談をする。友人が落ち込んでいるときに、友人の友人たちがその落ち込みを励ますメッセージグループを作っていることを僕は知っている。ぜひそれに参加したい、と僕は言う。正気か?嬉々として喋り続ける僕の影で冷たい脂汗を流す僕がぎょっとし続けている、こいつはさっきからなにをやっている。友人はグループに僕を追加することを喜んで許諾し、その通りにしてくれ、その流れでグループメンバーたちに僕を紹介する。友人は僕を「成功例」として紹介する。せ、成功?なんの?親元から離れて自立することの。グループメンバーたちは自立が達成された過程を知りたがる。なんだこれ。違和感を誤魔化しながら、僕は話しはじめる。サポートステーションでハローワークで説明してきたのと同じ内容をなぞり、それに最新の現状を上乗せする。なにかが変。感触がない。失念していた。そこで求められていたのは個人的な半生や思想などではなく、友人やグループメンバーにとって、希望になり、慰みになるような有益な情報をもたらすこと。僕の思想もその半生も、いずれにも該当しない、単なる現実離れした物語なのでは。それに気づき、まあこれは自分の場合に限ったひとつのケースでしかないから、あまり参考にはならないかもしれないけど、と逃げる。わかんないよ。希望的に受け止められてたのかもしれないじゃん。しかしクリティカルシンキングを働かせる余裕はとっくに消え、判断力が泥のようになっている。反応の速さから見て、グループメンバーは決まった複数人が常駐しているようだ。僕への質疑応答が一段落したところで、その人たちは自然に雑談へ移行していった。突然かつ一度にたくさんの質問に、頭が真っ白になった僕は雑談にはついていけない。というか、真っ白になっていなくてもついていけない。薄々、どうも自分は浮いてることがわかる。他の人々は切れ目のない、なだらかな応答で話をすすめる。僕はひとかたまりの文章で、いっぺんにまとめて喋る。それに口調がどうしてもおかしい。他の人々は一定の口調から一定の人格を保った真っ当な発言をする。僕は敬語やタメ口やおどけた態度や汚言すれすれのぞんざいな語彙や唐突な硬い語り口なんかが入り乱れた支離滅裂な口調になる。一言が長いし。ここで喋っているような態度をさらに誇張したような感じ。焦りと自嘲と悲壮と怒りをミキサーにかけたみたいな状態。意識すれば口調を一定に保つことはできると思う。でもパニックになるとどうにも口調の固定が思うようにいかない。だいたいからテンポが噛み合っていない。でもテンポが噛み合わない理由はわかっている。流れを意識して反射で喋ろうとすると、たいてい僕はろくでもないことしか言わない。ろくでもないことを言わないようにするために、ある程度反射を抑えて、理性的である必要がある。理性的であろうとすると、ぎこちなく冗長な説明口調になる……。ろくでもないこととは、要は、全体に流れている価値観そのものに疑問を呈するような批判的な態度のこと。それに触れちゃダメ、それに疑問を呈しちゃダメ、それを否定するような態度をとっちゃダメ。どういうわけかそういうブレーキが強く働いている。全力でブレーキを踏み、もうなにも喋れない。無心で、他の人々のやりとりを眺める。どうやら友人の友人たちも、普段からこの機会を利用して、思い思いに愚痴をこぼし合っている。とてもむつまじく相づちをうち合い、慰め合っている。不満。慰め。不満。慰め。以下エンドレス。発狂しそうになる。いやいやいやいや。なにそれ。なんやこれ。どこやここ。なにこの状況。無理なんだが。マジで僕はなにをやってんの?なんでここにいるの?こんなところにいたくないんだけど?パニックがひどくなる。おまえがここに参加したいと言い出したんだよ。想像できただろう、落ち込みを励ますグループやぞ。いや無理。無理無理。一秒も居たくないここに。違うんだ、不平不満を慰め合いたい同士が慰め合うのは利害一致してていい関係だと思うよ、実際友人がここに慰められてきているんだったら、それは本当にとても望ましいことだよ、でも僕には無理やねん、僕にはこの空気耐えられない、不平不満をなでなでよしよしで終わらせたくないんだよ、慰めは必要だと思うよ、でもそれとは別に不平不満を、感情を、徹底的に解剖して仕組みを知り尽くしたいんだよ、どうすればそいつを根本から解体できるか知りたいんだよ、じゃなきゃ気がすまないんだよ、なんでそう感じるの、なんでそう考えたの、なんで今こうなの、それを暴きたい。でもそうやって水を差すのは無粋だし、刃傷沙汰覚悟じゃないと切り込めなくて、僕はそんな覚悟をこの人たちに、この場所には向けられない。なんなんだ。なんでここにいる。なにをやってる?なにをした?なんでこうなってる?なんだこれ?息が荒くなる。頭がじんわり滲むようにしびれるのと連動して視界がゆがむ。酸素不足からくる目眩だ。今もまだパニックの中にいる。こういうときどうするんだっけ。こういうときどうすればいいんだ。こういうときどうしてきたんだっけ?なにやってんだろう。既視感がある。何回もこういう状況を繰り返し作り出し続けてる。もう完成されてる関係性の中に異物混入みたいなパターン。何回繰り返してるんだよ。すでにある関係性の中へ、自然に加わってる自分を想像できない。大縄跳びに入っていくタイミングを一生見失い続けてる。どう振る舞えば自然なのかわからない。いや、わかってる。でも僕が自然に振る舞ったら、舞台は即ちゃぶ台返し。ひっくり返したちゃぶ台の始末を僕はつけられないと思う。それはとても無責任なことだ。後始末ができないなら最初からひっくり返すような真似をしなければいい。そうだ。そうしたくないから無口になる。すいません。空気読めなくてすいません。そしてまた自分のことばかり考えて周りが見えなくなる。無口を自分に課す抑圧がストレスになって、中、小規模なパニックを何回も挟む。パニックでうまく現状を把握できず、把握しようとするとぐちゃぐちゃになり、ぐちゃぐちゃを晒すのが嫌で口をつぐんで、以下繰り返し。死。