頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

年齢による区切りを昔より意識しなくなってると思う。前はもっと特別な感じがした。特別な日がもっとたくさんあった。クリスマスや正月も、迎えることに緊張と期待がみなぎる日だった。祭り。ハレの日。毎日は惰性と習慣でケを帯びたまま繰り返される。365日を一周したからなんなんだ。あの高揚感と輝きはなんだったのか。今はただ区切って数を数える。ある状態とある状態を切り分ける。ひとつのものをひとつ以上にする。そうやって数えられるものにしていく。作業じみてる。なにもかも新しく感じられたから印象も鮮やかだった。時間を数えてこれだけの年数生きのびたとわかることは自分にとってどういう意味を持ってるんだろう。節目としての機能。年齢を数えて区切る行為に意識の注意が払われて、25才と26才の境い目に特別な意味を見出そうとする。意味を与えようとしてる。どんな意味をだろう。どこの誰たちから仕入れた意味だ?どうして特別な区切りは365日周期で1日単位の区切りにならないんだろう。毎日特別だと疲れるからだ。特別な日はたくさんあるうちのたったひとつだから特別なんで、毎日が特別な日だと特別は特別に埋もれて特別じゃなくなるからかな。でも毎日はそれぞれがたったひとつで全部が特別なのに?それとは別に意識の上で差別化をはかってる、作為的に意味を持たせてる主体がある。特別な意味をある1日にだけ持たせる。ゆるやかなグラデーションの色相、その節目。刻々と移り変わる色彩の、ある特定の色だけピックアップして注目する。全体の色が褪せて変化の緩急にとぼしいなら、どこをピックアップしようが同じじゃないか?グラデーションの中のある一点にだけ注目している間は、全体の色相を俯瞰で掌握できていないから全部が同じような色に見えるだけ?渦中では決定的な変質を見逃すように?毎日毎分毎秒精神も肉体も変化していて、生まれては死んでを繰り返していて、毎秒ごとに生と死の絶え間ない祝祭はあげられていて、そういう中にあって便宜上区切られたデータのほうに特別な注意を向けてると、その考え方をなじりたくなる。毎秒ことほぎたまえ。