頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

奉納8

半生を振り返ろうとしていて。

定期的に。

すぐに自分の現在位置を見失う感じがする。

それがいいことだとか悪いことだとか、そういうことが言いたいのじゃなく、見失いがちで、その結果、朦朧と苦しみ続けるのをやって、なにもわからない、わからなさに足を取られてもがくのを、何ループもしているから、その連鎖を断ち切りたいという話。

 

幼少期僕は甘やかされて育ったほうだと思う。両親は不仲だったが両者とも僕を蔑ろにするということはなかった。僕はよく泣きよく笑いよく怒っていたと思う。自分のしたいと思っていること、許せないと思っていることはなんでも正直に表現していたと思う。学校をやめて引きこもったのも自分のしたいことに忠実に従っている結果だった。そしてそうすることができたのは母親が僕の言い分を聞いてくれたからだと思う。父親はとにかく学校には行かせたかったんだと思う。すごく怒っていたような気がするが、そうじゃなかった気もする。母親と父親が別居しはじめた時期は、僕が登校拒否をはじめたころと時期がかぶっていた。僕が登校拒否をはじめたのが先なのか、両親が不仲になり始めたのが先なのか前後がわからない。とにかく両親は不仲になった。最終的に別居を経て離婚に至った原因を、僕は自分の行動が招いたことだと解釈した。そこに因果関係があったのかどうか、それはその時の自分には重要じゃなかった。とにかく悪い出来事には悪者がいるはずだと、悪者が必要だと信じていて、少なくとも両親は悪者ではないと思った。思ったというか、そう思いたくないために、自分を悪者に仕立て上げようとした、という感覚が強い。よくあるやつだ。バカだな。でも、子供ってそんなもんだよな、と今は思う。でも、なんでわざわざ、いもしない被害者や加害者を頭の中に作り上げようとしたんだ?

学校。学校、昔は好きだったと思う。少なくとも今ほど毛嫌いしていない時期はあったはず。いつから嫌いになったのか思い出せない。いつからかすべてがわずらわしく、すべてを遠ざけたくなった。間違いないとわかるのはそれだけで、なぜ遠ざけたかったのかの理由をいつも捕まえられない。今現在もまさにそれを引きずっているからだと思う。今もまだ捕まえられていないのなら、そりゃわかるはずがない。「すべて」の因数を分解しないでおいているから?加害と被害の関係に関することなんだろうか。人と人との関わりをそのくくりでだけ大きく捉えてしまう物の見方に関係しているのかもしれない。

 

物語ることの効能をよく考える。納得したい、と思うとき、納得するための物語を得ようと奮闘する。AだからBになった。つまり、AでなければBではなかった。自分がAであるということを忌み避けようとするときに持ち出されるこの形。Bと因果を結んでいるのがA以外の要因にあったとしても、A以外の要因一切が排されてるのに、納得のための物語性を感じる。

 

僕が自分を精神的に殴るようになったのは、自分が「自分のしたいと思っていること、許せないと思っていることはなんでも正直に表現」してきたからだったし、「甘やかされて育った」からだったし、「よく泣きよく笑いよく怒る」人間だったからだ。

そういう性質を「幼稚」として、「大人の振る舞いじゃない」からという理由で殴っていた。僕は、自分は「大人」でなければならないと思っていた。

そう思うようになったのは、幼稚性を殴って大人として振る舞うことを要求する人の姿を見て、従わなければ殴られると思ったからだと思う。幼稚=殴られる。大人=殴られない。殴られるのは嫌だ。じゃあ幼稚じゃなくなればいい、大人になればいい。それで、他人から殴られまいとするために、結局自分で自分を殴るというかなり意味不明な判断を下した。たぶん今もそれをやっていて、だからそれが苦しいんだと思う。

僕は結局「大人として振る舞う」ことが激烈ヘタクソだということがわかった。まともな社会人像。マナーを守り、礼儀正しく、頭がよくて貢献的で、常識的で博識で、努力家で人情家で謙虚で誠実で、理知的でユーモアがあって器用で多才で品行方正で清廉潔白で、誰も、なにも傷つけ、貶めることのない、何者か。

殴って矯正して身につけたそいつを目指すという姿勢、その演技、それは人を前にする限り永遠に装い続けていなければならず、無理な体勢を取り続けていれば筋を痛めるように、どだい最初から維持などできない、はりぼて細工でしかないわけで、ていうか、はりぼてすら装えてなどいない、ただそうあろうとして、そうであろうとして、そうでない自分を殴り続けてただけ。自分の頭の内側を、嘘で嘘を塗り固めて、その嘘が自分にも、自分以外にもなににも、ばれないように、見損なわれないように、失望させないように、迷惑をかけないように慎重に、いつも緊張して、やがて虚勢が崩れて、なにもかも台無しになる。それが僕が大人として振る舞おうとして得てきた経験から得た感覚。

自分の「幼稚」さを受け入れようと腹をくくってからは、ひどい自縄自縛の感覚にとらわれづらくなった。でも、まだ人の前で人として振る舞おうとするとき、「大人たるべし」の名残が尾を引いて、それに苦しむ。

いいじゃん!その苦しみと引き換えに「あからさまに非常識で反社会的ではない一見まともに見える人物」として、「まともな大人」が得られる権利を買っているんだから!等価交換じゃないですか?

「まともな大人」が得られる権利って?

殴られないこと。

 

僕は、自分で自分を殴って永遠に自分を苦しめ続けるよりも、どうしようもないヴァルネラビリティを撒き散らしてでも、他人に殴られてでも、自分で自分を殴らないでいることのほうを優先しようと思った。

でも、僕は、自分の暴力性を嫌いだ。それは幼稚な自分に「大人としての振る舞い」を望む僕がもっとも重視した抑圧対象だ。幼稚な暴力性。加害者としての自分。加害者として、僕は君とどう接すればいい。

抑圧。それを消し去るための力じゃなく、それと一生を付き合っていくための力がほしかった。ほしかったし、今でもそれを強く求めてる。

でも、僕は暴力的なんだよ。