頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

気分が凶暴になっていると凶暴なことを言いたくなるので凶暴なことを言いたくないなぁと思うときは最適解がしゃべらないになってしまい苦しいので凶暴なことを言うための場所は必要だと思うんですけどそれがインターネットである必要はまったくない。なぜ人目に触れさせることが重要になるのかわからない。昇華のための自己完結でいいなら頭の中に閉じこもっていればそれですべて完璧なのに、でもそうでいられないということはそれが完璧な答えじゃないということ。呪いを伝染させたいのかもしれない、風邪菌みたいに、ウィルスをばらまくことで濃度を薄めたいとか、道連れを得たいみたいな、すすぐこと、洗い流すことよりも、侵食させることによる領地の拡大で自分の力を確信する。一種の生殖本能?

 

引け目の話の続きをしなければならない。それをするのは信仰の問題だから。強迫観念の。

僕は自分が自分に対する引け目を感じることで他人にそれを伝染させるのが嫌だと思っている、でもそれは伝わる、と感じる。臆病と卑屈、侮りと猜疑、そういうものがないまぜになった暗い視線、なにか相手のことをじっとりとした嫌な目で見ている自分がいる、そういうものを、そういう視線を人に浴びせたくないと思う、ところが自分の意志でそれを止めようがないので、手をこまねく。よくわからない。多分ものごとの明るい面だけ分け与えたいという欲がある。無遠慮に生傷に触ってしまうんじゃないかという怯えがある。でも自分の言動はそれそのものが生傷に触る媒介みたいなものだと思う。この話はやっぱり考えてもきりがないし終わりがないし無限回廊になっている、この怯えは消えることはないし消すべきものでもないと思う、それを抱えてやっていくしかないと思う。

 

書くのは自己治療の一環だと思う。

 

多分もっと簡単な話だ。僕は被害妄想が強い。ないもののなかにあるものを見出そうとする。それは自分の内側から作り出している観念の投影で、自分の影で、自分の影に怯えている。

 

母に最近できるようになった仕事の出来具合を話したら、手放しに褒めたり感心したりしていた。職場の人に目を合わせて笑顔で挨拶され、目を合わせて笑顔で挨拶し返す。人事の人が職員の対応を簡単な罵倒語でけなしているのをまた聞いた。たとえば全員が黒髪な中一人だけ茶髪でいるのは刺されそうで恐いから目立ちたくない、という意味の、言葉の断片を聞いて、相手に当てはめ、自分に当てはめ、この場所に当てはめて、社会全体に当てはめて、考えるのをやめた。雑談と仕事の話の境い目には、磁石の両極みたいな力の流れがあって、誰もそれを気にしていない、もしくは気になっていないよう振る舞うことができる。タイムラインに流れる日常の切れ端が意思疎通を目的に叫ばれる「見つけて」と「寂しい」の信号に一瞬見え、次の瞬間「触るな」に切り替わる。

 

あ、そうなんだ、と思った。気分の問題なんだ。誰かと考え方や人生観が違うことは、イコール敵対関係、一触即発にもつれ込む土壌がそこにあるものだと。でもそうじゃないのに。なにが言いたいんだっけ?うまく言葉にできない。なにかわかった感じがしたのに。価値基準に沿っている善いこと、それは善いことだから喜ぶ。善いことでなかったら喜ばれない。喜ばれないのは嫌だなと思う。喜ばせたいし喜ばれたい。期待に沿えないのは嫌だなと思う。そうやって機嫌を伺う。人の気分に左右される。悲しんでいたら悲しい、喜んでいたら嬉しい、怒ってたら恐いし、くつろいでいるならくつろいでいられる、みたいな。気分に重きを置きすぎている。赤ん坊じゃあるまいし。でもそうなんだ。優しく丁寧に接されると敵意のなさに安心し、暴力的かつ粗雑に扱われると敵意を見出し警戒する。態度によって態度が変わる。なんかすげえ普通っぽい。そうだね。そして疲れる。そりゃいちいち顔色伺ってたら疲れるだろう、顔色伺うって相手をコントロールしようとすることだから、なんとか相手の機嫌とって、自分が安心を得られるよう他人の機嫌を動かすっていう方法だから。そのコントロールの目的が自分の安心を得ることなら、いかに労せず得られるか考えたほうがいいんじゃないすか、で、他人の機嫌をコントロールしようとするのは労がすげえということに気づけよと。だいたい人の機嫌は人のものであり、それを土足で踏み込んでいって勝手に書き換えるような真似をするのはどうなんだと、それは人の気分がただあることの尊重を踏みにじっているだろうがと。こういうことを考えているとバカバカしいとか考えるだけ無駄だとか考え方が幼稚だと一蹴して話を切り上げようとしたがる自分がおり、でも切り上げたところで事態は変わらず僕はこのバカバカしく無駄で幼稚な自分を抱え続けていくのだから、話は切り上げられても問題意識自体が立ち消えるわけじゃない。でも前に自分で言ったじゃねえか、体験の中でしか理解を得られないと、だったら机上の空論はもう十分!まあ、そんな深刻な重いものとして捉えなくていいじゃん。書いたり考えることでなにか解決するとか、なにかあるとか、そういうの期待してるってことでしょ、だから実りがないと思うとくさくさするんだ。でもこれ、習慣で、運動だから。排泄だよ、排泄。

 

気分を害したくない、という命題。僕は誰かの価値基準から大幅に外れていて、誰かの気分を大きく害してる、そのことを悲しんでる、害したくないのになと思う。害しているんじゃないか、みたいな想像を勝手に膨らませて、それが被害妄想に。肥大化した妄執。自他の境界がうんたら。時間が止まっている。自分がない。なんか気分に同調して、同調したあとどうしたらいいのかわからない、自分になにができるのかなにがしたいのかとかが見えなくなる。なにもないのかも。映画見てるみたいな。小説を読んでるみたいな。物語の外側で、僕はあなたの読者だ。僕はいなくなる。いないのに、いるようにいないといけない。それがなんか。よくわからない。部外者、介在も介入も不可能な膜の外側の存在。ただ見て感じる。怒りも悲しみも癒えればいいと思う。それは他人の感覚、他人の持ち物なのに。自分のもののように扱いたくない。同じように、誰にも僕を自分のもののように扱ったりしてほしくない。そうか。その葛藤。感覚や感情の共有に対する抵抗意識と、感覚や感情の同調に対する気質。でも、僕が同調しているのは他人の持ち物じゃなく、自分の影なのに。人の中に見た、人の感覚を、自分の中に再現して、味わっている、それは僕の感覚であって、他者の感じているものとは異なる。僕が翻弄されているのは他人の気分じゃなく、トレースして再現された自分の影。ことほぎも呪いも模造品で、単なる波紋。それは石じゃなくて、水面を揺らす輪。なに言ってるか全然わからへん。たとえば、なにか「ひどいこと」があって、それを「ひどいこと」と感じるのが、伝搬された感覚なんだったら、切り離せ、と思う。僕の中に石はない。なにもないのにひどく取り乱しているので、そこのことをわかっているからそれがまた滑稽で、なにやってんだかという感じがする。なにやってんだろう?