頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

横になっていると、頭の中で自分の声がしゃべりだす。

独り言。それに応答する複製された自分の声があって、応答に応答する自分の声があって……その反響。鏡地獄。

日記を書いたり、ブログになにか書く時も、「ちゃんとした文章を」というていを意識しなければ、自然その形式が再現される。

「ちゃんとした文章」というのは、一人称となる視点の語り手がはっきりとしていて、それが分裂したり収束したりしない文章で、つまり、視点が一つに定まっている文章。書記か誰か、現象を筆記する役割を持った人格が観察結果を記述する。

事実を列挙する、思ったこと、感じたことを言葉にする、そういう作業は、ある一つの視点に絞った時にはじめて成功する。すると、絞らなかった別の視点は言葉にならず、漏れて、消える。消えていこうとする、言葉にならなかった観念を取りこぼすまいとすると、鏡地獄に。

ひっきりなしの疑問と叱責。なんでそうなの?なんでそうじゃないの?なんでそう思うの?なんでそう思わないの?なんでそうしたいの?なんでそうしないの?

しらねえよ。

僕は一つに絞られた自分の姿をなんとなく認識していて、それは現実として自分がなにを起こしてきたか、なにをやってきたか、とにかく実際的な行動の集積に現れているんだけど、現れなかった部分の自分の姿について、現れている姿以上に思いを馳せるから、すごくばかげてると思う。それは実際すごくばかげたことなんだと思う。そして僕にはばかげていることのほうがおもしろく感じるし、大切なんだから、世話がない。まったくそれは愚かしいことだと言われるのは、例えば空は青いとか、雨が降ってると言うのと同じで、僕は、そうだね、空が青いね、と思う。雨が降ってるね。雨が降ってるにこめられる感情が、感嘆か悲嘆かで、伝えたいことは変わるけど、現象を表現している意味は同じで、でもやっぱりこめられてる感情が異なるなら、それは意味も異なっているんだろうな。

なんか同じことばかり考えている。

また同じ轍をなぞってる。

思考はぐるぐる、しっぽを追いかけるようにできているんだろうか、出口はなく、入り口もなく、最初からそこにあって、目に入った瞬間気になりだして、追いかけると止まらなくて、そして楽しい。ぼんやり、無為に時間を過ごすことは、僕にとって、とても気分がいいことだ。取り返しのつかない損失を、気づかないうちに与え続けることになっても、気づかずにいられるということは、それだけで気がラクなんだろう、気づいてしまえば、知ってしまえば、損害に対する対価を支払う必要にかられる、責務と責任だ。存在すると、存在するという理由で責務と責任を担わされる、よくわからないが、そういうシステムなんだ、とにかく。よくわかならないなら、わかろうとすればよろしい。僕はいまだに自分がなにに苦しんでいるのかわからないし、なぜ悲しいのかも。おそらく自分でそれを生み出しているんだろう、苦しむために苦しみ悲しみたいために悲しみたいんじゃないのか。なんかしら、そういう気質がある。食欲性欲睡眠欲苦悩欲、みたいな。

まったく見苦しいというほかない。ところが、見苦しければ見苦しいほど僕は自分に歓喜する、理不尽に虐げられ、痛めつけられ無残にのたうち回る、それこそが必要だと思う。それこそが本当だと思う。でなければ、すべては不条理であるということを忘れてしまうと思う。不条理こそが本当だと思う。なにか自分の思い通りに働く機械仕掛けの世界があって、目に映る物はすべて狂いなく仕組み通りに、期待通りに動いているのだという錯覚にのめり込む。規格通りの、異質なもののない世界。僕は自分が異質であることに安心したいと思うらしい。目に映る世界が異質そのものであることを常時感じていたいと思う。空は青いが、その青を見ている、見ることができる存在、あなたはひとりしかいない。とかなんとか。詩情たっぷりで嫌味だ。詩は嫌味だ。自分にしかわかるようにしか書いてない、自分でもなに書いてるかわからない、そもそも意味などない、こめた意味をあくまで観測者に汲み取らせようという受け身の姿勢とか、行間を読んだり背景を察したりすることこそが深みであり、深みを理解できないものは入ってこなくてよろしいという選民的な態度とか、曖昧な表現で言い逃れできる逃げ道を作っているところも嫌いだし、解釈に答えはない君の感じたことが正解だなんていうのは、托卵じみてて気味が悪い、それはあなたの子供であって、僕のじゃないし、僕が受け取るかどうかは僕が判断することであなたに決められるようなことじゃない……また僕は誰にキレてんの?いつも仮想敵と戦ってるな。ていうか、まあ、全部自分に向けた批判なんですけど。つまり、言葉は意味を伝えるためにあるんだから、意味を伝えようとすることにもっと真摯になれよと思っていて、詩情とかいう逃げ道を使って、ファジーな方向へすぐ舵を切る癖があって、そのことを……。

また同じ轍をなぞってる。

自己批判、自己嫌悪、自己憐憫、自己陶酔。自己完結。自己満足?

自分を満足させるために他人を道具のように扱うよりはいい。

道具のように扱うって、例えばどんな風?

人格を無視すること。機能や、役割としてのみ見ること。

人格はあるひとつの機能、ひとつの役割だよ、人格を尊重することは、機能や役割として扱うことに含まれる。

機能や役割として扱われない存在ってどんな存在?

空が空であるように在ること、雨が雨であるように在ること。

僕は自分が機能や役割として見、扱われる一方で、個人や、個人の集団を、機能や役割として見、扱うし、自分もその一部だと思っているから、そのように見、扱われることに納得がいっていないのが、納得いかない。そのように見たり扱ったりすることは、空が空であることと同じだと思う。そうなるようになっているからそうなっている。でも、納得がいかないことに納得がいかないのも、そうなるようになってるからそうなってる。

いつからなんだ?なにかいびつじゃない、理想の状態があって、それに向かって手を伸ばす、そういう習性が身につくのは。なにをモデルにした理想なんだろう。いつ、どこで、誰を参考にしたいびつじゃない形なんだろう。どうして自分じゃなく、自分じゃないなにかでなければならないんだろう。どうして自分は自分じゃなければいけないと思い込んでいるのだろう?

 

なんかよくわからない。四六時中ぼーっとしている。あらゆるコミュニティから逃れて、自分の内面にこもるのをやり続けている。内でも外でも、やってはいけないことと、やらなければならないことが叫ばれすぎていて、うるさくてたまらない、とても混乱する。自分の中に入ってくる外のルール以外に、自分のための内のルールを調合する必要があって、外から入ってくるものを参考にしながら常時作り直していて、ひとつひとつを点検して、ひとつひとつの判断に、ああでもないこうでもないと喧々諤々、でもまたわけがわからなくなって答えを保留にして、わけがわからなくなるような自分を情けないと思ったり、まあそれでいいんじゃんと思ったり、なじったり讃えたり、足蹴にし、おだて、なだめ、嘲笑い……反応の視線が総動員して、うるせえんだよマジで。キレて嫌になって、面倒になってすべて放り出す、短気で感情的で幼稚で、だから……気づいたら内面にこもるのをやり続けている。なんでもかんでも保留保留だ。なにを保留にしているのか忘れるくらい保留にされている。でも、保留にされているままだと思い込んでいるものが、まだそこに保持されて留まってるのか。そうじゃない。タイミングはいつもその時、その一瞬しかないのに、その一瞬が永遠にあるわけじゃないのに、一瞬を逃し続けている。僕はそのことで僕を恨んでいる。臆病さを。自分の中にはなにもないという感覚に胸を張らない自分を。右ならえの義務感で、判断するための判断をしようと画策する自分を。また、変に胸を張る自分を。判断を避けようとする自分を。あらゆる自分を憎んでいる。なにこれ?なにをやっても憎まれるんだから、どうもこうもない。だから…もういいよ。好きにする。あるように任せる。それは責任放棄?でも、なんの責任?手綱を握ってしつけを施して無害かつ有益な存在であるための責任?それは誰が決めた責任?いつ発生していつ同意した責任?

多分、意識が発生した時、同時に。

責任。義務。嫌いな言葉だ。強迫観念を引き起こす。本来果たされるべきものが果たされないとき、期待が裏切りに変わるとき、怒りと恨みが生まれる。怨恨は義務の名のもとに正当性が担保され、大義名分をもって容易に私刑を引き起こす。僕は、自分に正当性があると思うとき、自分がもっとも暴力的になれることを知っている。正義は暴力だ。だから誰にも期待したくない。誰にも義務を課したくないから。でも、それは無理。100%は無理。ゼロエイドが無理ならファーストエイドを考える。そのように切り替えたい。いつまでゼロリスク信仰から足を洗えないんだろう。ていうかまたこれ。こうやってごちゃごちゃ考えてるうちは切り替わらない、それはもうわかってる。捨て身にならないと身につかないタイプなんだ。実際に体験しないと理解できない。延々、紐の強度を確かめて飛び降りずに下ばかり向いてるみたいだな、飛べば気にしてる余裕もなくなるのに、と思う。臆病な部分を指して臆病じゃなくなればいいのに、と言うのは、青空に向かって紫空だったらいいのに、と言ってるみたいなものなんですけど、空のたとえ気に入りすぎか?

あれこれ書いてすっきりするかと思ったけど、そうでもないな。なんかすっきりするときと、そうじゃないときがある。視点の分裂はあんまり関係ない。宿便みたいなやつが出てくるかどうかが肝っぽい。書くのは排泄に似てる。便秘したり下痢ったり。出産に例えて安産難産っても言えるけど、でもやっぱり、僕の場合は排泄物だと思う。自分が排泄物と人間の出産の差をどこに見出しているのか知らないけど。出産といえば、子供の頃母に、僕が産まれたときどう思ったか聞いたら、「本当に自分の中に人間が入ってたんだ、と思った」と言っていたのをよく覚えていて、印象的だった。そのとき感じた驚きと不思議さと奇妙さを、それが自分の姿に重なるのを、しばしば想像した。排泄するときとか、掃かれていく髪や、手にとって歯をしげしげ、もともと自分の一部だったものが離れて独立してあるのを見るとき、似たような驚きを感じるんだけど、それだけでもそうなのに、じゃあ自分の腹の中に別の人間が入ってる、嬰児の不気味さやばいなと思って、おもしろくてたまらなくなる。

だらだら書いてたら夜が更けてきた。6月の終わりの朝方は、かろうじてまだ空気が冷たい。朝になると日が空気を温めて、昼になれば十分に温まった熱気がこもる。夜に少しずつ空気をさまして朝方近くようやく闇の中で冷たくなって、また日が昇って、温まって、そのサイクル。日中の熱気を体がまだたくわえ続けていて、空気は冷えているけど暑い。冷たいシーツ、冷たい枕に、熱を移して眠っていく。