頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

奉納4

中学在籍中の3年と卒業扱いになってからどこにも所属しなかった3年、対人恐怖はピークに達していた。

外に出るのが怖かった。

人と会うのが怖かった。

人を見るのが。

人の目を見るのが。

人に見られるのが。

自分の体がそこにあることが怖かった。

自分の精神がそこにあることが怖かった。嫌だった。苦痛だった。

存在それ自体が激痛だった。

頭の中では一挙手一投足に強烈な暴力が振るわれ続けた。

身動きが取れなかった。

所属を前提とした構造の中で、所属先を持たない自分は不安定だった。

所属先があれば所属先の中での不安定さがある。

実際には、無所属という所属に属していたんだけど、それはそれで嫌だった。

なににも所属していたくなかったから。

なにもかもが嫌だった。

でも、なにも楽しくないわけじゃなかった。

その頃すでにインターネット文化の中で生きていた。今ほど公共的なSNSが発達しておらず、もっとテリトリーのはっきりとした個人サイトが活動の中心にあった。ウェブページは部屋だった。他人の部屋。僕は透明人間で、勝手に人の部屋に入っていき、勝手に本棚やらおもちゃ箱やらを覗き込んでいる、そういう感覚が強くあった。

Yさんのことを思い出す。Yさんの描く絵を僕は好きだった。僕の好きなゲームのファンアートを描いていたのをきっかけに知った。Yさんは世の中の全部を憎んでいた。口が達者で、近づいてきた人間全員に噛み付いて、でも好きな人には知性と関心を持って、理性的に好意を示す。僕は当時14~15歳だった。Yさんは僕の一つ下で、性自認は男、身体は性器を切除した半陰陽。頭のよさと先天的精神疾患と孤立した自分を自信の拠り所にしていて、猟奇趣味的で、寂しがりだった。

YさんにはT君という架空の友人がいた。夢の中で彼と会話をしては、そのやり取りを日記に綴っていた。二人は、互いの家庭環境を愚痴ったり、一緒にオンラインゲームで遊んだり、オカルト情報を共有して楽しんだりしていた。T君は、痩せ型だがYさんと比べて大柄な体格。おどおどと気弱で泣き虫、一方で衝動性の強さからくる暴力癖がある。T君は、喧嘩腰かつ挑発的なYさんに、時々容赦なく暴力を振るう。そして我に返っては泣いて謝る。Yさんは、非力で反撃が利かないから殴られっぱなし。暴力を振るわれながらYさんは、それでも冷笑的で、精神面で優位に立とうとした。T君は、マゾヒストで、殴られると興奮する性癖を持っている。Yさんは、サディストで、人を痛めつけると興奮する性癖を持っている。T君は、Yさんを殴ったあとには泣きながら、殴り返すよう懇願する。Yさんは、泣いて謝る無抵抗のT君に、暴力を振るっては高揚する。

Yさんとその友人の関係を、僕は創作だと思いながら眺めていた。ていうか、情報を列挙してて改めていろいろ盛りすぎやろ、と思った。こういう関係やキャラクター性はでも、一度にわかるのではなく小出しにされた情報の中から、徐々に輪郭が立ち現れてわかっていった姿だった。だいたいは明文化されておらずただ情報を匂わせるだけ。行間を読ませる語り口で。日毎に、姿が鮮明になっていく。

Yさんは言った、彼を非現実と見なすやつは彼の存在を殺している殺人者だ、彼は実際に、いるのだ。少なくとも、Yさんの中にT君は存在していた。

現実的存在と非現実的存在の違いとはなんだろう。存在は肉体に依存しなくても成り立つ。そこにいると思えばいる。あると思えばある。ないと思えばない。すべては認識の中で完結する。特に、インターネットではより顕著になる。非現実的存在と認知すればそれは非現実的存在として認知される。架空のものは架空として処理される。でも、現実的存在として認知すればそれは認知した人の中で確かに現実的存在となる。現実と非現実の境が曖昧になる。僕の中でYさんとその友人Tは現実的存在だった。僕にとってT君は明らかに架空の存在だったけど、ついでにYさんを構成してる自称情報も猜疑の目で見てたけど、でも、架空の存在が、架空でありながら同時に現実的存在として存在する、それがこのとき確かに、自分の中で両立されていた。実態がないことが架空であると言うなら、Yさんもまた、インターネットの中では単なるデータファイルとしてしか存在しない。そこに実態はない。でも存在する。頭の中に実在する。現実のYさんを僕は知らない。その存在も、確かさも、嘘も、なにも証明できない。認識の中で、すべては架空に還元される。現実にあるのは数キロバイトのテキストデータ、数キロバイトの画像データ。僕の頭の中に再構成されたYさんは、どのくらいの容量を占めてそこに、僕の頭の中に存在しているんだろう。

同じ時期、僕は深夜アニメを視聴するのに夢中になっていた。serial experiments lainの存在を知った。とても好きになった。同タイトルのゲームがあると知った。プレミアのついた絶版になっていた。ゲームは主に、数秒から数分の音声ファイルで構成される。玲音という少女の音声日記、玲音が通っているカウンセリングでの会話、玲音の担当カウンセラーの日記。ネットの海に放流されているこれらのデータを、プレイヤーはサーバー上から回収する。断片的にストーリーを追う。物語は徐々に変調をきたしていく。玲音がどういう存在で、このゲームがなぜ存在するのか、それがわかるエンディングを迎える。動画サイトに、ゲーム性を再現した動画ファイルが多量にアップロードされていて、僕はそれを見た。とっても影響を受けた。Yさんもlainを知っていた。妙に納得した。Yさんはよく、自分は二次元的な存在だ、と言っていた。そう思う、と僕も思った。

Yさんは、次第に病的になっていった。自信の拠り所だった疾患を、治療するため、あるいはコントロールするために、薬漬けになっていった。絵のタッチが変わり、身体的変化に苦しみ、より自閉的になった。最後にはページに鍵をかけてアクセス制限を施し、心を許した人以外との接触を絶った。その状態が何年も続いて、やがてウェブページは消えた。

Yさんと会話したことはない。一方的に見ていただけ。本を読むように。今でも、インターネット上に存在するすべてのデータは、本の中の存在みたいに感じる。そこにいないのに、すぐそばにいる。

僕が恐れるのは、自分が本をいたずらに書き換えてしまうことだった。あくまで僕は、登場人物じゃなく読み手だった。リードオンリーメンバー。登場人物じゃない何者かが物語に入り込むのは冒涜だと感じていた。僕は、登場人物になりたかった。でも、資格がないと思った。その権利が。この考え方はどこかがおかしくて、なにかがゆがんでいる。でも、今でもわりと、結構、頻繁に、強く、そう思う。