頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

理想と現実の境い目

「つまらないこと言わないで、さあ行こう。ぼくの行動や言葉はすべて君の念願の具体化なんだ。君自身の気分よりもぼくの言葉のほうが君そのものなんだ。ぼくを信じるんだな。君は本当にバベルの塔に行くことを願っていたのだよ。君は知らないかも知れないが、今君の身にふりかかっているすべての事件が、ことごとく周到な君の空想の実現なんだよ。いわば君の努力の結晶なんだ。君はぼくを産み、そして育てた。君の手帳はぼくの名をつけられ、意志と行動をもつに至った。ぼくは君の影を食い、消化し、君以上に君自身になった。今ぼくはここに存在する。ぼくは肉体をもち、影をもつ。ぼくは君の意志であり、行動であり、慾望であり、存在理由なんだ。」

「言葉の遊戯だ!」

「そうさ、君は言葉の遊戯が現実化することをねがっていたんだから……。」

(安部公房『壁』)

 

 

こういうところでなかったら、この子もこういう真剣な話をしなかったかも知れない、と思ったりした。中村君が言ったとおり、どういうわけか日本ではコミュニケーションが薄まってしまう。個人としての話を聞くことがほとんどない。日本で、たとえば会社の傍の喫茶店で同じような話を聞いても、中村君という個人の話ではなく、中学生の談話として聞き流してしまったかも知れない。実際中村君の告白は、今の日本では掃いて捨てるほど語られていることだった。小学生のときの友達をいじめて、そいつは自殺未遂をして転校してしまったんです。そういう話を普段日本で聞くとき、不思議なことにおれたちは語り手個人の話ではなく、中学生という集団内の一つのエピソードとして聞いてしまう。こんな時代なんだし中学生は多勢いるわけだからそういうことだって多々あるだろう、そう思ってしまうのだ。

後藤はペルーの空気についてえんえんと語った。関口さん、ペルーは貧しいしリマのスラムは不潔だし、軍隊は威張っているし教育水準は低いし住むのは本当に大変だけど、何て言うか、あの空気なんですよ、空気。乾いていて、朝とか寒さがピンと張り詰めていて、青臭いことを言うようだけど自分のからだと世界の境界がはっきりするような気がするんです。自分がここにいて、からだの輪郭を包むようにして世界がその周囲にあるって当たり前のことですけどね、はっきりとしているんです。日本にいるととても過ごしやすいです。何となく暖かいし、自分と世界の境界が何となんくぼんやりとしていて、楽です。十二歳のゲリラにライフルで撃たれることもない。でもときどき自分が本当にここにいるのかどうかってことが曖昧になってしまうことがあるんです。自分のからだと、外側の世界の境界がはっきりしない。自分のからだが溶けてしまって自分のからだを確認できないような感じがするときがあるんです。外側というか、自分のからだ以外のものと自分がどこかで接しているという実感がないと、自分のことを確認できないんじゃないですかね。

(村上龍希望の国エクソダス』)

 

 

諸君はまた一笑に付してしまわれることだろう。どうか遠慮なく笑ってもらおう。わたしはあらゆる嘲笑を甘受するが、それにしても飯が食いたいときに、わたしは満腹ですなどとはいうわけにいかない。とにかく、わたしにはわかっている。わたしは単に自然の法則によって、実際に存在しているからというだけの理由で、いい加減な妥協や、無限の循環零の上に胡坐をかいてはいられないのだ。わたしはむこう千年間の契約で、貧乏な間借人に貸す部屋をたくさん仕切って、万一の場合のためには、歯科医ヴァーゲンハイムの看板をかけた、素晴らしく大きなビルディングを持って来られても、それを自分の欲望に与えられた月桂冠としては、受け取らない。どうかわたしの欲望を殲滅し、わたしの理想を抹殺した上で、何かより以上すぐれたものを示してもらいたい。そうすれば、わたしは諸君の後からついて行くだろう。諸君はことによったら、そんなことにかかわり合うだけの値打ちはない、といわれるかもしれない。けれど、そうなればわたしだって、同じ言い草で答えることもできるのだ。われわれは真面目に考察しているのに、諸君は「お前のいうことなどに注意を向ける価値がない」という態度をとられる。それならわたしもお慈悲など願いはしないつもりだ。わたしにも自分の地下の世界があるのだから。

(ドストエフスキー 『地下生活者の手記』)