頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

不登校ユーチューバー。

登校拒否りはじめた時期同じくらいだし、考え方も似てるし、全然平常心で見てられないんだけど。

やりたくないをことやるのも人からなにか強制されるのも嫌だし、嫌なことは避けたい。

僕、未だにこの人とほとんど同じ行動原理で動いてるから、全然中身変わってなくて笑っちゃうよ。

「人間的成長がない」ですね?

そうだね。

俗に言う人間的成長って、対人関係の摩擦を経験しないと得られないものだと思う。

摩擦、衝突の結果、なにがベターな選択なのか妥協点の探り合いがあって、そうやってお互いを尊重し合うための作法が身につくんじゃないですか。

形式としての礼儀じゃない作法が。

まあ僕はその摩擦を避けたいがあまり、ほとんどの場面を「形式としての礼儀」だけぶん回してその場をしのいできたから、そりゃ当然成長もないわなっていう。

でも、最近はその摩擦や衝突に対する恐れよりも、尊重のための作法得られる方がよくねっていう方に舵切るようにはなってる。恐いのはずっと恐いけど。

でもまあ基本は嫌なことから逃げ続ける人生なんだよな。

あと、一個変わったな。

当時はこういう、不登校児だの引きこもりだのに向けられた説教の類とか否定的な言説、痛みや苦しみとしてしか受信・知覚できなかったけど、今はダメージあんま受けずに見れる。

まあ、あなたがたならそう言うでしょうね、と思う。

 

周囲の人間がロボットみたいに見えるか。

僕もまったく同じこと思ってたな。

この人も散々指摘されてたけど、じゃあ自分はロボットじゃないつもりなのかよっていう話で。

その軽蔑の目線、自分の首絞めてるよ。

誰しもがなにかの奴隷だよ。なんらかの命令、なんらかの指針に従って生きる。

学校の奴隷。会社の奴隷。国の奴隷。村の、親族の、制度の、思想の、感情の、肉体の、本能の、遺伝子の、自分自身の、奴隷。

ロボット、奴隷、不自由な者、への軽蔑の目線、結構あちこちで見かけるけどね、歌の中だの、広告の中だの。

俺は自由で、お前は不自由。不自由なお前はカワイソウ、俺は自由にやれてる、お前も自由になろう。

解放運動。

次はなにから解放される?

 

ところでこの人、宿題とか嫌なことしたくないのはわかるけど、どこを「嫌なこと」の最低ラインに据えてるんだろうな。

どこまでなら「嫌なこと」に耐えられる?

その「嫌なこと」、避けられなくて、耐えられなかったらどうなる?

僕は、当時そこまで考えてなかったな。

この人はどう考えてんだろうか。

僕はそんなに考えてないけど、未だに。

まじで行き当たりばったりすぎる。

嫌なことに耐えられなかったら?じゃあそのときは死ぬことになるだろうなぁ、っていう。

避けられるなら避けるためにあらゆる手を用いて全力を尽くすだけだし…今もそうやってる。まあこの戦略じゃそのうち死ぬわ。

そう、そのうち死ぬしっていう刷り込みが強すぎるからなんかね。

今すぐ死ぬなら、今すぐ好きなことやっといたほうが悔いなくていいしな、とか思って。

実際特に悔いはない。

物欲強いほうじゃないから、ほしいものが手に入らなくてもまあいいか、で済むし、最低限命あるだけですげ~と思えるし。

あとは他人の目が気にならなくなったら無敵なんだけど、と思う。

結構気にしちゃうんだよな、人間、この年齢になったらこういう実績解除してこういうランクの地位についてないとちょっとアレ、みたいなやつ。

アレだからなんだっつーんだよ。

アレであるという自覚を持ってアレとして生きていたいですね。 

 

人との関わり。

人間社会は人とのつながりで構成される。

つながりが薄いか濃いかの違いはあれど、基本その輪から脱することはできない。

完全に社会性を喪失できれば抜け出せるけど。

人類、原始の段階では力を合わせて生き残るっていう「協力」のための確固とした一つの共同目標があったかもしれんけど、安定して生き残れるようになって、共同の目標ふわふわになっちゃって、協力するための方針が今や支離滅裂で、じゃあそりゃ戦争も起きるよなっていう。

目下、いかに大きな戦争を起こさずに共存するかが課題って感じで。

戦いの規模が小さいうちに、なるべく血流さないで済む決着の付けかた覚えないとじゃないすか。

なんか人を死に追いやってる自覚なく人間を追い詰めてる人たちいっぱいおるけど。通例とか常識っていう思想のもとで。