頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

いい加減無理がたたったね。

休みを取り、家でだらだら過ごしている。

たっぷり泣き、たっぷり眠り、たっぷりツイートを読み、たっぷり歩く。火や水や土や木を見る。

コンロをひねると青い火が、均一な形で現れる。透けたびろうどのように揺れる影。一見して温度を感じない。冷徹な表情。冷たそうに見えるくらいだ。でもこの冷たい影が、鍋底を舐めて水に熱を通す。その熱が、菜の茎やりんごを柔らかく変える。夜中に、意識が興奮して寝付けず、部屋の散らかりを片したり、買い置きした食材の調理をしたりして過ごした。暗がりに電球色の照明を浮かし、明かりの下で落ち着かなく動きまわる。気が急く。自責の念や自罰的な意識が、怨念のように胸の内に渦巻く。それでも体を動かしていると、ベッドの中でじっとしているよりマシだった。火の形や、動き。土から育って商品としてあつらえられ、売られ買われ運ばれ、切り刻まれ、死に、これから自分の体の、命の足しに、一部になっていく菜や実。それらを見る、感じる。そうしていると気が休まった。

眠り、目が覚め、眠り足りなくて寝直してを繰り返し、12時間以上は眠った。起きる。食事をする。本を読む。スマホをいじってツイッターを眺める。散歩に出る。雑木林で木の葉のそよぎを、川原で春の強風をあびる。2時間ほど歩いて、家に戻る。

 

 

疲れた。

疲れている。

気力がない。

この生活は消耗戦だ。

「たかがアルバイトじゃないか。なにをそんなに気負うのか。重い責任もなく、たいして面倒な業務内容でもなく、ある程度手を抜いても成り立つ。そりゃ手を抜けば抜いたなりに眉をひそめられはするだろうさ。でも人命に関わるほどのことじゃないんだから別に構わないよ、少なくとも僕はそう思う。それともなにか、面子を立てることと命を喪うことは平等だとでも?」

「なにをそんなに気に病むんだ。なにをそんなに必死になってる、そんなに追い詰められてる、いっぱいいっぱいになってるんだ」

「そう、いっぱいいっぱいだ。他のなににも手を付けられない」

「違うな。もとからなににも手を付けてなんかいないんだ。なににも手を付けていない状態が自然で、そこに新しく手を付け加えるべきものが増え、だからそれだけでいっぱいいっぱいになる……」

「そんなにつらいならもうやめようよ。はじめから成り立たないってわかってたじゃないか。別の方法を探そうよ。今の方法にこだわる必要はないんだから」

「別の方法ってなに?」

「それは知らない」

「別の方法ってなに………」

相変わらず頭の中では抽象的なやり取りしか取り交わされない。

なにがどう、ここがこう、みたいな具体像が線を結ばない。

どうなってる。

 

そういえば植物園のバイトは不採用の通知が来た。面接に行って改めて詳細を聞いたら、業務内容が園内の植物に関わることじゃなく、周辺施設一帯の清掃が主な内容だったこと、かつトータルで見ると給与が今のところより安くなる、アクセスも微妙に悪い、などの理由から、結果がどうあれ辞退しようとは思っていた。周辺施設の清掃が嫌だったわけではないんだが、今の業務と比較すると圧倒的に今のほうがラクではあるし、給料もいい。でも今の業務は週5日のうち2日は絶対超絶キツいってことがわかりきってて、そいつがしんどいのと、完全に自分の意思疎通下手なのが原因なんだが職場における人間関係がいまだに苦痛でしかないのがしんどいので、このしんどささえなければなとは思う。

ハロワのカウンセリングサービスも先月の終わりに行って、それ以来予約を入れていない。今後の方針としては、より条件のいい仕事を探し、かつその職に就くために必要なスキルがあるならそれを身に着けるなどして、まあ当面は今の仕事とこの暮らしを続けましょうというのが自分の中で固まったっぽかったので。固まったっぽいというのは、そのときの気分と気力次第でその方向に考えが偏ったり、あるいはなにもかも投げ出してあらゆるしがらみから解き放たれたいという考えに偏ったりするからで、その方針が一概に固定的とは言えない、というくらいのニュアンス。

しばらく解放されたい側に偏っていた。

偏っている。

偏っている理由はわかっている。業務で、週2日はあるキツいヤツへのプレッシャーが肥大化してきているからだ。あと意思疎通下手なことへの自意識の過剰化。諸々のプレッシャーに対応するための余裕が消え失せ、精神状態の維持が手に負えなくなっているのと、キツくないほうの業務にも余裕のなさを感じはじめてしまい、なにをしていてもしていなくても涙が出てくるようになりはじめ、こらあかんと思って休養モードに入った。

とりあえず平謝りしながら体調不良なのでこの期間休みますつって休んだけど、この状態どう説明したらいいのか。軽欝? 説明しても言い訳としてしか見られず理解されないのではとか、説明されても向こうからしたらただ面倒でしかないわけで、面倒、すなわち迷惑をかけることを暗になじられたり責められるのではとか、鬱陶しがられて仕事干されて終わりなのではとか思う。業務は遂行できることが当たり前で、できないなら相応の対処を取る、それについて文句はない。自分に関する報連相をしたくないわけじゃない。ていうか単に情報を共有するって点においてなら、積極的にしたいくらいだ。でもそういう、情報を共有する段階において「なにか漠然とひどい目に遭う感覚」の妄執に取り憑かれて、それをするための意欲が潰れて小さくなり、どんどん体が固くなり、行動の自由が効かなくなり、身動きが取れなくなる。一度取り憑かれはじめると、自分の持つ感覚の感度以外が認識の外に出ていき、自分の中の苦悩や苦痛以外のことにアクセスできなくなる。苦痛に注目する以外の認識の一切が遮断される。そういった状況ではいったん懊悩を生む要因となっているものから距離を置くしかない。そりゃ懊悩そのものを感じなくなればそれが一番ラクだ、それに越したことはないが、少なくとも今は懊悩を感じているんだからまずそいつをどうにかすることのほうが先だ。

それで、まあ、距離は取れた。

はい。

それで?

それで。

プレッシャーなぁ。

毎日決まったことを時間通りに繰り返さなければならないっていう、それ自体がすでにプレッシャーなんすけど。

ルーティンって、気分、情緒、精神状態、思考回路、そういうのの管理まで含めてるわけですよ、相当なことが要求されてるのに、当たり前みたいにまかり通ってる。すごすぎるだろ。すごくないですか?機械じゃねえんだぞ、気分を無視して毎日毎日一定通りに動けるかっつうの。一定通りに動くことを想定されると、一定通りじゃない自分に罪の意識を感じる、期待通りじゃない自分はなんてダメな奴なんだ!つって。

いや……一定通りじゃないほうが自然な状態なんだけどな。それを鋼の規律で律して慣らして、体ごと順応させて、それで成り立ってるわけですよ。

順応できないことは別に罪でもなんでもない。少なくとも僕はそれを罪だと思わない。だいたい罪って「誰かにとっての不都合」くらいの意味だろう。僕にとって順応的でないことは不都合どころか、ある程度順応しない領域があることが僕自身の健康で健全な生活に不可欠だと思っているから、100%順応することのほうが罪くらいには思ってるよ。結局、100%順応できないことが罪っぽい空気……を意識の内に作り上げている自意識に思考が侵食されてるだけなんだ。

なんなんだろうな、この、順応しろとか、完璧たれっていう命令を下してくる感覚って。ある種の強迫観念。一生こいつにさいなまれ続けて生きるんだろうか。こいつの影を他者の中に見る。鏡のように。他者が実際のところどう考えているとかが一切無視されて、そう思っているのに決まっているという前提でしか相手を見れない。つまり、「自分ができていることは相手もできて当然、できないのは"おかしい"、"欠陥"だ」という目で見られていると。

別になぁ……じゃあそう思ってたらなんなんだって感じだよ。おかしいし欠陥。ある点から見てそれは事実、少なくともそういう見方は可能だよ。でもだからなんなんだよ。

それを理由に悪しざまにけなされたり、バカにされたりこき下ろされたり……槍玉に挙げられ、責められるのが怖い。

やっぱそれか。

まだ慣れないのか。こんなにありふれているのに。一歩外に出たら、外に出なくても、内に外に、そいつで溢れかえっているのに。

 

ある同僚が、いかに仕事ができないかを話のネタに上げられたり、物笑いの種にされたり、あげつらわれているのを、間接的に見聞きしただけで、全身に鞭を打たれたような気分になった。人々の中でそういう話題、そういう扱いは、僕が感じているよりももっとウェイトが軽い。「仕事ができない」という指摘は単に指摘でしかなく、漫才におけるツッコミ、どつきのようなもので、詰問するような性質のものじゃない。槍玉に挙げられている当の本人も、取り立てて過剰に思い詰めてはいないようだが、僕はそういうやり取りを、必要以上に重く受け止める。その同僚の立場に置かれたときの自分の姿を想像しないではいられない。そういう扱いが自分の身に起きうる環境なのだ、いや、僕の目の前で行われていないだけで実際すでに起きているのだ、と思う。それでまた必要以上に緊張する。緊張し続けるからいつまでも場の空気に打ち解けられず、全身を固くして心に壁が生まれる。そうやって打ち解けられないでいることで、またあれこれ気を遣わせたり、扱いづらがられたりするんだと思うと、もうね。はい。はいはいって感じ。いつものパターンにゃ。(あっニャースだ)

別に打ち解けたくないわけじゃないんすよ。緊張していたいとも思わない。壁を作りたくもない。なんでもないことのように話をしたいし、楽しめるならそれを楽しみたい。

それを楽しむことが「迷惑」の反対で、「役立つ」ことだからすか?

どこまで人の顔色をうかがい続けるんだ僕は。

 

ところで、当然自分の中にも、なにかを「責める」自分だっているわけですよ。自責の念がまさにそれで、自分で自分を「責める」。自分の中に「責める」自分がいるんだから、表面上とりつくろえていたとしても、同じ手口で他者を「責め」うる。それでいてそれを棚に上げて、人が「責めて」いるところから逃げたいっていうのは無理だよ。自分の中でさえ逃げられない。

うまく付き合っていくしかなかろう。

前はもっと全力で逃げて全力で拒絶してたけど、今はもうわかったよ、諦めたんだ、それが消し炭のように跡形もなく消えたり、100%逃げ切ることはできないと。

それでどう付き合っていくかを模索している。