頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

病院。インフルじゃないかどうか念のため!念のため行ってみて、案の定インフルじゃなくて、でもまあ風邪の初期症状っぽいからってことで処方れた葛根湯飲んでたら、全身の筋肉痛と首筋を寝違えてずっと痛かったのと喉の痛みがまとめてスッと消えてすげーってなってる。

精神科で処方される薬もこんな感じで効能実感できるのかなぁと想像する。自分でも変に意地のような抵抗があって、過剰に怯えてるってのは自覚してる。副作用とか、依存性とかが怖い。だいたい精神に作用するって、強制的に性格をいじくるようなもんなんだから、使い始めるとしたら一生の付き合いになる。性格を変えるのが目的なんだから、その性格を維持するために使い続けることになるだろう。それが嫌だった。そいつと日常生活を送るにあたっての障害を天秤にかけて、自分に手を加えるよりはマシだと思って"障害"を受け入れてきた。その"障害"、性格が、薬で"治療"されないといけないような対象だ、と思うこともまた不服だった。軍隊式世界観に馴染めないのを病気だなんだって言われてもな。現実問題、軍隊式の生活を送らずに金を稼ぐ手段から遠い距離にいるんだから、そいつを選ぶのは賢いんだろう。けどやっぱり納得行かないものは納得行かない。だいたい、軍隊式世界観に適応したいと思ってないし。

でも適応できなければ生き残れないんだったら、適応するしかなくない?

「しかなく」はないとは思うけど。

けど?

けど、他の方法を思いつかない。

国外逃亡しようぜ。

いいね。で、逃げた先でもあれが嫌これが嫌って逃げ回るんだろ。終わらない逃避行だね!

いいじゃん逃避行。一緒に逃げよう、明るく住みよい世界にさあ。

どこだよそこは。

自分の中。

なるほど。

 

今朝もだるかった。

目覚ましをセットした時間より約1時間早く目覚めて、目覚ましが鳴ったあともベッドの中でだるさと戦っていた。

気力を振り絞って起きる。起きたかと思ったらその瞬間に気力が失せてベッドに戻る。ベッドの中でしびれたように身をすくませる。葛藤の末、起きて、でまたすぐ戻って………2時間くらいそうしていた。

自分に語りかける。

君がしんどいという気持ちを僕は知っている。君の感じるしんどさを僕は深く理解する。寝ていたい、安らいでいたい、動いていたくない、なにも感じたくない。そうだね。ところが僕は金を得たいんだ。自力で生活を送っていく技能を身につけたい。二者間に葛藤が起きる。君はくつろいでいてくれて構わない。でも僕は僕の意志を遂行する。君が放り出したいと思っていることはすべて僕が肩代わりする。まあ見ていろよ、うまくやるさ。

それで、うまくやった。

多重人格ごっこだな。

今更なに言ってんだ。どいつもこいつも多重人格だろ。分人ってやつだ。赤ん坊以外で、現代に、精神構造が多重じゃないやつなんているか?いやいや、みな器用に、無自覚に人格を使い分けてるじゃないか、下手をすると赤ん坊でさえ。僕はそれをより意識的に表現してるだけのことだ。

 

例の喫茶店へ行って、人と話す。

今日はK氏目当てじゃない。

ひと気が少ない。ぎこちなく、居心地が悪い。借りてきた猫のようになる。緊張、気まずさ、遠慮。そしてそれらを解消したいという欲求。僕はその欲求を解消できるだけの力を発揮できない。解消を試みてはいた。打ち解け、会話を楽しみたいという欲求がある。楽しみ、それは相手の考えや感じていることを聞くこと。知りたい。でも、いきなりこんなこと言ったり聞いたりするのおかしいだろ!とかって自己批判的な自分がブレーキをかけ、ブレーキ踏みすぎて無口になる。無口になるより多少おかしなことでも喋り続けてたほうが不安がらせなくて済むと思う。楽しみたいという気持ちよりも、不安や緊張のほうに意識が注がれる。思い出したように、質疑応答かなにかみたいになってしまう単発の質問をぽんと投げかけて、それでも回答をもらえる。ある程度納得する。次につながらずそこで流れが止まる……っていうのを人生で何回も繰り返しているなぁ!

上手な質問、なめらかな相槌、流れを掴み、話しやすい空気、発話するのが自然な状況を作る。職場にそれがめためたにうまい人がいる。余計な力が入っていないという感じがする。柔よく剛を制しているな、と思う。

剛ってなに。

緊張ですよ。

なにに緊張してるの。

知らない。

「発話するのが自然な状況」っていうのがキーなんだよ。僕は人との会話に重い感情を持っている。それが重すぎる。だから自然体ではいられない。常に緊張する。神経過敏になる。口を開くのに多大な勇気がいる。当たり前みたいには喋れない。そりゃあ力も抜けない。しかも緊張が伝わって相手もぎこちない返しにならざるを得ない。張り詰めた会話になる。悲しいことです。

僕は別に人が好きってわけじゃない。むしろ逆だ。基本的にはわずらわしいと思っているし、自分が興味持ってるとき以外積極的に関わりたいとか思わない。興味持ってるときですら、密に直接関わるより遠くから眺めているくらいでちょうどいいと感じる。

ならなんでこんなに執着してるんだよ。執着を手放してえよ。

興味を持ちつつ距離を取るのは、なんだろうな。あれだな。自然現象を眺めているときのような距離感に近いと思う。つややかな草の質感、風の力で柔らかに型崩れていく雲々、雨粒や砂粒一粒一粒の凛と明瞭な存在感。そういうものを眺めるとき、ただ眺めているのが楽しいというだけで、べつにそこに自分が加わっていってどうこう、みたいにはならないのと同じ。