頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

罪悪感の整理、保身と期待、個と集の優先順位、懊悩の効能

今日も手を動かしていこう。

運動不足。

運動。運動には頭の活動も含まれる。

身体的運動はもちろんのこと頭のほうも動きは最小限だし鈍い。

それはそうだ、引きこもってるんだったら。

いや、そうかな。引きこもってても精神も頭脳も活発に活動している人はいる、単に僕が怠惰なだけだ。

引きこもり。

結局いつもここに戻ってくる。

適応しなくちゃと思う。頑張ってみる。続かなくて部屋に閉じこもって一切を放棄する。それは自殺なんだ。死にたくなる。でも死ぬ勇気もないから活動の停止という方法を取る。自殺細胞。適応できないとわかると自動で消えないといけないと判断する思考回路。それは自分がどうとかじゃなくて人にとってどうかという観点でものを見てるから。人っていうか。内在化された社会性? そこにいてはいけないならそこにいないでいないといけないと思う。従順だなあ。禁止行為。犯罪。ルール。誤り。過ち。悪徳。罪。自分がそう認定されることが嫌だからそれを避けようとする、避けられないなら隠そうとする、隠せないなら存在を抹消しようとする。避けもせず、隠しもせず、消そうともしない視線で自分を見ることでかろうじて息ができる。頭の中で。言葉の中で。言葉にしないと永遠の無言の空気圧の中で思考停止する。言葉にするためには一人の空間が必要。だから引きこもる。生きるために引きこもってる。社会的に死ぬと同時に個人として生きる。

大層な御託だ。

でもそうなんだ。

さあ今日は布団でも干そうか。なんだか部屋の空気が淀んでいて気持ち悪い。溜まった洗濯も片付けよう。しばらく曇っていて今日もそんな感じだけど空気は乾燥してるしかまわないか。

僕はきっと来年の春には実家暮らしに戻っているんじゃないか。そういう約束だ。今は猶予期間で。今月中に引きこもる、以外のアクションをここで取れないなら資金提供もなし。何度か頭の中でサポートステーションを利用する自分を思い描いてみた。地元にいたときにも一瞬利用していたんだけど。なんかそこも例のごとくすぐやめてしまった。「続けることが肝要だ」。その通り。やめた理由。いつも同じ。居心地が悪いから。自分の場所じゃないと思う。そりゃそうだ。自分の場所ってなんだ? いてもいいことを許されてるという感覚が感じられる場所。結局就職支援制度なんだから、マジで働きたくねえと心から思ってる僕のような人間には常に刑罰を食らっているような感覚がある。矯正されなければならない障害としての自分。まあ居心地いいわけない。居心地のよさを期待するなよ、そもそも。まず前提として誰にも許されてないっていうのがあって……誰かにとって利用価値がなければ自分はその空間を占める粒子の一粒であることが許されない。

さっきから許されない許されないってなんなんだ。なぜ他人の許可がないと自分の存在を認められない、と考えるんだろう? どうしてそんな考え方になってしまったんだ。どうすればその考え方は自分を追い詰める方向じゃないものにシフトしていくんだ? なぜわざわざ自分を追い詰めるような考え方を選ぶんだ?

重く見積もりすぎてる。自分の影響を。引きこもって、親にすねかじって、学も能力もないまま生きる、そこから変わろうとしていない状況、それは確かに損失だ、社会的な。社会にとっては。でも社会が僕になにをしてくれるんだ? 障害たる存在の矯正は社会にとって有用である機能として自己改造するという意味だ。それをしたところで僕になにが残る? 機能としての僕は苦悩を感じる僕を救ってくれる? えっ救われたいの? あっ救われたいのか。めちゃくちゃ自分大好きじゃん。いやじゃなかったら今まで生きてないでしょ。ていうか今までの生き方がまさにそれを体現してる、わかりきってる、嫌なこと避け続けて生きるって自己保身強くないとできない生き方っすよ。自分になにを期待してるの? えなんだろう。嫌なことを嫌なことだと感じないようになること? なんで嫌なことを嫌なこととして受け入れることができないんだろう。それをそのまま受け取りながら生きていくだけでいいのに。変に否定したり避けようとしたりしないで。まあそれができてたら引きこもってないし極度に人との接触を恐れたりしてないと思いますけど。だからそれができるようになればいいんじゃん? 知ってるか、抽象的な目標はモチベーションを低下させるんだぞ。5w1h云々の具体的な情報が欠けてるとゴールも思い描けない。そこへ至る道や手段がわからなければ達成への期待値が下がる。長期的な目標を立てるときは手順を細かくするのがベターであります。そうですか。そうですね。なにもかもが漠然としている。物事が具体的であればあるほど自分には関係のない遠い世界のものだと感じる。そこに自分はいない。機能としての自分にリアリティが感じられない。リアリティが感じられないとなにか問題あるんすか? それが苦痛の根源? 人間性を肯定して欲しい?

ちょちょちょ。どこに転がってくんだこの話。

哲学は暇じゃないとできないことで、つまり暇だから哲学チックな方向に考えが向く。暇じゃなければいいんだけど暇じゃないのはなんだか空恐ろしく感じる。その場を凌ぐこと。だましだましやっていくこと。抑圧されている自分を無視すること。それをおざなりな生き方だと思う。うわ出た傲慢。でもそう感じるんだ。都合の悪いことから目を耳を感覚を塞ぐための多忙。いやそれ今まさに自分がやってることちゃうんか。自分以外にとってゴミでしかない自分って都合の悪いものから意識を逸らそうと懸命になる。あれっ、でもそうじゃないのか。じゃあ働かないと、なんかしないと、って方向に考えることが自分にとっては都合の悪いものから意識を逸らそうとすることなんだ。"重要じゃない自分"を"重要な自分"であるように見方を変えていこうとしてるから。それは嘘だしごまかしだ。だって僕以外にとって僕が重要じゃないのは確かだから。仮に、仮に誰かにとって僕が重要に感じられたとして、それは僕が重要なんじゃない。その人にとって重要に感じること、がその人にとっての重要なんだ。

はい。

自分にとって重要な自分を大事に思う? そうならどう自分を扱うのが大事に扱ったことになるのかおしえてくれ。

疲れた。

重要なのは自分の性質を知ることだろう。殻が割れないように卵を守ることじゃない。それは逆行。僕だって割りたくないわけじゃないむしろ割りたいのに、意に反して自分が動けないのが嫌だ。意に反してはないよ。攻撃から自分の身を守らないといけないと考えるのは自然なことだ。ただ攻撃と認定するその範囲が広い。あーそうだね。おまけに自分がそうだから、自分のルールを他人にも適用して想定する、つまり自分の些細な言動がどれだけ他人にとって強力な攻撃になっているかと想像する。影響力の過信。「人にとって自分という存在は案外どうでもいいものなんだ」という言葉の空虚さ。どれだけ僕は人からの影響人への影響を怯えているのか。

いやどうでもいいよ。

重く考えすぎ!

考えるのやめたらええねん。

それができないから今こうなんだよなぁ。

じゃあこれは変えようのない自分の性質のひとつなんだろう。必要以上に思いつめて考え過ぎ。それはやめようと思ってやめられるたぐいのことじゃない。習性。

本当にそうか? やめようと思ってないだけでは?

まあそうかも。ごちゃごちゃ思い悩むのは悪い気分じゃない。ていうかそこを経ないと落ち着かない。思い悩まないでいるっていう状態が怖い。自分がどんなおぞましい思考回路を経てるのか無自覚でいるのが怖い。

じゃあきっと他人のこともそう見ているんだろうね。その人が自分の思考回路に無自覚でいるかどうかを見て、無自覚そうだなと判断したときおぞましい人間だ、と思うわけだ。いやそれはあるな。めっちゃあるなー。それ外から見ただけの勝手な判断すよね……安易なレッテル貼りとなにが違うの。認識とはレッテル貼りのことだろう。見る。その行為が既にレッテル貼り。ステレオタイピングから逃れるのは不可能。大事なのは認識を更新していくことじゃないのか。一面的な見方や自分の中の善悪正誤の判定をするためのマトとして人を見るんじゃなくて。どういう人間なのか多面的に知ることじゃないのか。だから第一印象や少ない情報で対象を判断してしまうことをみだりに責めたり被虐的になったりするのは不健康。だし、レッテル貼りを避けよう避けようと考えるのも、無理な方向に関節曲げようとしてるんとおんなじじゃないのか。それは避けようがない。認めるしかない。それでやっと先に進める。

いやなんの話やねん。

うう。