頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

社会的時間、感覚否定恐怖症、正常維持困難性への自責

また朝だ。

何回目の朝?

まあでもここのところのだいたいの朝は眠っていて、起きて朝を迎えるのは久しぶり。

久しぶりというほどでもないが。

いつから昼夜の感覚がいかれてるんだろう?

ずっと小さい時分、まだ小学校だの保育園だの通っていた頃は社会的な時間に合わせて活動できていた。それはそのように活動するのが自然だったからだし、そうするように教育を受けたからだし、自分の時間をコントロールするのは自分じゃなくて自分の外にあるものだったから、親、先生、学校制度、国、社会。

引きこもりはじめてからは概ね狂いっぱなしだね。寝るのも起きるのも自分の好きなタイミングでいいんだし、コントロールしてくれる制度からも自由。

昼夜の感覚。共通の時間。人と時間という概念を共有するということ。

僕の時間は僕の中にだけ流れていて、誰とも共有されていない。

うんうん、それで?

朝起きて、所属してるなんらかの組織、集団、群れ、仕組みの中でその一部として活動する、夜帰ってきて休息のために眠る。そういうサイクルが確かに昔は体の中にあった。小学校までの生活、通信制高校の生徒としての生活、私塾での生活。ブランクで挟まれてる。間のブランクっていうかヒキニート生活では社会的な時間を無視した過ごし方を、社会的なサイクルで活動している間は絶え間ない違和感と拭えない嫌悪感を伴いながら過ごした。

はい。なにが言いたい?

なにが言いたいんだろう? つまり、一定のサイクルを維持して時刻通りの活動をしなければならない、という状況は僕にとってストレス、つらい、苦痛な、枷のような、どう形容するのがぴったりなんだろう、とにかく身体的に気持ちの悪く感じるもののひとつなんだ。

ふーん。でも社会が時刻通りに動いてるからこそ僕はその利便性を利用できるわけだけど。おもに交通機関。あ、交通機関以外は別にどうであってもいいな、各自の好きなタイミングで活動してて僕になんら影響ないから……。やってなければないでそういうもんかと思う。例としてコンビニ。24時間年中無休開いてる。でも僕はコンビニめったに使わないから、24時間開いてなかろうが年間何日か休みがあろうが、変わりがない。でも必要なんだよ。それを必要としてる人がいるから。僕にとって無用なのは当然だ、それはそれを必要としてる人のためにデザインされていて、必要としていない人の意向を取り入れるのは機能の維持に逆行することだから。交通機関。も、それが時刻通りのものでない、という前提で動いているんだったら、そういうもんかと思って特別不満もない。もともと田舎のダイヤに慣れてるし。なんで不満がないかっていえば、僕には時刻通りに行動しなければならないという制約がないからだけど。時刻通りに行動しなければならない制度の中にいたらそうも言ってられない。

時刻通りに行動しなくてもいい職業ってすごく限られてない? ていうか集団で生産性を高めようと思ったら、全体の統一が不可欠だから当然時間も不可欠なんだよ。そもそも前提としてあなたと同じ時間を自分は共有しています、あなたに流れている時間と同じ時間を自分は過ごしたいです。という意思表示の道具として時間はあるわけだし。人間の最小単位、が僕の中では僕つまり個人レベル、に収まってるけど、最小が集団であるなら共有は絶対条件なんじゃん?

あーー。

基本的に書きっぱなしにして整合性は気にしないのが吉やで。とにかくどんどん出すことだけが自分にとっては重要なことだから。それが一番今必要としてるもので、整合性がどうとかもっともらしいかとか論理が破綻してないかとかそういうのはどうでもいい。自分の中に詰まってるクソを吐き出さないといけない。なぜならそれを溜め込むことが自然になっていて溜め込むことは自分を苦しめることだから。苦しむと苦しみにしか意識が向かなくなりほかのものへ意識を巡らせる余裕を失うことになるから。余裕を持ちたい。

余裕? 僕は余裕がない。真面目だと形容される、人からは。それは力を抜くのが下手という意味だ。適当でいい、もっと。でもそうでいられない。けど僕は適当だし雑だよ、基本的には。ただ常に力んでるってだけで。力みを減らしたい。でも力みを減らしたらまともじゃないと思われるだろう。そう思われることのなにが問題なんだ? 事実まともじゃないんだから嘘をついて見栄を張るより話がわかりやすくなっていいじゃんか。まともじゃない? まともとは? 僕はまともであろうとする。異常な考えを持っていると思われたくない、自分の考えを説明するのが怖い。考えを否定されるのが怖い。自分の感覚が間違っていると言われるのが怖い。なんで? 自分の感覚や考えはそこに確かにあって、正しいとか間違ってるとかいう次元で判断するのはなんかずれている。そこにあるものは、Aの見方から見ればもっともらしく感じ、Bの見方から見ればなにかが合っていないという感じ方になる。肯定されたからと言って自分の感覚が変化をきたすわけじゃないし否定されたからと言って消えてしまうものでもない、感覚はそこにあるものだから。違う。肯定されたり否定されたりしたら変質するね。つまり、その考えを"正しいもの"であるとか、"間違ったものである"とか感じるようになる。そういうふうに変質するのが怖いんだろうか。特に、間違ったものであるという方向に変質するのが。うん。でも自分が確かにこの考え方は改めたほうがいい、と確認できるなら間違ったものであるという方向に変質するのも納得行くことなんじゃないか? そうだけど。あれ。"考え方"と"感覚"がごっちゃになってるな。えっと、まず"感覚"が最初にあって、それを基に"考え方"が築かれる。誰か他者から別な感じ方もあるのだと知ることで、自分の考え方も変わり、ひいては感覚も変わっていく。まあそうだね。それで、誰かにとっては自分の感じ方はおかしいんだ、と知ることによって、自分の考え方が"自分の感覚はおかしい"というふうに変質するのが怖いと。考え方そのものじゃなくて、感覚を否定されるのが怖い? そうか。そうかも。でも一番に自分の感覚を否定してるのは真っ先に自分なんだけどね。

与太与太。

なんかこういうことばっかり頭の中で考えてる。ベッドの中で。先週は一日の大半をベッドの中で過ごしてた。動けなかった。動きたくなかった。それは病的なものというよりも、ただ動くためのあらゆる動機がなにも感じられないというだけで、自分には自然なことのように思えた。なにも異質なことじゃない、病的なことじゃないと。やりたいことがなければ動きたくないというのはなにもおかしくない。やりたいことがあるから人は動くんだし。やりたいことってなんだろうと考えた。自立。自分の経済力で自分の生活を支えられるようになる基盤を構築すること。それね、ゴールが遠すぎる、もしくは想定してる理想が高すぎる。条件の中に、低ストレスというものが組み込まれてるから。でも低ストレスな環境なんかないっすよ。どこに行ったとてそれはある。そこを受け入れられないから動けないと言ってもいい。理想の高さ。僕の悪癖。目の前のことから一歩ずつというやり方が体に染み付いてない。そりゃそうだ、避けてきたんだから。もしくは、実行している間中苦痛が伴っていて、苦痛を我慢することでしか達成できない行為だから。僕は苦痛を我慢するのが嫌いだ。嫌いっていうか、我慢しているとなにがなんだかわからなくなる、常に緊張がある。頭も体もその動かし方が間違っているかどうか、ってところにばかり判断の基準が置かれて、自分の感覚とか考えとか生のものに一切の蓋がされる感じがする。我慢しないでいる。となるとなにもしないでいるという結果に行き着く。なにかするってことは、その行為や言動を判断の裁判にかけることになるから。僕は断頭台に自ら進んで出向いていくのが恐ろしい。でも。なにもしないでいるのも苦痛の一種だ。なぜなら僕の命や時間は僕だけのものではないという感覚があるから。それは僕以外の力によって維持されているもので、僕の命を維持するものに対して責任、無責任さ、を感じる。報いなければならない、報えない自分でいるのは不義理だ。僕はいることを"許されている"から生きているのであって、いることを許されていないのであれば生きてはいない。許される自分であらねばならない、そうでなければ自分は存在できないから、と思う。まあそうなのかもしれないけど、過剰なんだよな。必要以上に罪の意識を感じる。そして罪の意識はあらゆる行動を制限する。~ねばならない、~でない自分は間違っている。~であるために努力するべきだ、~であろうとしないのは反逆だ。で動けなくなっちゃう。ガチガチに体が凍りついて身動きが取れなくなる。"正しい在り方"は維持するべきもので、維持するためにはある程度の我慢や抑圧が必要だ。維持できなくなったら存在することを許されないというプレッシャーが、維持することそのものへの抵抗感や恐怖を誘発する。正しい在り方。でも、それを維持できなかったからといって、それが許されないことだからといって、直ちに命の危険があるわけじゃない。それが許されない環境であればその環境からは白眼視され、居づらくなり、最悪放り出されるだろうけど、生命を絶たれるわけじゃない。はずだ。どこかには許される環境もあるはずだし、ないなら作ればいい。作るっていうか、もう自分が環境そのものっていうか、そこにいること、生きてること、自分で自分を許すことが、自分が存在してるって状態のはずなんだ。自分の存在を自分で許せないから誰かなにか外部に許してもらおうとする? でも許せないと判断するのは自分以外のなにかなのに?

うぁ。

こういうことばっか考えて一向体は動かない。大事なのは実際的な行動なのに。これもまたねばならない思考なのかも。"実際的な行動を起こさねばならない"。でもそれは確かなことだよ。どれだけの負担を自分に関わるすべての人間に強いて生きてると思ってるんだ、動かないことでなにを得てきたっていうんだ、資源の浪費は楽しいか? おっ、罪悪感のお出ましだ。でもここで自分を責めるループに入ると、自分を責める、以外のなにも注視できなくなる、だから不毛だ。もうそれが間違ってるとか正しいとか罪とか罰とか考えずに必要なことだけをやるのが一番早いんだ。でもすべての行為は善悪を判断され批判され悪であるなら存在を認められないのに? じゃあ悪であるからなんだっていうんだ? 存在を認められないという考え方が自分を苦しめる。誰に認められなくても自分で自分を認められていればいいんだ。自分で自分を否定しはじめたらそれこそ存在を維持できないじゃないか?

罪の意識を感じると動けなくなるのが問題なんで、罪悪感にとらわれなければ解決する話なんだ。

そうだね。