頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

理想と不満、枷の認知、痛みの忌避

さすがに3日も書いてると内容が堂々巡り感ひどくなってきてないか。

基本的な姿勢が同じだから新鮮味がないっていうか。

自罰的、自虐的、自嘲的。被虐意識加害意識。いやもういいっす、お腹いっぱい。

自分のどこを自分はどんなふうに不満なのか、を語ることに終始してしまう。

あ、これもまた不満なんだ。「~してしまう」。本来ならしてしまうはずじゃないのにそうしてしまう、という考え方。

じゃあ、想定している「こうあるべき」「こうありたい」っていう像があるんだな。

理想主義的だな。あ。理想主義的でありたくないという理想だ!

 

この場合どうありたかったんだろう。

不満を語ることに終始しない思考回路を構築すること?

そうかも。

 

ここ数日で読んでたネットの記事。

なんか読んでて「あ、これでいいんだ」と思えるような、安心感を覚えるものが多かった。無闇に自分をバッシングしないっていうか。

おとなしく自分っていうものの性質を受け入れてそれを育てていくのが。「これこれ」って感じだった。

不満、は常にうっすらとあって、でも優先させるべきなのは、不満に憤ったり悲観的になったりする態度の方じゃなく、不満を感じてる自分にどう接していくかを考えることの方で。じゃあ僕はずっと自己嫌悪を肥大化させていくことが自分にとっての心からの望みなの?、いやそうじゃない、って思う。

自意識過剰なのはもうしかたがないことだ。すべてのことがらは自分の意識、を通してしか認識できないんだから、そこにこだわりを持っている状態は別におかしなことじゃない。むしろそれを重要視しないでなにを重要視すればいいのか。自分のフィルターのかかっていないもの、を自分の目からは見ることができない。他人のフィルターがかかったものを見るときだって、人がフィルターを通して見たものを自分のフィルターを通してみてるんだから。

お前は自意識過剰なんだ、それは改めるべきなんだ、と言われたとき。でも、じゃあその提言をした人間は自意識過剰じゃないのか? 何を意識してるんだ? 何意識過剰なんだ?

 

なにも考えずにとにかく外に出していくという行為が重要だ。

なにか外に出すとき一旦考えてからじゃないとというストッパーがある。

いやもちろんそれは必要なものだ。でもそのストッパーの強度が強すぎていざというとき外に出さなければならないものを出せなくなるのが体を縛っているからその縛りを解きたい。僕は。

ストッパー。

周りに合わせて空気を読む、誰も不快にさせないよう気を使う、過激な言動を差し控える、そういう機能。

でも。ストッパーが働いたからっていって別に他人の得にはならない。むしろこちらの真意や本心がずっと明かされないままだからただただ扱いづらいだけ。だからこれは自分を守るための防衛機能として働いてるんであって、他人の得は考慮に入ってない。ただ、今この防衛機能は防衛という役割を果たしてない。誰も守ってはいない。自分も他人も。むしろ邪魔になってる。

なにを守ろうとしてるのか。いわゆる、プライド? 自分が傷つかないようにっていう。自分のやったことで、怒られたり、馬鹿にされたり、責められたり、嫌われたりするのは怖いことだ。という感覚がある。でも、そう扱われることが嫌だと感じるというのは、どういうことなんだろう。別にそう扱われたってちっとも動じない人と、僕の、どこが違っているんだろう。プライドの有無? プライドってなに? 自分を守りたいと思うこと? 守りたいと思う自己像があるかどうかってこと? 僕が守りたいと思ってる自己像ってなに? それって本当に守るべきものなの? もっと他に大事にするべきものがあるんじゃないの?

他に大事にするべきもの?

誰かに怒られたり、馬鹿にされたり、責められたり、嫌われたりしても、それでもなお大事にしたいと思うもの。

それは、やっぱり自分なんだろう。でも、世間体や人の目によく写っていようとする自分じゃなくて、もっと個人的な。ひとつの人格としての自分。集団の一部としての自分じゃなくて。

プライドって、集団の一部としての自分を、集団からはみ出さないように、集団からはみ出していないことを確認するほうに、向かっている自分の意識のことなのかも。

 

だめだ。もうなにも書くことない。

書くたびに「こんなこと書きたいわけじゃない」という意識が働く。

不満。

じゃあどんなことが書きたかったんだろう。

なんだろう。

なんだろうな。