頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

帰省中、まだ一人暮らしに未練たらたらなんで、コッチで自活できるレベルに稼げるようになったら実家暮らしに戻るのなしにしていいですかとゴネた。丸々一年近くなにもしてこなかった人間の一方的な自己都合、かつ金銭的にも精神的にも負担をかける要求にも関わらず猶予をいただきました。

じゃあ求職活動します。

 

就活か。

就活に対する嫌悪感抵抗感は絶対消えないからもうしょうがないんだけど、でも仕事っつーか金ないとのたれ死ぬし。

僕はヒキニートだけど、引きこもり・ニートは甘えって散々手垢ついた言葉を「それは違う」と全否定もできない。

だって扶養者の経済力に依存してないと成立しない状態だし。

精神面に焦点当てるなら、甘えという表現は言葉が足りないな。

要は、変な期待をずっと持ってる感じ。ひょっとしたら「なにかうまくやる方法」があって、自分は今それを選べないか見つけられていないだけ、「なにかうまくやる方法」を見つけることが自分にとっての救いなんじゃないか、と思い込み、無闇な消耗を抑えて確実なその選択を求めよう、と考える。

まあそうかもね。でもそれは一人悶々と、頭の中だけで追い求めたところで見つかる類のものではないのだが。無闇な消耗の中でしか体得できんだろう。

「なにかうまくやる方法」ってなに?

社会、というか他人か、と自分との関係が、win-winになるような状況だろうな。

そうだね。それが一番自分の望んでるものだよ。けどその関係って現場の中でしか変化生じないんすよ。相互のやり取りっていうか生身の人間を相手にしてないし、自己完結的なままならそりゃ膠着状態続くよなぁ?

 

引きこもり状態の時、僕の危機意識は、足りていないか、もしくは過剰か、そのどっちかに偏ってる。それはそうだ。社会とのつながりや具体的な現場から隔絶されてるから。特に僕は。まじで人と喋らんし。延々、イメージの中の社会と闘ってる。うーんあまりにも不毛。

実際的な問題にぶつかっていくことではなく、空想の中の「なにかうまくやる方法」を追い求めるだけの余裕があるのは、足場があるからじゃないのか、と思う。

扶養者の経済力っていう足場。

僕は要領が悪いから、頭で自分がこういうことしちゃうのはこういうことなんだろうなと腑に落ちたところで、行動を変えることができない。つまり、扶養されながらヒキニートから脱するっていうアクションが両立できない。親と自分を経済的に切り離して見ることができない。狡猾なんだ。心のどこかでいつもどうしてもあてにしていて、依存している自分に気づく。あてにしたくないのに。親と自分の経済関係を切り離して考えたいのに。沈む泥舟だってわかっていてもなおそうなんだから、どうしようもない。だから扶養されている限りヒキニートから脱そうという危機意識は常に低い状態にある。

 

なぜ空想を空想と割り切れずそこにこだわり、実際的な問題にぶつかっていこうとしないのか? 人生はトライアル&エラーじゃないですか? トライもエラーもなしでどうしていたいのか?

メンタルクソザコなんで。一回のトライで出るエラーの処理をさばききれずに一回一回オーバーヒートするんすよ。

あっこれはマジでそう。根本的に、打たれ弱すぎる。

「迷惑をかけるだろう」という意識で劣等感・罪悪感が常時、つきまとってる。亡霊のように。実際迷惑はかけるだろう、邪魔だし、手間がかかるし、"人材としてのコスパ"が最悪。僕はいないほうがマシで、余計なことしかしないんじゃないか? 余分な存在だと思う。迷惑かけるようなことになったら当然地獄のように苦しむし、かけなくてもそういう罪人的な自己イメージが凝り固まってるからやっぱり苦しむ。苦しむと、悲しいから泣くし、悲しいでいっぱいになって、なにも手につかなくなる。悲しいの無限回廊に取り込まれ、そこから抜け出せない。その精神状態を保持し続けたまま人と接する、集団に適応する、人生をやっていくというのに無理がある。だから精神科とか行ってみたりカウンセリング受けたりとかね、試してみたんすけどね、これ病気っていうか思い込みの集大成みたいなもんだから、えっと、認知の歪み?

つーかこれを認知の歪みっていうならそれを強化してくるような状況はなんなんだよ。迷惑をかけるな、有能たれ、無能に居場所はない、あれをするべき、これをするな、そうじゃないやつはいらない。人間じゃない。一方的な命令、要求、否定。ああ、はい、そうですね。

僕は、「実際に君は罪人だ」という自己イメージを強化してくるような環境からとにかく逃れようともがいたり、「僕は罪人じゃない」と自己イメージの書き換えを試みていたが、もう諦めよう。ああいいよ、そうだね、僕は罪人だ。だからなんだよ? もうしらん。

 

僕は社会側から見て実際に価値がない存在だし、僕から社会側を見るときもクソやん誰が迎合するかこんなもん、と思う部分ばかり目にいき、まったく自分の中で折り合いがついてないのに、歯を食いしばって耐えなければならない、一生をそうやって、と思うと本気で全部投げ出したくなるわけです。

 

自分の中のそういう感情を糧にして娯楽として楽しめる自分もいるので、一概にただひたすらに苦しいだけというわけでもない。NINやsyrup16gはこーゆう恒常的社会性フラストレーションがなかったら神経にリンクしてなかった。