頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

ぼんやりモードだ。

思考の流れが濁って感じる。意識が明瞭なとき頭の中の運河は澄んでいて、大小の石も砂の粒も藻類もなにもかもくっきりはっきり見える、ような気がする。そういうときとの見え方の差を比較して濁っていると感じる。

白濁。

結局自分や、自我というものは、環境に対して反応を返すだけの、なにか単純で難しいところなどなにもないちっぽけななにかです。それを変に難しく複雑にしたり、生地を引き伸ばして重ねて層を作るのを繰り返すから、わざわざ混乱さしている気がする。

もっとシンプルに物事をとらえられると思う。

考えることがなにもない。

ただ体が意識の外で死と生を絶え間なく繰り返していて意識は蚊帳の外です。

なにか考えるようなことがあったかな。

自我だの苦痛だの。

そういうことばかり考えてしまうのは、頭の中で自分と一対一になったとき、認識の中のあらゆる複雑なものを削ぎ落としたり削ぎ落とそうとしたりするからで、

僕は物事を考えるのは…

複雑なことを理解するのが…

物事を理解する…

そうじゃなくて…

もっと目の前にあるものを見る必要があるのになにも見えていないみたいで弱ります

生活、生活…

生活はあらゆる複雑なものから成り立っているから

あらゆる複雑なものを認識から削ぎ落としたら、わけもわからなくなるよ

不純物があることのほうが自然で

純然たる塊

それって概念の中にしかないのでは

概念の中のことばかり考えているために、抽象的な認識から手を離せない

現実感、現実感…

雑味込みでいろいろ見たり考えたり、物事をとらえ理解するというのはそういう

その視点

僕がどうでもいいとか興味持てないとか感じて無情に切り捨てているもの

でもやっぱだるいよ

全部だるい

現実

この間友人の誕生日にプレゼントを送ったら、僕にもなにか欲しいものはないかと聞かれた

なんもねえ

欲しいもの

生活が欲しい

ある種の環境

山奥で、薪ストーブのある家

火だな、火が欲しい

家の中で炎をたいて、そのそばで食べたり寝たりする

小さい小屋の狭い寝床

ストーブの熱で鍋とか煮れて料理ができるだろうな

火の形は雲のように見ているだけでずっと楽しい

冬は暖かいし

その家は寒い地域に建っていて、夏は涼しい、冬には火のある部屋の中は煌々と熱く外は凍てつく厳しい寒さで、春や秋には生命の宴がぐるぐるじゃんじゃんやっている

畑で、野菜を育てて、それを収穫して食べるのはすごく満たされるだろうな

周囲にはひと気がなくて、誰かいても誰もなにも詮索してこないといい

関心が人間じゃなく環境に向いていて

誰も人を警戒して笑いかけなくていいし

誰も誰もが善人であることを期待しない

太陽のあたるところに座って、石を触って過ごしたり

草の匂いをずっと嗅いだりする

野生の脅威と格闘したりね、そういう生活

それだな

それが欲しい

けど僕の目下の関心は、人間と人間の詮索癖と警戒心と期待や理想に、意識が集中しているので

インターネットでそういうのばっか見るし脳内にコレクションする

部屋にこもって

夜の暗い部屋で朝方まで

人間の雑味の中から詩っぽい部分を探してそれに触れようとする

詩っぽい部分

それも欲しい

偏食で好みがうるさいし食わず嫌いもひどいが

この際なんでも食べてみないとという精神

今日読んだブログで、いつも自制的な人がなにかめずらしく自分と対峙して、愚痴ったり弱音を吐いたり、自己を他者を武装した論理で痛めつけながら孤独に内省していて、かなりよかった、歓喜した

こういうのやーこういうのこういうの

こういうの欲しい

僕は別に人間全体を嫌いじゃないけど

他人が他人と関わってるときの人間の様相には近寄りがたく、そういうもの全般に対する忌避感はどんどん強まる

しかし見ているだけなら問題ない、遠巻きに眺めてるのが一番心地いいよ、特等席だよ

多分なんかすごいゴシップ的な快楽、なんも責任引き受けずに旨味だけ得たいとかそういう心理の

最悪だな

お腹が減るので食べたくなるという調子で、過食で魂がデブっている

そんなに食べたくもない余剰な栄養を摂取している

いや食べる前に匂いだけ嗅いで口にしないでいるものが多すぎる感じ

なんで僕は比喩でしか喋れないんですかね

ひひひ

栄養、精神性への没入感

それだけが欲しくて、それは生身の人間から手間ひまかけて得ようとするより、精神だけ抽出した媒体から摂取するほうが簡単で早くて純度も高い、薬物か

特に自分自身と向き合っているときの人間の様相は純度高いのでいい、僕にとって

鏡の中を覗いている人間を好き

そういうとき僕という他者は邪魔で、透明になっているのが一番いい

僕はなにかの因子として数えられるのをなんとかして避けようとしている、なんの頭数にも入りたくない

限りなくそこにいないように扱いたいし扱われたい

実際には実態があるためそうしていたり、そうされているとすごく不安になるが

透明人間願望がまとわりついており実態の扱いが雑

自分に実態があってそこに実態として存在していないといけないのはすげえだるい

生身の人間は怖い、すぐ逃げたくなる

敵味方以外で関係を認識できてないんじゃないの

実態の扱いが雑なので雑味を味わい分けられていない

雑味に免疫をつけたい

インターネット見すぎ

悩みは、何に悩んでいるのかを言語化できたらほとんど解決したようなものだとよく言うけど、言うか?言うということにしておいて、それは本当にそうですねと思った。目をつぶったまま、どうして暗いんだろうどうしてなにも見えないんだろうと思っているのが悩んでいる状態で、まぶたを開ければいいじゃないかと気づけることが解決で、暗くてなにも見えないのは自分がまぶたを閉じているからじゃないかと気づくことができるかどうかが肝で……。

 

何に苦悩しているのかをうまく掴むことは僕にとって難しい。苦しいときはまず、ただ苦しいという感覚だけがひたすら強く感じられて、なにがどう苦しいのかをよく見ようとしたり、言葉にしようとすると、そこで歯止めがかかるのを感じる。何度もしつこく少しずつそのストッパーをこじ開けているうちに、昔ほどなにも見えないということはなくなってきた。でも、今でも精神の視界はかなりぼやけていると思う。

考えていることをうまく言葉にするのはとても難しい。波もある。気持ちよく思っていることを出力できたと、爽快感や達成感を感じるほどうまくいくときもある。なにひとつ取っ掛かりをつかめないままで、永遠みたいに長い唖の時間に包まれて、感覚が一文字も音にさえならないときもある。

せっかちで、結論を急く。さっさとピンポイントに必要な部分だけ出力して発散させてしまいたいと思う。なにか表現したいわだかまりがあるのなら、それをそのまま出したい。なんの話をしているのかわからない、なにが言いたいのかわからない、輪郭のぼやけた寝言のような、話の筋や軸の見えない表現しか出てこないときは、自分にイライラする。結局なにが言いたいんだ?そうやって自分を急かす。僕は…話しながら考えがまとまっていくタイプだ。だから話しはじめるまで、自分がなにを考えどう思っているか、明瞭な姿では捉えられない。話していくうちに、自分がなにを言いたかったのかが段々明らかになっていく。喋るより前には曖昧な大きな塊があるだけで、喋ることで曖昧を削って掘って形を浮き彫りにしていく。だから、自分がなにを言いたいのかを知るためには、寝言をかき分けながらじゃないと知ることができない。急いても曖昧は曖昧なままだから、根気強く彫刻していくしかない。

 

自罰、自己嫌悪、被害妄想、加害妄想、軽度の、対人恐怖、社交不安、場面緘黙希死念慮、発作的な強い悲しみ、怒り、抑鬱

自分を観察していると、そういう症状が現れるのに同期して、これをどうにかしたい、どうにかしよう、どうにかしないといけない、これから逃れたい、どうしたらいい、そういう風に右往左往する意識が通底して湧き上がるのを感じる。この状態は、簡単に「怖い」とか「混乱している」とか「パニック状態にある」と表現される。恐れや混乱に支配されたこの状態にあると、物事を整理して把握したり、順序立てて考えたり、絡まった紐をほぐすようには考えられなくなり、ただ呆然とする。呆然と思考停止して、身動きがとれない状態は、「朦朧としている」と表現される。僕はよく恐れ、混乱し、朦朧とする。

恐れや混乱に支配されているときの自分にとって、恐れや混乱を生む原因になった症状は、よくないもの、いらないもの、解決しなければならない個人的な問題、自分の内のもっとも汚く恥ずべき、隠さなければならない部分だと感じられている。

恐れや混乱の外側にいる自分は、それがなければもっと違った振る舞いができるのに、と考える。

違った振る舞い。

僕は、自分の中に沸き起こるこれらの症状に、毎回毎回大きく意識を割く。そこにばかり注意が向いて、周りが見えなくなる。そのために、その場で本当に取りたいと思っている行動を取ることができない。そのことに、一回一回、絶望するし、失意も、幻滅も感じる。

本当に取りたいと思っている行動。

他者に意識を割くこと。敬意を払うこと。状況を理解すること。状況に対する情報を得ること。状況に対して自分がどう関わりたいと思っていて、どう働きかけようとしているのかを、意識でき、説明できること。気持ちに、余裕と遊びを持つこと。興味や関心や疑問や好奇心を働かせること。心を開くこと。冒険をすること。感情を置き去りにせず、自覚して、素直に、正直に、忌憚なく、なおかつそれを自然に表現できること。

それができることを自分に期待している。

僕は、自分の感情や考えを他人に開示するのは、よくない、危ない、避けるべきことだと感じている。

僕の中身を素直に正直に忌憚なく表現すると、とても暗く、冷たく、ねちっこく、情の薄い、あるいは幼い、懐疑的で、攻撃的な形の感想が、おおむね真っ先に出てくる。自分にとって不快に感じられる、違和感のある部分を素早く感じ、見つけるのが僕は得意だ。でも、一度そこに意識が向くと、そこにだけ注意を向け続けがちなので、不便だ。「君は物事の暗い部分ばかり見すぎる」。その通り。「もっと明るい面を見る癖をつけたほうがいい」。そうだね。

喋りながら考えを成形していくのに、はじめに現れる形が冷淡に見えるものだと、いきなり喧嘩腰になりすぎる。はじめに現れる形がそうでも、「でも」とか「あるいは」とか、逆説や例外をあとからいくつも思いついて、徐々に自分の中での解釈が変わっていくのは、よくある流れとして踏み固められた、僕には馴染みのいつもの思考回路だ。脳内会議。自己対話。ひとりごと。頭の中でそれをやっているぶんには、自分の中の不快感や違和感を、直接喋っている相手にぶつけずにすむ。自分の中の不快感や違和感を、特定の目の前の人物にぶつけるのは、避けるべき行為だと思う。

……。

僕の中には、こうしたいという欲求や、こうすべきだという要請が、常に生じている。その中には、どんな欲求も持ちたくないという欲求や、なにも要請するべきではないという要請もある。

それらの声を受けて、最終的にここではこうするのが暫定的にベストだろうという、無意識の判断のもと、行為として結果が現れる。無意識は無意識なので、そこに意識的になるのも難しい。ベストだと思ってる?あれやこれを。よくわからない。

自分の内部で常に生じている欲求や要請は、いつでも複数あって、でも僕は、複数の声を聞き分けられていないと思う。一度にすべてに耳を傾けるのは難しい。ある声が別の声を封殺しようとしたり、お互いがお互いを弾圧し合おうとしたり、自分の中に蹴落とし合いが激しくなると、なおさら混沌としてくる。

自分がなにを感じていて、なにを欲していて、なにをすべきだと考えているのか、淡々とそれを眺めることができたら、それはすばらしいと思う。

ただ眺めることは難しい。

僕はせっかちだから、早急に、それは良いものだとか悪いものだとか言って、すぐに何らかの判断を下したがる。自分の中から不快感を取り除きたいという発想から、思い通りいかない物事を、自分に都合よくコントロールしたがったり、魔法のようにたちどころにきれいさっぱり消え去ることを望んだり、それが叶わないと、むずがって暴れたりする。赤ん坊のように。ただひとつの強い声に、複数の声は無視される。自分の中に、無視され、理解を得られない自分を生むのは嫌だと思う。そのために、ただ眺めるという視点を欲している。それで、自分地獄の万華鏡を覗き込む。

気に入らない自分を、一方的に裁いたり、断じたりしている自分。気に入らない自分を、改造したがっている自分。気に入らない自分を、組み伏せようとしている自分。気に入らない自分を、殴っている自分。殴られている自分。殴られて、抵抗している自分。怒っている自分。悲しんでいる自分。笑っている自分。自分を殺そうとしている自分。死を受け入れている自分。反撃を試みている自分。茶化している自分。道化けている自分。冷めている自分。諦めている自分。戦っている自分。逃げている自分。許しを請う自分。懺悔している自分。祈っている自分。叫んだり暴れたり泣いたり喚いたり、殺意や憎悪や毒物や汚物を撒き散らす災厄としての自分。それを鎮めようとする自分。受容する自分。肯定する自分。臭いものに蓋をしようとする自分。罪悪感にさいなまれる自分。死にたがっている自分。生きたがっている自分。助けを求める自分。救いを求める自分。すべてを拒絶する自分。なにもかもを信用できない自分。楽しんでいる自分。興奮している自分。もがいている自分。飽きてどうでもよくなっている自分。面白がっている自分。うんざりしてすべてを放棄した自分。それらを観察している自分。

地獄の万華鏡は常にそこにあって、常にそこに感じられる。吐き気がする。でもやめられない。これを覗き込むのが一番の娯楽だから。

特に変化のない毎日を過ごしている。

変化。変化変化。そうだな。最近朝目覚ましで起きたときの廃人度が下がった。不快だけど一時期のようなこの世を呪いたくなるほどのものじゃない。あんまり夜更ししなくなったからかな。夜更しをしなくなったのはちゃんと風呂に浸かるようになってからだと思う。前までは面倒だったからシャワーで済ませていたけど、湯船で温もると疲労度の回復が違うことに気づいてしまった。あと気休め程度に簡易温冷交代浴的な感じで冷水を浴びるのもやっていて、意識的に心臓を刺激するようにしているのも影響があるかもしれない。

時間通り、予定通りに行動しないといけないのはいつまで経っても慣れない。慣れないっていうか一生気に食わないままなんじゃないかな。まとわりつくような不快感。なんでこんなことしなきゃなんねんだという不服な気持ち。好きな時間に寝起きして、好きなタイミングで好きなことをするのがもっとも好ましい。おそらくそれがこの世の最上の贅沢でしょう。ともあれ時間を売る。感覚を、体を、人間を売って金に替える。金で生活を維持する。労働は自分を身売りすることだと思っているから、買われた先で自分がどう扱われようが、労働先の環境がどうであろうが、もうどうにでもなれというヤケクソ感が拭えない。買ってくださいとお願いしに行った時にもう自分の意志をどこかに置き去りにしていると思う。あとはなんでも同じだろ。望まれたことを望まれた通りに。なんでも命じりゃいいじゃないか。そこに人格は求められていない、だから僕はそこに居ない。なんでそんな風にしか捉えられないんだ。逆にどうして自我を保持したまま働くことができるだろう。なんでこんな風にばっかり捉えるんだろう。

働いているとき用の人格を今再現することはできない。それは人と場所を反射して映る虚像だから、その場所でだけ成り立つ。文章を書いているときの自分も虚像に過ぎない。これもこの場所でしか成り立たない。友人と喋っているときの自分、ムカつく奴に悪態ついてるときの自分、好きな人々を眺めているときの自分、親と話してるときの自分。全部虚像で全部自分だ。分人。人格はもともとうつろなものだ。単なる反射。そこに深い意味はない。

スカートの制服に着替えないといけない仕事を久しぶりにやった。歯が砕けるほど苦虫を噛み潰したけど前みたいに苦痛すぎて涙頭痛腹痛とかいう最悪の気分には至らなかった。なんであんなに苦痛なんだろう。でもドレスコードが設定されている場所に参加するのは基本的に不愉快だよ。服なんかなんでもいいだろ。マナーだの礼儀作法だのダルい風習もクソだ。バカバカしいよ。なんなんだよ。形式形式形式。どのくらい適応できているか練度を試すってわけ。誰が。なんで。また試験?どのくらい形式のパターンを網羅しているか知識の量を見る。どのくらい形式のパターンが身についているか経験の量を測る。なんのために?「育ちの良さ」の判断基準のため?どれだけしきたりに従順になれる人間かを知りたい?「お行儀のよさ」の基準をマナー遵守度に定めて、そこから外れたら全部「不躾」か?定規に合わせて人間をジャッジするって躾がなってねえのはどっちだよボケ。なにが文化だよ。犠牲を払って保持される文化なんぞクソくらえだよ。無限に怒ってるな。完全に反抗期のクソガキ精神やんけ。このままずっと反抗期終わらないんだろうか。

スカート嫌いだから履きたくない以上に、それに着替えてやるときの業務がマジで嫌。上の人には自分なりに努力はしてみたんですがどうしてもこの業務自体が苦手で云々とかふにゃふにゃ伝えてはいて、それに対する明確な返事みたいなのはもらえなかったけど、多分あまりにも使い物にならなかったからっていうのと、多分一応自分のその意向を考慮して、その業務自体しばらくやらずに済んでいたのでホッとしていたんですけどね。多分とか一応ってなんなんだよ正確に状況把握しろよ謎を残すなよもっと明明赫赫とした意思疎通をしろよ!すいません。謝罪はいらない、行為で示せ。ううっ…。できたらやってるっつの。スカートが嫌すぎるという話ができたのは、試用期間中に辞めちゃった人と、ひとりの先輩にだけだった。その人ももう辞めているけど。その人は卒のなさ隙きのなさが出来すぎていて、どことなく人間離れした印象を持た。はじめてまともに生身の人間をかっこいいと思った。個人的な趣味や情報をどんどん自分から開示するので、周囲も自然に自分を開示する。気配りとかまめなコミュニケーションの自然さに嫌味がない。当たり障りがないのに不足も過剰もないその加減や、人との距離感、立ち位置の確保の仕方が絶妙で、なにかのお手本のようだなと思っていた。なんとなく、酸いも甘いも噛み分けた何らかの達人が力をセーブして周りに合わせているとか、そういう人生経験の豊富さを連想させた。実際毎日がイベントデーなんじゃないかというくらい異様にアクティブな人だった。仕事を教えてくれるときは、こちらの理解度に合わせた確認を取りながらの丁寧でわかりやすい、やはり過不足のない説明。最初はできなくて当たり前だよーとか私もこういう失敗したことがあってーとか、そういうことを惜しみなく言葉にして伝えてくれたり、絶えず雑談を振って沈黙を避けて接してくれたり。僕はバキバキに緊張していたので後光が差して見えました。その人と話しているといつもなら躊躇したり普通には明かさないようなこともいつの間にか自然に喋っていた。怖い。すごい。それでスカートの話にもなった。私も昔スカート履くの嫌いだったよー。本当ですか。本当本当、ずっとジーパン履いてたよー、すーすーするのも寒いのも嫌だよねー。今は平気なんですか?今はむしろ楽しむようにしてますねー、せっかくパンツもスカートもって選択肢があるんだったら、どうせなら楽しめたほうが得だしと思って。確かにそうですね。慣れるとトイレ行くとき楽だよー。どうせなら楽しめたほうが得、確かにそう。僕は「服なんかなんでもいい」と思ってるんだから、ならスカートでもいいんじゃん。結局それが「女っぽい」から嫌なんだろうな。「女性らしい」とか「可愛らしい」というイメージを持たれるのすごく嫌だ。どうしてだろう?「なんでもいい」んだったら「女っぽく」見られても構わないんじゃん。そうだね。でもそう思わないから嫌なんだろうね。しつこく性別の話を続けていく。これはかなり自分の中で大きなウェイトを締めている関心事だからしかたがない。というか、やっと性別の話をできるようになったという感覚が強い。性別のことをあけすけに書くことは今まで自分の中でタブー視されている部分があって、今はその壁を一枚壊せた感じがする。

K氏がやっていた喫茶店で会った、Xジェンダーの大学生のことを思い出す。その人は、自分はLGBTQのXジェンダーとして活動していると言っていた。もっと啓蒙したい、もっとXジェンダーについての知識が広まってほしい、まずそれがどういうものなのか知ってもらわないと理解も市民権も得られない、生きづらいままなのは嫌だからもっと自由になりたい、というようなことを語っていた。Xジェンダー。出生時に割り当てられた女性・男性の性別のいずれでもないという性別の立場をとる人々を指す。byウィキペディア。その人ははきはきと矢継ぎ早に喋るタイプで、時間が惜しいとばかりに次々やりたいことやアイデアが思い浮かぶらしく、全身からエネルギーがほとばしっていた。僕は、おお、はじめて性自認Xジェンダーって言ってる生身の人に遭遇した、と思って、それなりに感動していた。Xジェンダーって知ってる?とはじめ聞かれたとき、まさに、はい、自分もそれです、と僕は言ってみた。言ってみたけど、どういう反応を返されたのか思い出せない。多分、ああそうなんだ!で終わった気がする。その後は相手のマシンガンにいつもの相づちマシーン。今はサークルでこういう活動をしている、就活でのカミングアウトはこういう風だった、親との関係、趣味の映画、エトセトラ。またこれかよ、と思う。こういうとき僕は二つに引き裂かれている。うわーどうでもいい興味ねーという気持ちと、なんだこれめちゃくちゃおもしれえなという気持ち。前者の自分は膜に覆われていて、なにも考えていない。再三言ってるけど薄情なんだよ。基本的に人に興味を持つのは難しい。楽しそうな様子を見ていると楽しそうだね、で終わりだし、怒っている様子を見ていると怒っているね、で終わり。特に感想とかない。相づちを打つのも大概はほとんど癖で同調してるだけで自分の総意じゃない。部分的に同意できる自分が部分的に出てきて惰性で同意してる。人の機嫌を伺うのが癖になってまともに喋れないって本当ひどい。まともに喋ったらもっとひどいことになると思うからそうしているんだと思います。実際ひどいことばっかり言ったり考えたりしてますよ。一方後者の自分は俯瞰していて、だって宇宙の誕生生命の誕生人類の誕生とかそういう気の遠くなるようなあれを経て今この人に流れてる時間とか生命活動の行われている瞬間に交差してるんでしょすごいな、どんな確率だよやばいな、と延々感じている。興味ないけど興味あるみたいなよくわからない状態にある。ていうかこの人の話なんか前に書いた記憶あるなと思って検索かけたらやっぱもう書いてた。まあいいや。同じこと繰り返し何回も書いてるのも別に今に始まったことじゃないし。何回でも繰り返したらいい、ループするたびに変わっていく細部を検めるのもまた一興ですよ。

連想してまた別の記憶を思い出す。昔に、Xジェンダーの人たちが匿名でやりとりしてるスレッドを見ていた時期があった。掲示板はたいてい殺伐としていた。ピリピリしていたけど、性自認に関する建前抜きのあけすけな発言を多く読むことができて興味深かった。掲示板、今久しぶりに見に行ってみたけど、もう機能していなくて無人だった。当時は1ヶ月くらい毎日眺めていて、一度だけ自分から投稿もした。自分がなんて言ってたのかは忘れたけど、ここでやってるような正直な気持ちで自分の性別観についての考えを書いていたら、それにレスがついたことがある。君みたいな人がXジェンダー名乗るとまた世間から誤解されるから二度と名乗らないでほしいみたいなことを言われて、ウケた。どういう部分を読んでそう感じたのか指摘してもらえると嬉しいとレスを返したら、君には話すだけ無駄だからこれ以上付き合う気はないと言って突き放された。なんやねん君。結局なにがその人の地雷を踏んだのかは思い出せないのでわからないが、とにかく何か誤解されるのを嫌だと思ったってことはわかった。で、その人の中にはその人にとっての理想のXジェンダー観があって、僕はそこからはずれたことを、その人から見て間違ったことを言っていたんだな、と判断した。「二度とその性別を名乗るな」って、「男としてどうかと思う」「同じ女だと思えない」みたいな発言とそう変わらない。Xジェンダーという概念を共有しているこういう場所でもそういう発言が出てくるのかと思うと、虚しくなってそれから見るのをやめた。まあ結局匿名掲示板からはなかなか僕が欲してるものは得られるものじゃない。僕が欲してるのはもっと生々しい個人的な感覚、もっと個人的な感情。それも一人で煮詰め続けてきたやつ。自分の分身を見たかった。多分、自己投影先を求めてる。でもあそこでは個人的な定義と概念をぶつけ合って終わりだった。でもそれはそれで面白いと思う。印象に残っている発言もいくつかある。無性だの中性だの、どっちの性別でもない、グラデーションがあるとか言うけど、結局性別にとらわれてるからXジェンダーなんて概念に頼るんだろう?口では性別なんかどうでもいいと言っておきながらこういう概念に頼るなんて、これ以上なく性別を気にしている証拠だ、どうでもいいなら気にしなければいいだけだ、そうしないでいるのは結局のところ男女で二分した性別にとらわれているからなんだ。などなど。はいそうですね、と思う。特に肉体において、その性別を無視することは難しいね。でもインターネットなんか肉体フリーなのに、わざわざ男女の概念を持ち出してどちらかの性別で人格を識別しているのなんのためにって感じだけど。まあ僕も例外じゃない。文章だけで、なんとなく男性っぽい、なんとなく女性っぽいみたいな漠然とした印象は持つ。人格や電子的情報だけで判断するのに性別もなにもないような気もするが。多分肉体で人間を識別するときの癖なんだろうな。人間が人間を識別するとき注目する特徴として、性別は大きいカテゴリだから。それは人間か?人間だ。大人か子供か?大人だ。男か女か?男だ。こういう具合に人間を識別する。同じ要領で人間として判断した対象の性別に注目しようとするのは、別に不自然じゃない。それに当てはめないで人間を識別するのはほとんど不可能なんじゃないかとも思うし。無意識のうちに一瞬で判断することだから。そうなんだけど、でもやっぱり人格には性別はないと思うんだよ。肉体はどうしても二極化して考えざるを得ない、例外はあるけど。でも人格における性別って単なるファッションだと思う。男らしく感じるか女らしく感じるかって、着てるものから受ける印象の差でしかないんじゃないの。服って記号だよ。どこの何に属しているかを判別する役割を持つシンボル。重要なのはその人がどこの何に属しているかとか、どこに属したいと思っているかとか、そういうんじゃなくて、もっとそういうのを削ぎ落としたところにあると思う。でもファッションを皮膚の一部や血肉として感じる人からファッションを削ぎ落とすことって苦痛で残酷な行為にあたるだろうなと想像する。性別が精神の服なら、服なしで人を捉えようとするのって、肉体に置き換えると服の上から裸を想像するみたいなことになる。まして服とかどうでもいいからさっさと裸を見せてほしいつってるのはマジで気持ち悪がられてもしかたない。僕が一番人に興味を惹かれる部分はなにかって言ったら、でもそれだと思うし。だから僕はファッションのことを大事にしていきたいとは思っている。自分があえて僕なんて一人称を使うのはそれこそ自分の中のファッションを大事にしているからでしかないと思うし。いかん。またひとりよがり比喩合戦になってきた。こうなると収集つかない。なんの話してたんだっけ。6000字近く書いとるし。なげーよ。夜更ししなくなったとか言っておきながら気づいたら午前3時じゃねえか。もう寝なさい。寝る。

鬱の友人と何度かやり取りが続いている。僕はやっぱりグループの人達のように、保護者みたく気にかけたり、気さくに四六時中構い倒したりすることはできないけど。気にはなり続けている。そもそも話しかけようと思ったのもそのとき躁入ってたからしたことで、その勢いがなかったら傍観し続けていたと思う。今も話しかけるときはすごく腰が重い。人格を切り替えないとなにも言えないし喋れない。文字通り人が変わる。僕はへんに陽気で明るくバカっぽく振る舞う。そうじゃないと気分が引きずられる。藁ごと一緒に沈んでどうする。なにができるっていうんだよ。自分のことでいっぱいいっぱいになってるのに。応答ができる。ときどきは。彼女はずっと疲れた、死にたいと言っていて、僕はわかるなぁと心の中で思う。そうだよね、つらいね、苦しいよねとか、あなたはたくさん頑張っていたから、頑張ったぶん疲れるのは自然なことだよとか言って相づちを打つ。自分がかけて欲しい言葉をかけていただけなんじゃないだろうかと思う。なんなんだろう。単に自己投影してるだけじゃないのか。苦しみを認めてほしい。自分の感覚や激痛を否定されたり、面倒なものとして扱われるのは悲しい。肯定してほしい。自分自身の死にたいにはじゃあ死ねよと発破をかけるのと同じ口で、死にたいなら死ねばいいだろうがと言える口でなにを肯定できるんだ。でもそれも本心だよ。その上で彼女の死にたいを、その激痛を否定したくない。それで、僕はあなたに生きていて欲しいと思っていると言う。あなたにもあなたのことを好きでいてほしい、幸せを感じてほしいと言う。そういうことを伝えるのがまた一つのかせ、呪いとして働く危険をわかっていて言う。そしてそういう風に働きかけるのは、自分が手をこまねいて見ているうちに、今度こそ彼女が自殺に成功したら後悔するんじゃないかという気持ちからで、つまり自分の不安を解消したいためにやっている。君が落ち込んでいると私の気分に影響が及ぶから私のために元気でいろというわけだ。結局それ。自分の根本の部分がそうでしかないということをはっきりと意識し続ける。自分本位で無神経。無神経だから臆病になる。臆病だから消極的になる。消極的な振る舞いはときにもっとも無神経な振る舞いになる。でも自分本位で無神経な振る舞いをこそありがたく感じる瞬間だってある。僕はそうだった。自覚的な無神経さ。あれはすごいものだ。なにが吉となりなにが凶になるのか、目が出るまでわからない。塞翁が馬。毎秒賽は投げられ続けていて、結果は未知数。僕はもうずっとなにかがこうであればいいとはなにも思いたくないと思い続けた。期待が失望を、希望が絶望を、理想が幻滅を生む。そして、でも望まないでいるようにコントロールすることもできない。死んでほしくないとか、生きていて幸せを感じてほしいなどというのは、僕の個人的な希望に過ぎない。個人的な希望。それが重石や義務にならないといいとも思う。なにが重石や義務になるのかなんてわからないよ。死にたいへの応答として、自殺はよくない、やっちゃダメだと言い諭す、あれが僕は嫌いだ。彼女はそう言って止めてほしいと思ってるかもしれない。でも自殺を、いいことだとか悪いことだとか言って判断を下すのはなんのためかって、それはそれを言ってる自分のためなんだよ。死なれると目覚めが悪いとか自分がつらいからとか、とにかく自分の都合なんだよ。自殺にいいも悪いもない。死にたいくらい苦しくて、死以外に苦痛からの逃げ道がないから、死を求めたくなる、それだけで、善も悪もない。誰かにとっての唯一の救いを取り上げ、苦痛を緩和するあてもなくただ生存を要求するのは、それは生き地獄を味わい続けろと言っているようなもので、とてもむごい。終わりのない苦しみ。その中に生き続けるより、苦しみから解放されて楽になれるならそのほうがずっといいんじゃないかと思う。でも「痛みが終われば悲しくなれる」。痛みの終わりを予期するから、今すぐ自殺するのがすべての解決策だとも思えない。天気のようにいつか雨が上がる日もあって、364日雨でも、たった1日の晴れ間を期待して生きられることもある。僕は彼女に晴れ間を感じられる時間や場所が増えたらいいと思う。でも雨が降っている間は雨のことしか考えられないし、今日こそは晴れるかもしれないと期待し続け、期待され続けるのは、重くつらいことだと思う。それでも期待する。どこか濡れないところへ行って、体を温め、眠り、栄養を摂り、忘我に耽られるといい。多分、濡れないところを見つけるのが、一番難しい。