頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

性嫌悪

なんだ、まだ火がついてるのか。怒りの火が。恐れの炎が。

薪をくべ続けているな。

 

今日は生々しい体のことを書く。

これは他の誰の人の話でもなくすべて僕の感覚の話。

怒りと恨み、ルサンチマンがこもっている。

自分がどこまで認めたり受け入れたりできるようになっているかを確認する。

書けることができるかどうかを確認する。

どこまで書けるかを。

書くことは確認する作業。

そこになにがあるのかを見るための儀式。

 

はっきり言って性欲がおぞましい。

特に男性が女性に向ける性欲。

セックスをすると女性は妊娠して子供を産む。

僕の体には子供を妊娠するための機能が備わっている。

体はサイクルに従って機能する。

体はホルモンを調節して、子宮に血を溜めて受精を待つ。一定期間子宮に精子が入ってこなかったのを認めると、溜めておいて不要になった血を、何日にも分けて排出し続ける。それには倦怠と鈍痛を伴う。

膣から血が出ると、嫌でも性について自覚させられる。

もしくは僕は、男性が女性に向ける性欲を恐れているんじゃなく、自分にこの機能が備わっていることがおぞましい。

セックス、受精、妊娠、出産。子を産むための一連の機能。

冷水、氷水を浴びせる、体を殴る、泣く、暴れるなどして、自分の体を憎んだ時期があった。

この機能いらない。

僕はセックスをしたり妊娠をしたりしたくない。

誰であれ人との身体的接触は不快だ。とてつもなく不愉快だ。

バギナにペニスを挿入。バギナにペニスを挿入?

狂っている。絶対御免こうむる。

自分の意志でセックスをしないでいることや妊娠をしないでいることができる、それが守られているならいい。

一方でいくらでもそれが破られる状況を見聞きしてきた。

性的暴行。非合意の性行為。強姦。泣き寝入り。

僕は自分の意志に反してセックスをしたり妊娠をしたりする状況を避けたいし、恐れている。

性犯罪。性的搾取。性的対象化。

セックスができるかどうか、セックスをすると気持ちがよさそうかどうかで体を見ている人間の多さ。

子供を孕む過程が、低俗な娯楽として、卑俗で隠されるべき、恥ずかしい行為として扱われる文化。

そういうものを見聞きして育った。

ああそう。

僕は好き好んで女の体でいるわけじゃない。

僕は女の体を品評される立場に立ったつもりはない。

クソ野郎。

僕が腕力も刃物も銃器も持っていないチビのモヤシだと思ってずいぶん油断しているようだね。

僕の体を女の体として見るな。

女の体として話しかけるな。

女の体として近寄るな。

女の体として触るな。

女の体として扱うな。

おまえの性欲を僕で発散するな。

腹が立つ。

クソゲボ野郎。

目には目を。歯には歯を。からかいには殺意を。僕の体に性的な好奇心を向けるやつを全員呪う。

死ね。

殺す。

でも殺せない。

視線は殺せない。

価値観は殺せない。

文化は殺せない。

体は変わらない。

気が休まらない。

だから死にたい。

僕は自殺ができない。

死ねないから体は消えない。

消えないなら付き合っていくしかない。

付き合っていくなら事態を把握するしかない。

そのようにして受け入れていった。

僕は別に男性になりたいわけじゃない。

でも女性じゃない体は欲しいと思う。

最初から妊娠ができない体。

産む気もない子供を孕むための機能に付き合わなくてすむ体。

産む気のない子供を孕むための機能に左右され、準備を整え続けられなくてすむ体。

産む気のない子供を無理矢理孕まされることに、わずかでも怯えなくてすむ体。

妊娠させられるかもしれないほんのわずかな可能性を想像したりしなくてすむように。

警戒と恐怖で神経を支配されなくてもすむように。

そういう体と精神が欲しい。

男性の体。

一方的に女性を妊娠させることができる体。

どんな気持ちなんだろう。

いったいどんな?

性欲。

知りたくなかった。

早く年老いたい。

性別とセックスと妊娠の呪縛から解放されたい。

書いててわかった。

全然受け入れられとらんやんけ。

そうですね。

なぜ女の体を持つ多くの人間は、こういった機能や、恋愛とか結婚といった、セックスと妊娠に結びついた体験を、平然と、人生の一部として、喜んだりはしゃいだり、一喜一憂も含め楽しみ、娯楽として、当たり前のこととして、受け入れることができるんだろうか。

どのようにしてどうやって受け入れていけたんだろうか。

でも、他人の過程を見聞きしたところで、どちらにせよ自分自身の納得には関係がない。

結局、体感も経験則も個人の物語として収束する。

物語。

物語から学び、受け入れていったのだろうか。

先人の教え。これはこういうものだという価値観の提示。それに習っているだけなのか。

僕には足りない。

恋愛とか結婚とか子育てとか、それ以前の話をもっとしてくれ。性機能を。その扱われ方を、その哲学の話をだよ。

でもだめだ。なにを見聞きしても前提から違う。なにもかも理解には及ばない。全然まったく到底納得できたものじゃない。

納得も共感もできず、疑問は疑問のまま。

そういうのが当てにならないのは当たり前だった。

僕が問題にしているのは自分の感覚の話なんだから。

自分の感覚をわかれるのは自分だけ。

自分の物語として収束させるためには、自分と向き合うしかない。

それだけだ。

あのーマジで今更すぎる注意喚起していいですか。しますね。では、おほん。このブログを閲覧することで、あなたが不快になる可能性がありますから気をつけてください。すべてのものごとにおいて不快になる可能性があるのと同程度に気をつけてください。でも読んでみるまでは不快になるかどうかわからないですからね。ちょっと読んでみて、危ないと思ったらご自分の判断で離れてください。以上です。これ前は似たようなことくどいほど警告してた記憶があるが、読むな!気をつけろ!いや読んでくれ!みたいなことを。いや記憶違いかもしれん。とにかくきっちりと明言はしていなかったかもしれない。すぐに好き嫌いの明暗がはっきりわかれるよう、人をふるいにかけられるような様相を僕はこのように呈していますから、一読すれば各々で処理してくれることだろうと、人の判断力に頼りすぎていたかもしれないので、改めて明言した次第でございます。読める人には適当に、付かず離れず野生の動物の様子を楽しんでいただければ幸いです。もしくはホモサピエンスのサンプルデータの一個体として観察して面白がってください。そうしてもらえると僕が嬉しい。僕としては僕という人間のひどい滑稽さを笑ってもらえるとおおいに嬉しいですね。不快にさせたらごめんなさい。蚊に喰われたと思って忘れるといいと思います。あなたがムカついたのなら僕はあなたの蠅叩きで潰されてもいい覚悟です。僕は僕がなにか書いたことで引き起こしたすべてを甘んじて受け止めようと思います。僕は人との距離感が狂っているので気をつけてください。僕はがんばって気をつけます。全然気をつけられてねえ!はい以上。予防接種終わり。お疲れ様でした。

 

自分は父性というものについて、特別真剣に考えたことがなかったなと思って、自分なりに考えてみたいので、とりとめもなく考えてみる。

自分と父性というものの関係性というか。

いつもの自分による自分のための自分語りです。

父性、母性という概念自体は、なんとなくぼんやり捉えてる。というか、すべての物事をぼんやりとしか捉えられていない。きっちりとした定義として認識していないから、そこに一般的な認識との差があるんだろうなと思う。一般的な認識ってなに?みたいにすぐ思うし。きっちりした定義を覚えても、じゃああれは?じゃあこれは?とか例外を見つけてきて、定義の幅が伸び縮み、枠の限界がわからなくてフワフワ。これが父性、これが母性みたいなくっきりした境界を、あまりうまく認識できない。特に、それが男性に特有、女性に固有と、性差に結び付けられて語られるのを見聞きするたび、片耳にでっかいハテナマークが出現し、虹がかかるみたいに大量のハテナが頭を横断して、疑問でいっぱいになる。

性差の認識。それがぐちゃぐちゃになっている。家庭環境も影響してるんだろうかね。それもだし、人生の半分以上を引きこもってインターネットの中で育ってきたようなものだから、それもでかいだろうな。

両親は僕が10歳前後の頃に離婚をしていて、以降父親には何年も会ってないし、ずっと母子家庭。離婚以前の父親の様子は、おぼろげな印象でしか覚えていないから、父性についてもやっぱりなんとも言えない。おぼろげな印象の内訳は、暴力、不機嫌、放浪癖、食べ物やお金をくれる人。離婚後は、怒れるATMのイメージ。

世の中は父には父の役割、母には母の役割があり、それに従って子を育てるべき、という風潮があり、僕にはそれがよくわからない。そういうものなんだろうなと思いはするが。そうするべきって、じゃあその役割から外れた両親から育てられた人間はどうなるの?それは普通じゃなくて、可哀想で異常で正されるべきものとしてみなされるってこと?不自然だって?で、やっぱりこういう「~であるべき」という理想像が、すべての差別のみなもとなんだろうな、と想像する。そして、そういう理想像が人の中から消えることはないとも思う。だから、差別がなくなることはないんだろうとも。といって、差別をなくすべきだと思うと、差別を差別することになる。それはいいの?差別を差別するのは?それはそれで違う気がする。最近僕はそれに気づいた。なにかだんだんコツがつかめてきたような気がする。よくわからないけど。

父性。僕にとって父性ってなんだろう。どう捉えている?

子供に、規範や規律をしつけることだろうか。ルールを教える。善悪や、やってはならないことを教育する。教育。教育と洗脳の違いは?

どうしても、関連して思い出すエピソードがある。上京してはじめて、塾講師とこれからよろしくお願いしますと挨拶を交わした晩。宅飲みに付き合って、最近の日本男児のだらしなさ、みたいな話を振られた。彼にはどうも、僕のなよなよしたところを叩き直したい感が滲んでいた。現代日本における父性の不在が、今のような甘ったれた引きこもりの存在を許すような社会を作り上げているのだ、と彼は機嫌よく語っていた。近頃では体罰が禁じ手であるような世情に変わっているが、それは間違っている、と謳う。教育には父性が必要だ、判断力の未熟な子供には、やって善いことと悪いこと、はっきりとその区別がついていない、つまり馬鹿なのだ、馬鹿に善悪をわからせるためには、体罰もある程度必要である、そうしてまた、殴られたら殴り返すくらいの度胸を身につけることが望ましい……そうおもわんかね?と。いや、すんません、全然そんな風に思わないっすね。おお、では君は殴られても殴り返さないのかい?うーん、そうですね、できれば殴りたくないです。よし、じゃあ試してみようじゃないか。彼は僕に軽く平手打ちをした。これでも殴り返したくないか?そうですね、できれば殴り返したくはないですね。君は頑固だねえ。彼はもう一度、さっきよりやや強く平手打ちをした。まだ殴り返さないのか?もう一度はたく。いつまでも殴られっぱなしでいいのか?もう一度はたく。君が殴り返すまでやめないぞ、どうする?えーと、じゃあしょうがないですね。どうするもこうするも選択肢なしかよ。どうしても彼がそうすることを望んでいるのがわかったので、僕は平手打ちを返した。彼は満足そうに笑った。そうだよ、やればできるじゃないか、気概があるね君は。

今でも釈然としないやり取りだ。また「やればできる」だ。なにがやればできるだ。ただ言うことを聞かせるためだけに、相手を自分の思い通りにコントロールするためだけに、相手の人格も意向も無視し、力で場を支配する。それが教育。それが父性?なるほど…。自分の是とする信条を、厳しく叩き込む。でもそれ、父親に限らず多くの母親役の人間だって、同じことをやっているじゃないか。父性母性と男女で役割を分けてはいるが、やっぱり便宜上分割しているだけで、そんなに男女関係ないのでは?

このあとに面白い話が続く。その塾講師とは実際に会うまでメールでやり取りをしていたのだが、彼は僕の性別を誤解していたらしい。まあ文面でだけならそう判断されるのもわかる。一応、一人称は自分とか私を使っていたけども。でも女性的な本名を見たり、実際に会って話したりしたあとでも、なぜかずっと僕のことを男性だと思っていたらしく、それに気づかない僕にもウケるが。一週間だかしばらく経って、認識を改めたときに平謝りしてきたのが、あまりにもひどすぎて笑った。性別を誤認してたことはどうでもいい。男は殴ってよくて、女は殴っちゃダメって文脈で、「女」に対して謝ってきたのがひでえ。いや男だったとしても殴んなや!!!!で、殴ったなら殴ったで、「女」を殴ったことに対して謝んなよ!!!!女に暴力を振るいたくなかったという、そっちの都合、あんたのマイルールに則って謝られても困るんですが、なにに対する謝罪だよ、僕に向けてじゃねえだろ、自分の信条を侵した自分自身に謝ったんだよなぁ、僕のこと視界に入ってないよね。まああんま人のこと言えたもんじゃないですけど。それにしても、僕が女じゃなかったら自分は善行をしたと思って謝らなかったのか?体罰はものわかりの悪い男に対して限定か?じゃ、ものわかりの悪い女はどう扱うつもりだったんすか?この人が持つようなそういうレディーファースト的なジェンダーロールや価値観があるのは知っているつもりだし、それがごく個人的に不快に感じるのはここでは別問題なので置いとくが、それはそれとして性別関係なく人間に暴力振るってそれで言うこときかせようとするのはもう無しだと思うんですけどね。暴力以外の解決方法を思いつかないから暴力に頼って、体罰って脅迫システムに"甘え"て依存したままでいる人間に、君のためを思ってという親切の名目で善悪がどうこうあれこれうだうだ言われても、まあ信用できないですね自分は。体罰ってシステムが暴力の連鎖と面従腹背がはびこる環境を生むってのがもうわかってるんで。暴力以外の解決方法を探したり考えたりするために、ヒトは知能や知性を発達させてきたんじゃないんですかい。教育的体罰っていうけどなにが教育だよ、あんたが頭を働かせるのを面倒臭がってるツケを子供に恐怖で払わせてるだけじゃねーーーかばーーーか。中世かよ。中世だったわ。などと面と向かって悪態をつく度胸がないから結局黙ってにこにこしてましたけど。黙ってにこにこすんな。

という…まあよもやま思い出話。めちゃくちゃ脱線しとるが。

さすがに時間経ってるからそんなに感情にも鮮度がないね。これで?今くらいの鮮度ならとっさにその場で体が反応できたかもしれない。感情が新鮮なうちは体が全身でブレーキを踏んでいて身動きが取れないんだよ。困ったことですよ。僕今なら昔よりいい具合に殴り返せますよ。だから殴り返さなくていいっつってんの。今なら忖度じゃなく言葉で太刀打ちできるだろうか。いや、無理だな。心の中で悪態つくので精一杯だ。まあ、悪態がつけるだけマシか。それもできないのは悲惨だ。とはいえどうも議論は苦手だ。相手に伝わるように自分が考えてることを喋るのは難しい。この塾講師とは自分なりにいくらか会話を重ねてみたつもりだが、僕は相当ふわふわしたことしか喋れていないらしく、現実を知らない人間のお花畑論だよねつって一蹴されて終わりなんだよな。君はものの考え方がファジーだねという評価をもらった。まあそれはそうですね…。とにかく話の内容からして理解されていないと感じる。相手にもしてもらえない、聞く耳も持ってもらえない感じ。それはそれとしてこうだよねというすり替え。本筋じゃなく枝葉。僕の伝えたい部分は巧みにこの人の主張したい話に切り替わっていく。この人は自分の正しさを証明するために、異なる意見を負かしたり、除外することしか考えてないんじゃないかと勘ぐった。それは僕が相手にくらいつこうと思って反撃を試みるから、単にそう感じただけなんだろうか。ああ、違うかな。うん全然違うな。記憶の中で捏造しているね。本当はそうじゃない。僕が自分の考えを伝えるのが下手だったことを、自分が勝手に諦めた。僕は実際にはなにひとつ、相手に自分を伝えようという熱意と意志を持って、自分の考えなんか述べちゃいない。むしろ伝わらなければいいと思っていた。否定されるくらいなら自分のことなど知られなくてもいいと思った。知られないほうがいい。そう思った。それで自分を隠した。そうして頭の中で独りよがりな考えをずっとこね回していた。受け入れてもらえないと思うと、臆病になり、黙っていた。そのことを相手のせいにしようとしていた。している。ひどいな。ひどい話だ。どうも嫌になるな。こういったことを認めると本当にみじめな気分になる。でも僕は確かにそうやって諦めてきた。それは本当だ。認めるよ。それを認められてよかったよ。

僕は自分の臆病さが消えればいい、感情のブレーキが壊れればいい、身動きが取れるようになれればいいと願っているが、けどそれだって、感情に任せて脊髄反射で思いつくまま雑言浴びせてたら、それこそ暴力の平行線でしかないのがわかってる。暴力はもういいよ。もういいです。けど、まあ、必要かもしれないですね。薬は毒にもなる。毒は薬にもなる。使い方なんだ。それでも体罰は嫌だし最悪だと思うけど。

講師の彼は妻子持ちだ。僕は彼の子供に同情した。でも多くの同情がそうであるように、それは独善的な同情だ。暴力は彼の中で、愛情がゆえに正当化される。けれども子供はその暴力と愛情を、僕のようにゆがんで捉えたりなどせず、従順に、愛情として受け取り、「正常」に育っていくんじゃないかと想像した。そうすると僕が憐れみを感じるのは、お門違いなんじゃないか。だって暴力がそこにおける関係性の中で、あくまで肯定的に受け入れられるのだとしたら、それでその関係性が円満なんだったとしたら、暴力を否定的に見ているのは、僕というまったく無関係の外野だけなんだし。

愛ゆえの正当性のある暴力。それが僕が父性に見ているものなのか?

愛情ってなんだ?愛があれば教育の名のもとに、自分に都合のいい思想を子供にいくらでも注ぎ込み、洗脳でも暴力でもなにやってもいいのか?

いかん悪い癖が。それは極論だ。

でも言ってることもやってることまんまそれじゃねえか。洗脳と暴力!

だから極論…。

子供が暴力を愛情として受け入れるのって、生殺与奪を握られている以上、受け入れないと死と直結しているからなのでは?顔色伺わないと死ぬなら顔色伺うしか生き延びる方法がないよね。

ところが世の中には反抗期といって、親に反抗できる人間もいるんですよ。

ああそうだったわ。

とにかくどこまで行っても自分目線でしか考えられないんだな僕は。それだけが確か。あとはもうずっとおぼろげ。

そもそも、子供にとって一方的でも独善的でもない教育なんか存在するだろうか。

僕はなんか愛、愛って言ってるけどなにをもって愛?愛とは?

それが一方的で独善的でも愛って呼べるの?子供はなにを愛と感じるんだろうか?愛ってなんだよ?愛とは!みたいな方向に行くのでますますわけわかんないっす。

しかも子供への愛情がどうこう考え出すと、子供に愛情を持てないやつは子供産むな的論法に安易に通じてしまう。じゃあ愛情とやらを受けずに育った子供はどうなんのって…。

全然考えまとまんない。まあ、もうこれについてはまとまんなくていい。わからないのに無理にまとめようとしなくていい。わからないということがわかった。無知の知。なにかをわかった気になるなんて僕にはできない。それがわからないことを知っている間はわかったと胸を張る気にはなれない。鉄壁の理解はない。とか思ってるからふにゃふにゃしたことばっか言ってるんですよねわかります。わかんねーー。わかるがなにかわかんねえ。

子育てに正解があると思うからおかしな方向に考えが行くんじゃないのか。正解などはない。もしくは、人の数だけ正解がある。正解の子供ってどんな子供?正解の父親ってどんな父親?正解の母親って?ねーーーんだよそんなのは。ひとりひとりの中にしか。

結局父性って僕の中でどういうものとして捉えられてるの。

おそらくこうだ。子の意向を無視して、規律を厳しく叩き込む体罰のシステム。それが僕の中で、極に振れた父性の象徴になっている。

で、極に振れた母性の象徴は、子の安全に執着して見境なく過剰防衛で攻撃する排他性。

そう考えると確かに両方の性質が自分の中に備わっているのがわかる。

僕は極論でものを考える癖が強く、だから極に振れてない父性や母性の姿が見えづらい。そんな感じ。

 

ところで、久々に自分の肉体の性別について言及したから、最近読んでくれてる人で僕の性別を男性だと思ってる人がいたら驚かせたかもしれない。僕とか言うてるし、そう思わせてもしゃあないけど。

古い記事だからあんまり目立たないですけど、これとか、これの後半部分とかに性別のことは書いてる。自分のことを男性だとは思っていないけど、べつに精神的に女性だとも思っていない。自認は自認でしかないから、他認については知らんとしか言いようがないが。まあ僕を一言で言ってみると、未熟で中途半端で不自然な存在の塊という感じだな。どうぞドン引きするなり一笑に付すなり。煮るなり焼くなり荼毘に付すなり。なんなりとって所存です。しょうがねえよ。こういうやつなんだ。ああ、これを説明できてよかった、カムアウトってこういう気持ちなのか。でも、せっかくいろんな垣根を超えられるバーチャルな場所で、わざわざ肉体の話を持ち込みたくないというのが本音だ。だけども体があるのも本当だし。いや、わからないですよ。全部自己申告だから。本当は、写真や物書きが趣味の大学生が適当に思いついた嘘の人格かもしれないし。はたまたそのへんの中高校生が一過性の妄想に取り憑かれてるだけなのかもしれない。モラトリアム真っ最中のビアンの少女がストレス発散で。ゲイの青年が暇つぶしの遊び心で演技してるだけかも。中年のパラサイトニートが感情のやり場に困って。もしくは僕は80歳の魔女かもしれないし。200歳の仙人かもしれないし。電子の中にしか存在しない新種の生命体、ウィルスの一種、カルトで生まれた不具の巫子、1000年後から過去に交信を試みてる新人類、ある日突然知性の芽生えた猿かもしんないです。はいはい。想像力は無限大だね。

まあ、正解は知性の芽生えた猿です、よろしく。賢いお猿さんだよ。みんな!仲良くしてね!ってできるか~い。

雑すぎる信頼できない語り手オチ。

ああ落ち着く。この白い画面。記事編集画面のでかい白紙。

また頭がおかしくなってきた。情緒の乱れが激しい。情緒っていうか認識。認識が乱れる。認知の乱視。

起きたことを振り返ってみよう。

今日も出勤した。なぜだかとても気分がよかった。当たりのきつい人から当たりのきつい注意を受けた。でも心から愛想よく自分の不手際を改めてくれてありがと~という気持ちでニコニコと受け答えをしていた。口うるせえなおまえがそういう責めるような口調で俺を責めるっつーならこっちだってそれに応戦して殴り返してもいいんだぞわかってんのか?という青黒い気持ちは1ミリしか沸かなかった。1ミリは湧くんかい。ぼんやりとベールのかかった安寧。実際に起きていることが仮想的に感じる。いつも漠然と感じている、周りはすべて敵、常に命を脅かされている、という危機感のようなものが薄れている。ああそうか。世界はこうやって捉えていればいいんだ、と思う。普段おっかねえと感じるものがなにも怖くないし、どうでもいい。にこやかに電話を切ったあとすぐ悪態をつきだすおっさん。不機嫌な様子の同僚を噂話する雑談。すごい、怖くない、むしろなんか笑える、と思ってうっとりする。すばらしい。これが生きるということなんだ!なにしても死ななさそう、殺されなさそうな気がする。今ならなにをやっても悲観的に倦むことなく当たって砕けられそうな気がする。なんでいつもこうじゃないんだろう?はい、典型的な躁状態ですね。これを振り返っている今はもう無敵状態終わってるから普通にいろいろおっかないですね。なにを怯えることがあるんだよ、自分が自分にやってることとなにが違うんや、同じだろ同じ、同じことを自分はやってOKで人にはダメ出しって理不尽すぎる。それは本当そうだね。

ツイッターを見る。鬱病の友人のツイートを読む。闘病の様子をツイートしている。それをひどく感傷的に受け止める。とても同情的になって感極まった僕は一緒に暮らそう!と思う。どこか自然の多い、地価の低い田舎へ行って、サナトリウムよろしく二人で療養しよう!胸中はまるで白馬の騎士だ。僕は長い手紙を書きはじめる。一緒に暮らそうという提案を本当に文中に盛り込む。来年で今就いている仕事の契約が切れる、そのタイミングでどこかへ越してまた別の仕事を探すつもりだから、一緒に引っ越しをしよう。ツイートを見た瞬間に神経が発火して思いついた妄想だった。どうかしている。雇用契約が来年で切れるのは本当。どこかへ越したい、別の仕事を探したいと思っているのも本当。一緒に暮らす?一緒に暮らすってなんだ。なに言ってんだ僕。嫌だよ。そんなことしたくないよ。冷静になって妄想の箇所を削る。臆病のあまり普段から声をかけられなくてごめん、あなたが自殺に失敗してよかったと思ってる、生きていてくれて嬉しい、これはお見舞いのつもりのメッセージだから返信は気にしなくていい、云々。友人から返信が来る。しばらく雑談をする。友人が落ち込んでいるときに、友人の友人たちがその落ち込みを励ますメッセージグループを作っていることを僕は知っている。ぜひそれに参加したい、と僕は言う。正気か?嬉々として喋り続ける僕の影で冷たい脂汗を流す僕がぎょっとし続けている、こいつはさっきからなにをやっている。友人はグループに僕を追加することを喜んで許諾し、その通りにしてくれ、その流れでグループメンバーたちに僕を紹介する。友人は僕を「成功例」として紹介する。せ、成功?なんの?親元から離れて自立することの。グループメンバーたちは自立が達成された過程を知りたがる。なんだこれ。違和感を誤魔化しながら、僕は話しはじめる。サポートステーションでハローワークで説明してきたのと同じ内容をなぞり、それに最新の現状を上乗せする。なにかが変。感触がない。失念していた。そこで求められていたのは個人的な半生や思想などではなく、友人やグループメンバーにとって、希望になり、慰みになるような有益な情報をもたらすこと。僕の思想もその半生も、いずれにも該当しない、単なる現実離れした物語なのでは。それに気づき、まあこれは自分の場合に限ったひとつのケースでしかないから、あまり参考にはならないかもしれないけど、と逃げる。わかんないよ。希望的に受け止められてたのかもしれないじゃん。しかしクリティカルシンキングを働かせる余裕はとっくに消え、判断力が泥のようになっている。反応の速さから見て、グループメンバーは決まった複数人が常駐しているようだ。僕への質疑応答が一段落したところで、その人たちは自然に雑談へ移行していった。突然かつ一度にたくさんの質問に、頭が真っ白になった僕は雑談にはついていけない。というか、真っ白になっていなくてもついていけない。薄々、どうも自分は浮いてることがわかる。他の人々は切れ目のない、なだらかな応答で話をすすめる。僕はひとかたまりの文章で、いっぺんにまとめて喋る。それに口調がどうしてもおかしい。他の人々は一定の口調から一定の人格を保った真っ当な発言をする。僕は敬語やタメ口やおどけた態度や汚言すれすれのぞんざいな語彙や唐突な硬い語り口なんかが入り乱れた支離滅裂な口調になる。一言が長いし。ここで喋っているような態度をさらに誇張したような感じ。焦りと自嘲と悲壮と怒りをミキサーにかけたみたいな状態。意識すれば口調を一定に保つことはできると思う。でもパニックになるとどうにも口調の固定が思うようにいかない。だいたいからテンポが噛み合っていない。でもテンポが噛み合わない理由はわかっている。流れを意識して反射で喋ろうとすると、たいてい僕はろくでもないことしか言わない。ろくでもないことを言わないようにするために、ある程度反射を抑えて、理性的である必要がある。理性的であろうとすると、ぎこちなく冗長な説明口調になる……。ろくでもないこととは、要は、全体に流れている価値観そのものに疑問を呈するような批判的な態度のこと。それに触れちゃダメ、それに疑問を呈しちゃダメ、それを否定するような態度をとっちゃダメ。どういうわけかそういうブレーキが強く働いている。全力でブレーキを踏み、もうなにも喋れない。無心で、他の人々のやりとりを眺める。どうやら友人の友人たちも、普段からこの機会を利用して、思い思いに愚痴をこぼし合っている。とてもむつまじく相づちをうち合い、慰め合っている。不満。慰め。不満。慰め。以下エンドレス。発狂しそうになる。いやいやいやいや。なにそれ。なんやこれ。どこやここ。なにこの状況。無理なんだが。マジで僕はなにをやってんの?なんでここにいるの?こんなところにいたくないんだけど?パニックがひどくなる。おまえがここに参加したいと言い出したんだよ。想像できただろう、落ち込みを励ますグループやぞ。いや無理。無理無理。一秒も居たくないここに。違うんだ、不平不満を慰め合いたい同士が慰め合うのは利害一致してていい関係だと思うよ、実際友人がここに慰められてきているんだったら、それは本当にとても望ましいことだよ、でも僕には無理やねん、僕にはこの空気耐えられない、不平不満をなでなでよしよしで終わらせたくないんだよ、慰めは必要だと思うよ、でもそれとは別に不平不満を、感情を、徹底的に解剖して仕組みを知り尽くしたいんだよ、どうすればそいつを根本から解体できるか知りたいんだよ、じゃなきゃ気がすまないんだよ、なんでそう感じるの、なんでそう考えたの、なんで今こうなの、それを暴きたい。でもそうやって水を差すのは無粋だし、刃傷沙汰覚悟じゃないと切り込めなくて、僕はそんな覚悟をこの人たちに、この場所には向けられない。なんなんだ。なんでここにいる。なにをやってる?なにをした?なんでこうなってる?なんだこれ?息が荒くなる。頭がじんわり滲むようにしびれるのと連動して視界がゆがむ。酸素不足からくる目眩だ。今もまだパニックの中にいる。こういうときどうするんだっけ。こういうときどうすればいいんだ。こういうときどうしてきたんだっけ?なにやってんだろう。既視感がある。何回もこういう状況を繰り返し作り出し続けてる。もう完成されてる関係性の中に異物混入みたいなパターン。何回繰り返してるんだよ。すでにある関係性の中へ、自然に加わってる自分を想像できない。大縄跳びに入っていくタイミングを一生見失い続けてる。どう振る舞えば自然なのかわからない。いや、わかってる。でも僕が自然に振る舞ったら、舞台は即ちゃぶ台返し。ひっくり返したちゃぶ台の始末を僕はつけられないと思う。それはとても無責任なことだ。後始末ができないなら最初からひっくり返すような真似をしなければいい。そうだ。そうしたくないから無口になる。すいません。空気読めなくてすいません。そしてまた自分のことばかり考えて周りが見えなくなる。無口を自分に課す抑圧がストレスになって、中、小規模なパニックを何回も挟む。パニックでうまく現状を把握できず、把握しようとするとぐちゃぐちゃになり、ぐちゃぐちゃを晒すのが嫌で口をつぐんで、以下繰り返し。死。