頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

鬱の友人と何度かやり取りが続いている。僕はやっぱりグループの人達のように、保護者みたく気にかけたり、気さくに四六時中構い倒したりすることはできないけど。気にはなり続けている。そもそも話しかけようと思ったのもそのとき躁入ってたからしたことで、その勢いがなかったら傍観し続けていたと思う。今も話しかけるときはすごく腰が重い。人格を切り替えないとなにも言えないし喋れない。文字通り人が変わる。僕はへんに陽気で明るくバカっぽく振る舞う。そうじゃないと気分が引きずられる。藁ごと一緒に沈んでどうする。なにができるっていうんだよ。自分のことでいっぱいいっぱいになってるのに。応答ができる。ときどきは。彼女はずっと疲れた、死にたいと言っていて、僕はわかるなぁと心の中で思う。そうだよね、つらいね、苦しいよねとか、あなたはたくさん頑張っていたから、頑張ったぶん疲れるのは自然なことだよとか言って相づちを打つ。自分がかけて欲しい言葉をかけていただけなんじゃないだろうかと思う。なんなんだろう。単に自己投影してるだけじゃないのか。苦しみを認めてほしい。自分の感覚や激痛を否定されたり、面倒なものとして扱われるのは悲しい。肯定してほしい。自分自身の死にたいにはじゃあ死ねよと発破をかけるのと同じ口で、死にたいなら死ねばいいだろうがと言える口でなにを肯定できるんだ。でもそれも本心だよ。その上で彼女の死にたいを、その激痛を否定したくない。それで、僕はあなたに生きていて欲しいと思っていると言う。あなたにもあなたのことを好きでいてほしい、幸せを感じてほしいと言う。そういうことを伝えるのがまた一つのかせ、呪いとして働く危険をわかっていて言う。そしてそういう風に働きかけるのは、自分が手をこまねいて見ているうちに、今度こそ彼女が自殺に成功したら後悔するんじゃないかという気持ちからで、つまり自分の不安を解消したいためにやっている。君が落ち込んでいると私の気分に影響が及ぶから私のために元気でいろというわけだ。結局それ。自分の根本の部分がそうでしかないということをはっきりと意識し続ける。自分本位で無神経。無神経だから臆病になる。臆病だから消極的になる。消極的な振る舞いはときにもっとも無神経な振る舞いになる。でも自分本位で無神経な振る舞いをこそありがたく感じる瞬間だってある。僕はそうだった。自覚的な無神経さ。あれはすごいものだ。なにが吉となりなにが凶になるのか、目が出るまでわからない。塞翁が馬。毎秒賽は投げられ続けていて、結果は未知数。僕はもうずっとなにかがこうであればいいとはなにも思いたくないと思い続けた。期待が失望を、希望が絶望を、理想が幻滅を生む。そして、でも望まないでいるようにコントロールすることもできない。死んでほしくないとか、生きていて幸せを感じてほしいなどというのは、僕の個人的な希望に過ぎない。個人的な希望。それが重石や義務にならないといいとも思う。なにが重石や義務になるのかなんてわからないよ。死にたいへの応答として、自殺はよくない、やっちゃダメだと言い諭す、あれが僕は嫌いだ。彼女はそう言って止めてほしいと思ってるかもしれない。でも自殺を、いいことだとか悪いことだとか言って判断を下すのはなんのためかって、それはそれを言ってる自分のためなんだよ。死なれると目覚めが悪いとか自分がつらいからとか、とにかく自分の都合なんだよ。自殺にいいも悪いもない。死にたいくらい苦しくて、死以外に苦痛からの逃げ道がないから、死を求めたくなる、それだけで、善も悪もない。誰かにとっての唯一の救いを取り上げ、苦痛を緩和するあてもなくただ生存を要求するのは、それは生き地獄を味わい続けろと言っているようなもので、とてもむごい。終わりのない苦しみ。その中に生き続けるより、苦しみから解放されて楽になれるならそのほうがずっといいんじゃないかと思う。でも「痛みが終われば悲しくなれる」。痛みの終わりを予期するから、今すぐ自殺するのがすべての解決策だとも思えない。天気のようにいつか雨が上がる日もあって、364日雨でも、たった1日の晴れ間を期待して生きられることもある。僕は彼女に晴れ間を感じられる時間や場所が増えたらいいと思う。でも雨が降っている間は雨のことしか考えられないし、今日こそは晴れるかもしれないと期待し続け、期待され続けるのは、重くつらいことだと思う。それでも期待する。どこか濡れないところへ行って、体を温め、眠り、栄養を摂り、忘我に耽られるといい。多分、濡れないところを見つけるのが、一番難しい。