頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

奉納5

母がスピリチュアル方向に行ったときのあの気持ちをどう表現したらいいんだろう。

幻滅、疑問、怒り、悲しみ、不甲斐なさ、やるせなさ、諦め?

母の選択だし、母の決定だったのに、責任の一端は間違いなく自分も担っていると思った。

母は望んだ、「僕に幸せになってほしい」!「良くなってほしい」!「治ってほしい」!

僕が苦しんでいるから、苦しみを消し去って、幸せになってほしかった、それを動機にして、ペテンにすがった。

それが悲しかった。

でも、そうじゃねえよな、幸せになりたかったのは、母自身もだよ。ていうか、母自身が自身の幸せを求めたんだよ。僕の幸せは間接的に望まれてたものだな。ね、苦しんでいる僕を見ているのは苦しいから、だから楽になりたかった、自分を幸せにしたかったんだよね、わかるよ、それは自然で素直で純粋な動機だ、全然わかるよ。でも、手段はどうだったんだ、幸せになれたのか、それで。そこなんだよ。

母の信仰したペテンの念仏はこうだ。本来の自分は、大切でかけがえのない存在だ。本来の自分は、喜んだり、楽しんだりを、ありのまま、飾らずにできてしかるべきで、なにも傷つけることなく、愛され、許されている存在だ。本来の自分の素晴らしさに気づけば、誰でも、変われる。

うん、もちろん、そうであったら素晴らしいよね、でもな、いいか、おい、本来の自分とはなにを指しているんだ。あのな、今、ここに、いる、この自分こそが、本来の自分なんだよ。そこでもう話がズレるわけ。で、変われるってなんだよ?こっちは変わりたくねえんだっつうの、変わりたくないっていうかな、操作されたくないんだよな、あんたの、望んでる方向に、理想通りの、期待通りの姿であるようにと、僕は、僕を、書き換えられたくなかったんですよね。そこもわかってもらえなかったよな。ありのままで素晴らしいっつうなら、じゃあありのままを認めえやと思うんですけど、違うんですか?違うよな、だから書き換えようとするんだよな?素晴らしいことが大前提とされるこの教義において、素晴らしいなら、矯正の必要がない。素晴らしくないなら、矯正が必要だ。当然そういう論法になって、まあ鞭の飛ぶことよ。結局それか。自縄自縛、賞罰、支配とコントロール!結局、自分は、認められるような存在じゃないんですね、生の苦しみでのたうちまわってしまうような自分は。ははは。みたいな。

母は僕を認めなかった、苦しむ僕を否定した、苦しまないようあれと願った、苦しむ僕は居てはいけない、苦しみはあってはならないものだった、そう思った。だから悲しませたし、悲しませたことが悲しかった。苦しみがなければと思った。でも、苦しみはあった。それを自分で騙すことはできなかった。

ペテンはありがとう教でもあった。こうだ。自分に感謝をしよう、え?できない?それは自分の価値を低く見積もっているからだ!あなたは素晴らしいのだから価値が低いなどと思うのは間違いだ!勇気を出して自分にありがとうと言ってみよう!素晴らしいあなたには素晴らしいことしか起こらない!素晴らしいことが起こらないのは、あなたが感謝をしないからだ!レッツセイ、ありがとう、私は素晴らしい!で、たちまちのうちに鬱は治り難病は完治し子供は思い通り動くってわけ……………

これ要は、感謝すればしただけ状況が変わる、魔法のように自分の望み通り変わってくれるという期待を持って、見返りを求めて、自己暗示として、かつ他力本願でもって、お題目を唱えてるんだけど、○○してくれてありがとう、とか言って、やってもないことに感謝されたり、実像とかけ離れた自分を労われたりするの、本気で嫌だった。してほしいことがあるなら、はっきり言ってくれやと思ったけど、言って頼んでも僕が変わらないからこういう手段に出たんじゃねえか!可哀想な母さん。でも、暗示にはうんざりだ。あなたは我慢強い。あなたはやればできる。あなたは頑張ってる。なぜそうである僕を望む?大嫌いだ、そんな自分。我慢、苦痛を忍ぶこと、大したことじゃないと自分に言い聞かせ、苦しみを拡散すること。大したことなんだよ、その苦しみは。本当に必要なのは耐えることじゃなく、耐えなくてもいいように工夫することだろうが。頑張ってるってのも、同じ理由で誤解だよ。頑張ってねえわ。僕はただ、逃げ続けてるだけだ、頑張ってるとしたら、逃げるのを頑張ってるんだな。本当に踏ん張るんだったらだな、もっと自分の潔癖症を追求する必要があるだろうな、自分の欠点を見つけてはそれを修正、欠点を見つけては修正、以下一生繰り返しだ。そのことを指してんだろ、努力や、頑張りってのは。うんざりだよ、もう、自分や他人をなじり、責め続けながらそれをやるのは。やればできるって、そもそもやりたくなどないと再三言ってることに対してそれは……無視されてるようにしか感じない、どこ向いて話してんだよとしか思わない。やりたくないことをやらなくてすむなら、やらないですむほうがいいよ。やらなかった結果困るようなら、そのときはそのときだ、やらなかったことでもう二度と取り返しがつかないっていうなら、それはそれで自分がやらないってことをやってきた結果だ、そのことで誰を責めたりもしない。だいたい、やればできるってなにを指して言ってるんだ。できないことのほうが多い中、できないことをできるようになるために必要な過程と多大な労力を無視して、根性論だけで軽く扱いすぎじゃないのか。こういうことを、いちいち言い返すべきだったんだろうか。その時その時はムカついて、悲しくなって、言い返したこともある、でも暖簾に腕押しだ、説明しても無駄で理解されないならと、諦めて、怒りは言葉にならなくなって、投げかけられるたびに通り過してきたけど、そういうのの蓄積で、この人はもう僕を理解する気はないんだろうとか、興味があるのは幸せな状態の僕で、幸せじゃない僕は理解の対象外なんだろうとか、そのように思った。幼稚な発想で簡単に、拗ねたし、ひねくれちゃった。えへへ。僕が素晴らしい人間じゃなくてがっかりしたか?ねえがっかりした?様を見たな、それが僕なんだよ。

めちゃくちゃ鬱憤を晴らしてしまった。あーあ、すっきりだ。ついでに晴らすとだな、家族としての信頼を人質に、何度も宗教活動に参加を強要したこと、忘れねえからな。でも、あなたを憎むんじゃない、あなたをそうさせてしまう、そうさせてしまった状況や、構造が、僕は……

もういい。この話は終わり。まるっきり、恨み節だよ。感傷で自分に酔ってちゃ世話ないや。いやいや、それが楽しくて書きはじめたんだろ、なにもかも。その通り!いつもの自己陶酔、自己嫌悪、自己憐憫だ!あはは!ひとりで完結しすぎやろ。

 

最近の傾向としては、熱が冷めたのか抵抗されすぎて諦めたのか、母は、スピリチュアルな話はめっきり話題にも出さなくなった。最初はオーラの泉に対する親和性。その延長だと思ってた。それで、もう10年以上は経つ。最初は止めようと、そんなのは嘘っぱちだと、騙されているのだと説得を試みた時期もあった。でも、母には信仰が必要だった。すがるものが。実際、手に入れたんだ、すがれるものを。母は、金と自己暗示で買える信仰を持つことができて、幸福を感じているだろうか。でも、そんなの、多少なら誰しもそうだろ、金と自己暗示だ、大抵の些細な幸福は、そうやって得る、そうやって買う、違うか?でも、僕には、苦痛を幸福と偽った欺瞞で、本気で自分を満足させることはできない。母には、人々には、それができているのだろうか。いまだに、音質の悪いCDや音源を買っては聞き、本物以外しか自称しない「本物」と称された石や塩や水を、買っては使っているのがわかる。疑似科学、マクロビ志向と融合して、実家では、それが日常に溶け込んでいる。