頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

横になっていると、頭の中で自分の声がしゃべりだす。

独り言。それに応答する複製された自分の声があって、応答に応答する自分の声があって……その反響。鏡地獄。

日記を書いたり、ブログになにか書く時も、「ちゃんとした文章を」というていを意識しなければ、自然その形式が再現される。

「ちゃんとした文章」というのは、一人称となる視点の語り手がはっきりとしていて、それが分裂したり収束したりしない文章で、つまり、視点が一つに定まっている文章。書記か誰か、現象を筆記する役割を持った人格が観察結果を記述する。

事実を列挙する、思ったこと、感じたことを言葉にする、そういう作業は、ある一つの視点に絞った時にはじめて成功する。すると、絞らなかった別の視点は言葉にならず、漏れて、消える。消えていこうとする、言葉にならなかった観念を取りこぼすまいとすると、鏡地獄に。

ひっきりなしの疑問と叱責。なんでそうなの?なんでそうじゃないの?なんでそう思うの?なんでそう思わないの?なんでそうしたいの?なんでそうしないの?

しらねえよ。

僕は一つに絞られた自分の姿をなんとなく認識していて、それは現実として自分がなにを起こしてきたか、なにをやってきたか、とにかく実際的な行動の集積に現れているんだけど、現れなかった部分の自分の姿について、現れている姿以上に思いを馳せるから、すごくばかげてると思う。それは実際すごくばかげたことなんだと思う。そして僕にはばかげていることのほうがおもしろく感じるし、大切なんだから、世話がない。まったくそれは愚かしいことだと言われるのは、例えば空は青いとか、雨が降ってると言うのと同じで、僕は、そうだね、空が青いね、と思う。雨が降ってるね。雨が降ってるにこめられる感情が、感嘆か悲嘆かで、伝えたいことは変わるけど、現象を表現している意味は同じで、でもやっぱりこめられてる感情が異なるなら、それは意味も異なっているんだろうな。

なんか同じことばかり考えている。

また同じ轍をなぞってる。

思考はぐるぐる、しっぽを追いかけるようにできているんだろうか、出口はなく、入り口もなく、最初からそこにあって、目に入った瞬間気になりだして、追いかけると止まらなくて、そして楽しい。ぼんやり、無為に時間を過ごすことは、僕にとって、とても気分がいいことだ。取り返しのつかない損失を、気づかないうちに与え続けることになっても、気づかずにいられるということは、それだけで気がラクなんだろう、気づいてしまえば、知ってしまえば、損害に対する対価を支払う必要にかられる、責務と責任だ。存在すると、存在するという理由で責務と責任を担わされる、よくわからないが、そういうシステムなんだ、とにかく。よくわかならないなら、わかろうとすればよろしい。僕はいまだに自分がなにに苦しんでいるのかわからないし、なぜ悲しいのかも。おそらく自分でそれを生み出しているんだろう、苦しむために苦しみ悲しみたいために悲しみたいんじゃないのか。なんかしら、そういう気質がある。食欲性欲睡眠欲苦悩欲、みたいな。

まったく見苦しいというほかない。ところが、見苦しければ見苦しいほど僕は自分に歓喜する、理不尽に虐げられ、痛めつけられ無残にのたうち回る、それこそが必要だと思う。それこそが本当だと思う。でなければ、すべては不条理であるということを忘れてしまうと思う。不条理こそが本当だと思う。なにか自分の思い通りに働く機械仕掛けの世界があって、目に映る物はすべて狂いなく仕組み通りに、期待通りに動いているのだという錯覚にのめり込む。規格通りの、異質なもののない世界。僕は自分が異質であることに安心したいと思うらしい。目に映る世界が異質そのものであることを常時感じていたいと思う。空は青いが、その青を見ている、見ることができる存在、あなたはひとりしかいない。とかなんとか。詩情たっぷりで嫌味だ。詩は嫌味だ。自分にしかわかるようにしか書いてない、自分でもなに書いてるかわからない、そもそも意味などない、こめた意味をあくまで観測者に汲み取らせようという受け身の姿勢とか、行間を読んだり背景を察したりすることこそが深みであり、深みを理解できないものは入ってこなくてよろしいという選民的な態度とか、曖昧な表現で言い逃れできる逃げ道を作っているところも嫌いだし、解釈に答えはない君の感じたことが正解だなんていうのは、托卵じみてて気味が悪い、それはあなたの子供であって、僕のじゃないし、僕が受け取るかどうかは僕が判断することであなたに決められるようなことじゃない……また僕は誰にキレてんの?いつも仮想敵と戦ってるな。ていうか、まあ、全部自分に向けた批判なんですけど。つまり、言葉は意味を伝えるためにあるんだから、意味を伝えようとすることにもっと真摯になれよと思っていて、詩情とかいう逃げ道を使って、ファジーな方向へすぐ舵を切る癖があって、そのことを……。

また同じ轍をなぞってる。

自己批判、自己嫌悪、自己憐憫、自己陶酔。自己完結。自己満足?

自分を満足させるために他人を道具のように扱うよりはいい。

道具のように扱うって、例えばどんな風?

人格を無視すること。機能や、役割としてのみ見ること。

人格はあるひとつの機能、ひとつの役割だよ、人格を尊重することは、機能や役割として扱うことに含まれる。

機能や役割として扱われない存在ってどんな存在?

空が空であるように在ること、雨が雨であるように在ること。

僕は自分が機能や役割として見、扱われる一方で、個人や、個人の集団を、機能や役割として見、扱うし、自分もその一部だと思っているから、そのように見、扱われることに納得がいっていないのが、納得いかない。そのように見たり扱ったりすることは、空が空であることと同じだと思う。そうなるようになっているからそうなっている。でも、納得がいかないことに納得がいかないのも、そうなるようになってるからそうなってる。

いつからなんだ?なにかいびつじゃない、理想の状態があって、それに向かって手を伸ばす、そういう習性が身につくのは。なにをモデルにした理想なんだろう。いつ、どこで、誰を参考にしたいびつじゃない形なんだろう。どうして自分じゃなく、自分じゃないなにかでなければならないんだろう。どうして自分は自分じゃなければいけないと思い込んでいるのだろう?

 

なんかよくわからない。四六時中ぼーっとしている。あらゆるコミュニティから逃れて、自分の内面にこもるのをやり続けている。内でも外でも、やってはいけないことと、やらなければならないことが叫ばれすぎていて、うるさくてたまらない、とても混乱する。自分の中に入ってくる外のルール以外に、自分のための内のルールを調合する必要があって、外から入ってくるものを参考にしながら常時作り直していて、ひとつひとつを点検して、ひとつひとつの判断に、ああでもないこうでもないと喧々諤々、でもまたわけがわからなくなって答えを保留にして、わけがわからなくなるような自分を情けないと思ったり、まあそれでいいんじゃんと思ったり、なじったり讃えたり、足蹴にし、おだて、なだめ、嘲笑い……反応の視線が総動員して、うるせえんだよマジで。キレて嫌になって、面倒になってすべて放り出す、短気で感情的で幼稚で、だから……気づいたら内面にこもるのをやり続けている。なんでもかんでも保留保留だ。なにを保留にしているのか忘れるくらい保留にされている。でも、保留にされているままだと思い込んでいるものが、まだそこに保持されて留まってるのか。そうじゃない。タイミングはいつもその時、その一瞬しかないのに、その一瞬が永遠にあるわけじゃないのに、一瞬を逃し続けている。僕はそのことで僕を恨んでいる。臆病さを。自分の中にはなにもないという感覚に胸を張らない自分を。右ならえの義務感で、判断するための判断をしようと画策する自分を。また、変に胸を張る自分を。判断を避けようとする自分を。あらゆる自分を憎んでいる。なにこれ?なにをやっても憎まれるんだから、どうもこうもない。だから…もういいよ。好きにする。あるように任せる。それは責任放棄?でも、なんの責任?手綱を握ってしつけを施して無害かつ有益な存在であるための責任?それは誰が決めた責任?いつ発生していつ同意した責任?

多分、意識が発生した時、同時に。

責任。義務。嫌いな言葉だ。強迫観念を引き起こす。本来果たされるべきものが果たされないとき、期待が裏切りに変わるとき、怒りと恨みが生まれる。怨恨は義務の名のもとに正当性が担保され、大義名分をもって容易に私刑を引き起こす。僕は、自分に正当性があると思うとき、自分がもっとも暴力的になれることを知っている。正義は暴力だ。だから誰にも期待したくない。誰にも義務を課したくないから。でも、それは無理。100%は無理。ゼロエイドが無理ならファーストエイドを考える。そのように切り替えたい。いつまでゼロリスク信仰から足を洗えないんだろう。ていうかまたこれ。こうやってごちゃごちゃ考えてるうちは切り替わらない、それはもうわかってる。捨て身にならないと身につかないタイプなんだ。実際に体験しないと理解できない。延々、紐の強度を確かめて飛び降りずに下ばかり向いてるみたいだな、飛べば気にしてる余裕もなくなるのに、と思う。臆病な部分を指して臆病じゃなくなればいいのに、と言うのは、青空に向かって紫空だったらいいのに、と言ってるみたいなものなんですけど、空のたとえ気に入りすぎか?

あれこれ書いてすっきりするかと思ったけど、そうでもないな。なんかすっきりするときと、そうじゃないときがある。視点の分裂はあんまり関係ない。宿便みたいなやつが出てくるかどうかが肝っぽい。書くのは排泄に似てる。便秘したり下痢ったり。出産に例えて安産難産っても言えるけど、でもやっぱり、僕の場合は排泄物だと思う。自分が排泄物と人間の出産の差をどこに見出しているのか知らないけど。出産といえば、子供の頃母に、僕が産まれたときどう思ったか聞いたら、「本当に自分の中に人間が入ってたんだ、と思った」と言っていたのをよく覚えていて、印象的だった。そのとき感じた驚きと不思議さと奇妙さを、それが自分の姿に重なるのを、しばしば想像した。排泄するときとか、掃かれていく髪や、手にとって歯をしげしげ、もともと自分の一部だったものが離れて独立してあるのを見るとき、似たような驚きを感じるんだけど、それだけでもそうなのに、じゃあ自分の腹の中に別の人間が入ってる、嬰児の不気味さやばいなと思って、おもしろくてたまらなくなる。

だらだら書いてたら夜が更けてきた。6月の終わりの朝方は、かろうじてまだ空気が冷たい。朝になると日が空気を温めて、昼になれば十分に温まった熱気がこもる。夜に少しずつ空気をさまして朝方近くようやく闇の中で冷たくなって、また日が昇って、温まって、そのサイクル。日中の熱気を体がまだたくわえ続けていて、空気は冷えているけど暑い。冷たいシーツ、冷たい枕に、熱を移して眠っていく。

自分がどんなに悪人かを力説することは、その裏に流れる、このように説明することは自分はなにが悪であると見なされているかを認知しており、認知しているならば悪と呼ばれる行為を避けるための判断をくだすことが可能であり、悪を避けようとする心理はすなわち善であるから、実際のところ自分は善人である、ということを証明したいためなんじゃないのか。

え、そうなの?

浅ましいなぁ。

善人ヅラすることは浅ましいらしい。

善人ヅラをすることはどうして浅ましいの?

なにが善であるとされているかを理解するということは、それがどこかの誰かのなにかの利益をもたらすことを最大の目的としていて、ということはどこかの誰かの顔色をうかがっているということで、顔色をうかがうことは卑屈と臆病、つまり保身に由来する行為で、本来は保身つまり自分の身を守ることを目的としている自己中心的な考えでありながらあたかも自分以外の誰かのためであるかのように脚色してヒロイックな気分を演出し自己中心的な考えであることを覆い隠している。自分を覆い隠すことは浅ましい。なぜならそれは嘘だから。保身のための予防線だから。潔くないから。

予防線を張るのは善くないことなの、全身全霊をかけるほうが美しいの?

その通り、そして汚く浅ましい自分から逃げずに覆い隠さずすべてを受け容れることのほうが美しい

でも僕は、汚い浅ましい苦痛と懊悩に満ちた世界観にもがき苦しみながらあの手この手で懸命にのがれようとしている人間を見るのが好きだよ

うん、でもその世界観をすべて認識した上でのがれようとしているのでなければダメだ、認識を拒むのであればそれは自己欺瞞、嘘、ヒロイックな自己演出で支配された保身だからだ

なぜそんなに嘘や保身を嫌うの?それはひとつの技術だよ、時に役に立つ

どんな時、どんなふうに?

全身全霊をかけまくってたらすぐ死ぬ。予防線を張るのは死なないためだ、死なずに生き延びるために役に立つ

そうまでして、自分を騙し慣れて、自分を御し慣れて、嘘で塗れてそれを一生続けることになってもそうまでして生きたいか?

まあ、時には。

僕はそう思わない。

そうですか。

どうしてなにかを痛めつけたくないと思うことは偽善だ子供騙しだとけむたがられるんだろう?

それが偽善で子供騙しだからじゃないすか?

現実に即してないからだよ。現実はなにかを痛めつけることで成立している、痛めつけたくないと望むことは現実を否定することになる、現実を否定することは現実を肯定する人を痛めつけることになる、ではあなたは人を痛めつけているではないか、言っていることとやっていることが違うではないか。こうなる。

つまり現実、システムに即していない理想を本気で信じられたり願えたりするのが幼稚で妄信的で、子供騙しだということ。そしてその姿勢は分別を持っておらずとても危険でもあるのだ!

それも「なにが悪であるとされているかを理解していますよ」アピール?

ご明察!

善悪をわかることは善を実行できることとはまた別だと思う。理解しているからといって体がその通りに動くのは話が簡単なときだけで、話が簡単じゃないから体はその通りに動かない。もっとたくさんの条件が複雑に絡み合っていてとにかくあらゆる事態は複雑でその複雑さは自分の知能や認識力で解きほぐすことはできない。複雑さを理解できた先にはまた別の複雑さが絡まっていて永遠に複雑さの中にからめとられていく。そして僕はそれを解きほぐそうなどとは望まない。すべての複雑さが消え失せて話が簡単になるようになどとは願わない。複雑なことが簡単になるのを願うのは善悪をわかりたいと思うからでなぜわかりたいと思うからといえば善であると思うところの行為を実行したいからででも善であるようにと願うことはそれがどれだけ危険かを僕はわかるから。独善的という言葉があるようにひとつの善を願うことはひとつの悪の死を願うことで、悪を消し去ろうと願うことある存在の殲滅を願うことはそれ自体が悪だと定義されている、善自身にとって、だから自己矛盾をはらんでいて善なるものは願われるべきものではなくただそう定義されるだけのものくらいに思っておくしかないんじゃないの?全然わかりません

また善悪のこと考えてる…もういい。僕にはなにもわからん。いいとか悪いとかわかりませーんただ好き嫌いがあるだけだ、僕はこれが嫌い!僕はそれが好きじゃない!僕はこれが好き、あんたはそれを嫌い!それを嫌いなのはあんたの勝手だしこれを好きなのは僕の勝手だ!それでいいだろうが!これで話が簡単になった、よかったよかった。エ?善かった?話が簡単になることは善なることなんですかあ!うるせえ僕が善だと思うことはあくまで僕が好ましいと感じていることを便宜上そう表現しているだけですべての人間にとってそうであるとは言ってないんだよ!そうですか

ならそれでいいんじゃねえの、自分の中の善悪を知ることは自分にとっての好悪を知ることで、それは自分の中でだけ成立する善悪の定義で万人に共通のものではないとわかっていればそれで十分なんじゃないすか

「万人に共通の善悪が存在していると思い込むこと」を自分にとっての悪と定義づけるということですね!

……

そうですね

そうなのか?

そういうことだろ?

そうかも……

それで?

え?

善悪がはっきりしたらなんなの?

行動理念に善を為したいという目的がプログラミングされているなら悪を避け善を為す、好きなことを実行し嫌いなことを避ければいいのでは?

通常運転では?

馬鹿の考え休むに似たり!

本当に馬鹿だから休めば馬鹿じゃなくなると思って馬鹿になりたくなくて休んだりするよね、因果関係の錯誤だね、馬鹿は馬鹿だから馬鹿になりたくなくて考えてしまうし休んでしまうんだよね、もっとも馬鹿なのは自分が馬鹿かどうか気にすることだと思うがね、実際馬鹿とか馬鹿じゃないとか定義するのがもう馬鹿馬鹿しいからな、馬鹿が馬鹿という概念を考え出したんじゃないのか?ウケるな…だいたいなぜ馬鹿かどうか気にするんだ?それは馬鹿じゃなくありたいからだろう?なぜ馬鹿じゃなくありたいの?善くありたいと思い、自分は善だと思いたいからじゃないですか?なぜ自分は善でなければならないの?そうでなければ自分を許せないから?なぜ自分を許さなければならないの?自分を嫌いながら生きていくことはできないから。本当に?

本当に。

嘘じゃないか。自分を嫌いながら生きているじゃないか。

でもそれは自分を許していることとは違う。

そうだ、自分を嫌いながら生きていくことはできる。でも許していない。許しのないところに苦悩がある、罪の意識が。それを抱えながら生きていくことはひどく重くつらい、だから耐えられない、耐えられないから許されたい、許されたいから善でありたい。

また許すとか許さないとか言ってる…。

なぜ許すだの許さないだの、善だの悪だのにこだわるの?秩序に。ある法則に。一貫性のある方針に?

それがないとあまりにも…。

あまりにも?

いや…でも…そう…もっと柔軟でいいはずなのに…。

そう、僕は頭が固い。

しってる。

柔軟で「ありたい」?柔軟でないのは「避けるべき」?馬鹿は「悪」か?「無能」には「死」?

本当に頭が固いな。

それは呪い?

事実の確認だよ。

それで?

え?

事実を確認した。そのあとは?それでどうするんだ?だからなんなんだ?なにが言いたい?

僕には頭が固い部分があるなぁと思った。終わり。

終わりだよ。

話のオチは?

ない。

活かさないの?

なにを?なにに?

自分には頭が固い部分があるという情報をもちいて善を為すことに。

たとえば?

頭が固いと悪だと見なされる場面で悪だと見なされないようにするために振る舞う方法を身につける。

それが善?

そう、ある意味で。

悪だと見なされないよう振る舞う方法を身につけることは善?

はい。ある部分では。

そうか、よかったね、君にとっては新鮮な事実かもしれないが、新しい情報を得られるのは君にとって善なることじゃないか、つまり僕はこう言いたいんだ、僕は無能だ、僕はあなたが望むとおりの、あなたの描いたとおりの理想をそのままなぞれるような技術を持っていないということだ、期待するだけ無駄だということだ、技術を得よう得ようとあなたは懸命に努力した、ところがその努力はまるで的はずれだ、あなたが善を望むほど僕はそうであることから遠のくよう動かざるを得ないなぜなら僕は善でありたいなどとは微塵も思わないしあなたの説教くさく押し付けがましい善意とやらには心底、心の、底から、うんざりしているからだ

説教臭いのは嫌いか?

はい、嫌いですね

なぜ?

僕が望んでいないことをお仕着せがましくさも僕が望んでいるかのように扱ってくるから。それはあなたが望んでいることであって、僕の望みとは別だ

君は無能でありたい?それが望み?

そうじゃない、僕は実際無能なんだ

無能じゃなくありたいとは思わない?

どうして?全然思わない。なぜ無能じゃなくありたいの?

それが善を為すことだから

反吐が出る

そう。君の望みはなに?

善悪で判断しないこと。なにも判断しないこと。善悪、好き嫌い、なにを好みなにを嫌うか、それはつまり趣味だろ、おのおので趣味が違ってる、それは自明だ、趣味は趣味だ、趣味を理解してほしいな…

じゃあ僕の趣味は無能でなくあることだ、それを好むことが僕の趣味だ

うん。知ってる。僕の趣味は自分の無能さを責めたり矯正したりしようとせず、受け容れることだ

好みが相反する。善悪がぶつかり合う。でも悪は悪じゃなく悪が思うところなりの善を為しているのでそれは善だし、善は善が思うところの善を実行してしまえば悪の側からその存在を盗み奪い踏みにじり殺すこととなり窃盗や殺しは善ではないので悪だし、ただ相反しているということだけが確かでどちらがよいわるいとかはなくそれは同じものの反対の姿でしかなく……めまいがしてきた

つまりなにかを志すことはなにかを踏みにじることで生きることはなにかを志すことでだからなにも痛めつけずに生きることはできないということでなにも痛めつけないであれという無茶な要望を自分に課し続けるのをいい加減どうにかしろという話

またその話?

ダメだよ、いくら理詰めで迫っても体感でわかるまで本当の理解には達さないんだ

なんども体感してるだろうが嫌というほど、なんでまだこんな…

じゃ、もっと別のやり方を試す必要があるね

あのさ、思うんだけど、なんかあんじゃん、故事成語かなんか寓話で、虫を殺す子供を見て残酷だ!とかってわめく大人がいるけど、残酷なのはそれを残酷だと思う大人、そいつ自身であって、子供は残酷を為そうとしているわけではないのだから子供の行ないは残酷ではないっていう……状況がそれに似てる

じゃあその「大人」はどうすればいいの?

いや、しらんけど

「子供」だってその行為が「残酷」だという情報が頭に入っているなら状況は別だよな?そうなったら「子供」は立場として「大人」と同じだもんな?

そうだね。

どうして?違うよ。実際残酷じゃないんだよ。殺すことは。なぜ残酷なの?

それが「残酷」だと感じられるから。

感じられないけどね…それは単に行為だよ、行為以上の意味はない

こうなると話通じないんだよな…

そうだよ。話は通じないものだよ。趣味が違うんだよ。好き嫌いが違うんだから同じにはなれないよ。どうして話が通じると思ったの?わかりあえると?どうなることがあなたにとっての話が通じたという状況なの?考えが同じになること?

考えを同じにしろとは言ってない、こちらの言い分や望みを汲んでもらいたいんだよ、無視をするなつってんだ、おのおのに好き嫌いが異なる、それはいい、でも僕はそれが嫌いなんだよ!あんたがそれを好きなのは、あるいは好きでも嫌いでもないのはわかってるよ!その上で僕の視界の中でそれを繰り返されるのは本当にもう二度とまっぴらごめんなんだ!

つまり僕があなたの視界の中に入っていかなければ問題ないわけだ

それが可能だと?

あなたのいないところで僕は虫を殺し、あなたは自分の目の前でだけ殺戮の起きない世界の中平和に生きる

こないだネットフリックスでアメリカンサイコって映画を見たんだけど、そんな感じの話だったね、パトリック・ベイトマン、彼は言った、「I want to fit in」、彼はやった、周囲に馴染むすべてを実行していた、世間、社会、組織、コミュニティへの順応を試みた、試みまくった、はたからみるとばかばかしいほどに、コメディの一場面みたいだった、でもいたってシリアスなんだ、ベイトマンにとって、Fitting inすることは。そして殺戮の衝動に苦しんだ。コントロールできないんだって。殺したい。殺してしまうのは苦しい。でも楽しい。それを楽しめる。でも苦しい。とうとう白状した。あらいざらい全部、隠してきた殺人の告白。さあ、罪が白日のもとにさらけだされる。裁きの御手にその身を委ねられる。ところがなにも起きない。世界はなにも変わらない。ベイトマンの告白は冗談だと思われた。面倒をきらってなかったことにされた。なかったことに。ベイトマンの心は深い檻の中に収束していく。彼はひとりごつ。実際には自分の感じている痛みを誰かに伝えたい、与えたいがための暴力だった。自分の引き起こした殺人、その罪を認めるが、認めたところでそれ以上自分自身から得られるものはなにもない、だからこの懺悔にも意味はない、みたいなことを。映画はそこで終わる。

罪を告白しても罪を罪と認められない世界。無視される世界。なかったことにされる世界。それが望みなんすか?ぞっとするけどな。

イトマンが殺人衝動にかられてまで昇華したかった、伝えたかった痛みの正体ってコミュニティへの順応に対する苦痛だと解釈したんだけど、まあ、めっちゃわかるな、それはそれとして、やっぱFitting inしようとする行為ってまじで見苦しいな、でもやんないと生きていけないけど、いやちげえな、やんないと生きていけないと思い込んでることが見苦しいんだ。ベイトマン以外の連中が一切Fitting inに苦しんでないのは、それがあくまで自然に感じられる行為だからで、そうすることが苦しいなんて感じないからで、あるいは感じたとしても耐え難いと言うほどではなくて、だから、つまり、殺しは残酷なんだという思い込みこそが殺しを残酷に仕立てているように、Fitting inに不快を見出すことがFitting inを不快に仕立てている原因で、見出さなきゃよかったのにね、そういう感度がなければよかったんだ、でもあるんだから、しょうがねえだろ。なんとか、せめて、それを殺し以外の手段で昇華してるんだよな、みなさまがた、おっけおっけ、知ってる知ってる、で、それに慣れて諦めて受け入れることこそが善でありそうでない者は悪であり文句言わずに我慢し適応することこそが正義であり…みたいに言い出すんだろ、知ってるぞ。またはじまったよ、だからそれが被害妄想なんだっつの。いや被害妄想って、あんたが今まさにそれを僕にやってるところだろうが。そうでした。いや!いいや!違うぞ。被害妄想を生み出しているのは自分自身で、被害妄想は被害を受けたいと思う心理から生み出されていて、つまり僕が望んでいるからこそ僕は被害的に感じているんだ!被害者でいたいんだな!?我慢を強いられることは被害である、その思い込みが、被害妄想を生んでいる!僕は君に我慢を強いていないぞ!ただ自分の好悪を表明しているにすぎない!だいたい君は我慢をしないでいられているじゃないか!ということは対等なんだ!権力勾配なんて妄想の産物だってことだ、抗えるということだ、自分の好きに振る舞えるということだ、それができる力を持っているんだから!うるさいな!大声で喚かないでくれ。あっ、はい。

イトマンにとっては罰を与えられることが望みだったから罰のもたらされない世界は地獄だった。罰を与えられることとはすなわち自分の痛みを知らしめてやったことの証左になるから、誰にも自分の痛みが伝わらなかったことでベイトマンは心を閉ざした。でも自分の痛みを知らしめる方法はあくまで無意識に行われた代理的発散であって自覚の上で行なう直接的伝達じゃなかった。抑圧された苦痛の中身を暴き出す作業が必要だったんだ、解体するべきは他人の肉じゃなく自分の魂だった、殺人は八つ当たりだ、まったくひどい話だ。全然ひどいと思ってない口ぶりなんだよなぁ。ひどい話だよ。無辜の民をできるかぎり残酷に殺す、これ以上ひどいことはない。しかも、無辜の民は無辜の民だから殺された。そのうえで、反撃されないような状況を作ったり弱そうな人間を狙ったりして、一方的に。つまり、自分だけは安全が保証されている位置からの、腹いせのための暴力。おぞましいよ。精神的に追い詰められてたって?全然打算的で、保身に満ちていて、醜いよ。僕がこうやってあれこれ書いたり考えたりするのもまさしく八つ当たりだよ、目を覆いたくなる、ところが、しかし、楽しい、楽しむことができる。苦痛をかてに楽しみを得ているということだ。それを楽しんでいるなら苦痛を感じることには利点がある、八つ当たりを楽しめるというメリットが。だから本気で苦痛から脱しようとしていないのでは?楽しむ余裕があるということは?それはね、ありますね、息継ぎするための苦肉の策とかいって、楽しみを得てるんだもんな。マゾヒスティックな話だ。ふざけんな、おまえの変態趣味に付き合ってられるか、もうたくさんだ、ところがここは自分の頭の中なので、僕は自分から一生のがれられないのでした。続く。続かないでほしい。いいや続いたほうがおもしろいね。終われ終われ終われ………早く早く早く…………。

人と関わるのは嫌いだ。

なぜなら自分が口を開くと開かなくてもそれが強烈な悪意となって相手を痛めつけることに繋がるから。

人を痛めつけるのは嫌いだ。

なぜなら自分が誰かに取り返しのつかないダメージを与えてしまうことにひどくショックを受け罪悪感を持つからで、罪悪感を抱きたくないから。

罪悪感は嫌いだ。

それは自分に加害意識と被害意識をもたらすから。

被害者で居ることは嫌いだ。

怯えと萎縮と恨みと妬みを呼び起こすから。

怯えも、萎縮も、恨みも妬みも嫌いだ。

それらを抱いたまま人と相対することは苦痛だ。それらは内的自己によって封じ込めるようにと命令されている。決して表出すことのないようにと。

なぜならそれらは強烈な悪意になるから。

 

自分が取り返しのつかないダメージを与えられるような影響力の大きな人間だと思ってるんだね。影響力を過信しているよね。自尊心が高いね。

え?あくまでも自分にはなんの影響力もないと思っているの?無自覚すぎるよ。当事者意識が低いね。

 

加害意識を持つことにはメリットがあるよ。自分には誰かを痛めつけることができる能力があるということを把握できるから。それがどれだけの威力と効力を持つのかを知ることができる。知れば抑止もできる。知らなければ抑止もできない。

被害意識を持つことにもメリットがある。自分が痛めつけられたとき、それを痛みだと感じたのなら、それは自分の大切にしているものをないがしろにされたという信号で、なにが自分の大切なものなのかがわかる。自分がなにを踏みにじられたくないのかが。わかれば守れる。踏みにじられずに済む手段を考えることができる。わからなければ守ることもできない。

 

人を傷つけるのは悪いことだと言う。信じた。人を傷つけるのは悪いこと。なぜなら、人とは、命とは、尊重されるべき大切なものだから。大切なものを乱暴に扱うのは悪いこと。でも現実に即してない。人は人の尊厳を簡単に踏みにじるし乱暴に扱う。僕もそうだ。あなたもそうしてきた。人はみな人をないがしろにして自分を生かしている。ひとつの命は維持されるために大量の命を間借りしている。尊厳。なにを大切にされたいかは人により異なる。オートマチックに尊厳を尊重することはできない。でも、大量の命、ひとつひとつに関心を払い、関わりを持てるほどのキャパシティがない。疲労は無関心になる。無関心はひとつの暴力になる。目の前でないがしろにされていく尊厳に対して、目の前で消えていく犠牲に対して無関心でいることは、黙認になる。黙認は、暴力に加担することと同義だ。僕がなにかに関心を払わず黙認したとき、それは僕が間接的に暴力を振るったことと同じ。

傷つけることとは、大切なものを尊重しないこと、乱暴に扱うこと。

傷つけないこととは、尊重すること、乱暴に扱わないこと。

 

ナイーブだな。影響力の過信。

でも、わかったよ、尊厳を尊重したいんだよね、乱暴に扱いたくないんだよね、へへへ、無理じゃん、だって存在そのものが乱暴に当たるからな、なにしろ、100%完璧な尊重はありえないわけだから、自分がそこに居るだけで、困らせ、不快感を催し、迷惑で、無礼さを感じさせる、僕は自分をそのような存在だと認識しているらしい、なにしろ暴力への加担を黙認して生き延びた人間なんだ。自分のもたらしてきた不利益を認識していながら厚顔にも自分の保身を選び続けてきた。異質で非倫理的で道理にかなってない。異質さは人を怯えさせる。

高級ホテルの中の浮浪者、禁煙席の中の喫煙者、女性専用車両の中の男性、発展途上国の中の先進国観光者。

僕はある常識をもった人から見たとき自分が非常識にあたると認知している。集団のルール。暗黙の了解。穏便に完結した世界を土足で踏みにじる価値観を持つ。

だいたい僕は、他者から向けられる嫌悪感に鈍感なんだ、だから敏感であるために"自意識過剰"になった。うまくいった。常に誰かに嫌悪されている可能性を脳裏で探してる。それで、嫌がられてることがわかったらどうする?嫌がられてることをやめればいい。やめられなかったら、やめたくなかったら、相手が僕の存在そのものを嫌がったら?対話と説明と交渉、妥協点を探す。平行線だったら?二度と相手の目の届かないところに行く。集団単位で、対話も交渉も届かないところで、嫌がられ続けているときには?

誰の目にも届かないところに行こうと思った。でもそれは無理だった。僕の妄想の中の集団は形を持たないからだった。その集団は僕の想像の中にだけ存在していて、実態がなく、でも確実に存在しているという強い思い込みがあって、実際それは確からしいと思った。こうだ、「迷惑をかけるな。目立つな。和を乱すな。危害を加えるな。空気を読め」迷惑をかけそうになったり、目立ちそうになったり、和を乱しそうになったり、危害を加えそうになったり、空気読めてなさそうだったりすると、病的に恐怖を感じる。身動きが取れなくなる。なにがその場に適したいいことで、なにがその場に適さないわるいことなのかのボーダーラインを咄嗟に引けなくて、混乱する。それは人、場所、環境によって変わるから。オールラウンダーな安全牌はない。随時更新される誰のなにがなんの琴線に触れるのかのデータベースが必要。完璧に全部に合わせるのは無理。誰にも嫌われないのは無理。八方美人は疲れる。しかも僕はいい顔しいな自分が嫌いで、嫌われまいと策略を巡らせることで自分自身から嫌われる。あの、いまだにこういうこと考えてるのに心底ぞっとするんだけど、早く諦めてくれませんかね、誰にも危害を加えないのは無理なんだっつの、迷惑をかけたらかけたことじゃなくてそのアフターケアにスポットを当てることが大切で、危害を加えたくない、とか思ってる限り、自分が危害を加えてしまう事実から、どうにかしてそれを認めまいと逃げ続けるだろう、僕はそういう人間だ、それは嫌なことだ、自分が加えている危害から目を逸らすのは嫌だ、僕は危害を加えるような人間だ、それをわかっていなければダメだ。

自分が危害を加えそうな場面に病的に恐怖を感じるのは、自分の行動が「取り返しのつかないダメージを与えてしまう」と感じるからだろう。なんかやらかしたらすべて終わりだと思ってる。そうじゃないことのほうが多いのに。むしろ取り返しがつかないと思い込むことによって本当に取り返しをつかなくさせていることのほうが多い。思い込み激しいね。知ってた。ていうかまたこれ。この話何ループしてるの、被害だの加害だの、聞き飽きたもういいよ、理屈ではわかってるんだよ。大事なことだよ。何ループでも考えるさ。

このブログの趣旨として、手足を縛られ目を潰され口を縫われ刃物や銃口を全身に突きつけられた状態から脱するためのわるあがきとして、脳みその中身を半強制的にぶちまけることで封じられた感覚をこじあけるその打開を模索する試みが、目的のうちに大きく占められているのだが、ここに働く強制力は飽くまでハングリー精神を基盤に据えているから、あらがおうという意力がうしなわれたときその希求もおとろえる。自分を救いたいという気持ちよりも体裁へのこだわりや過剰な保身による自己防衛、だれかの権利や利益や事情を汲むことを優先するほどに、ハングリー精神はうしなわれていく。まあ、それはそれで構わない、そういう働きも自然の作用で、それはそれとして初心に戻ると、僕は、自分に向けた遺書、自分に向けたラブレター、自分へのたむけとしてこれらを書いていて、とにかくこれはひとつの歌なわけですよ、歌をおくりたいわけです、自分用に調合した、それは薬であり、毒であり、なぐさめであり、たくわえられた汚物、叫び、願い、祈り、捧げ物だ。自己救済を目的にした歌の、でもその動機に、ハングリー精神や抗う力は、なくても構わない、それがあったほうがエンジンのかかりがよかった、だから利用した。でももう枯渇した。救われたい、抗いたいという気持ちが弱まった。一時的に弱まっているだけで、またすぐ隆起するんだろうか。でも、なにも動機がなくても、ないところにでこそ、歌は歌われるし、踊りはおどられる、舞いは遠くへ、うつわは溢れからになる。意思を離れたところに、求めるものはあって、見えないものを見えないことがわかるところ、明瞭と不明瞭の境が融解したところ、0と1の間に。でも、いつまでもここにいられない。僕はなにを言ってる?喋っているのは僕で、でも僕じゃない、僕は体を任せているだけ、それは最初からそうで、僕は任せてた。なんていうんだっけ、あれだよ、自由意志だ、自由意志だな、それがないことに気づいた。錯覚の連続がある、錯覚のことを自由意志と呼ぶ。アイデンティティだ、自己同一性だ。編みあげられた物語、それはよるべになる、それにすがる必要にもかられる。でも、その物語からはなたれる、教え、命令はとても、うるさいので、耳をふさぎたくなる。でも、いつまでもここにはいられない。