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自分がどんなに悪人かを力説することは、その裏に流れる、このように説明することは自分はなにが悪であると見なされているかを認知しており、認知しているならば悪と呼ばれる行為を避けるための判断をくだすことが可能であり、悪を避けようとする心理はすなわち善であるから、実際のところ自分は善人である、ということを証明したいためなんじゃないのか。
え、そうなの?
浅ましいなぁ。
善人ヅラすることは浅ましいらしい。
善人ヅラをすることはどうして浅ましいの?
なにが善であるとされているかを理解するということは、それがどこかの誰かのなにかの利益をもたらすことを最大の目的としていて、ということはどこかの誰かの顔色をうかがっているということで、顔色をうかがうことは卑屈と臆病、つまり保身に由来する行為で、本来は保身つまり自分の身を守ることを目的としている自己中心的な考えでありながらあたかも自分以外の誰かのためであるかのように脚色してヒロイックな気分を演出し自己中心的な考えであることを覆い隠している。自分を覆い隠すことは浅ましい。なぜならそれは嘘だから。保身のための予防線だから。潔くないから。
予防線を張るのは善くないことなの、全身全霊をかけるほうが美しいの?
その通り、そして汚く浅ましい自分から逃げずに覆い隠さずすべてを受け容れることのほうが美しい
でも僕は、汚い浅ましい苦痛と懊悩に満ちた世界観にもがき苦しみながらあの手この手で懸命にのがれようとしている人間を見るのが好きだよ
うん、でもその世界観をすべて認識した上でのがれようとしているのでなければダメだ、認識を拒むのであればそれは自己欺瞞、嘘、ヒロイックな自己演出で支配された保身だからだ
なぜそんなに嘘や保身を嫌うの?それはひとつの技術だよ、時に役に立つ
どんな時、どんなふうに?
全身全霊をかけまくってたらすぐ死ぬ。予防線を張るのは死なないためだ、死なずに生き延びるために役に立つ
そうまでして、自分を騙し慣れて、自分を御し慣れて、嘘で塗れてそれを一生続けることになってもそうまでして生きたいか?
まあ、時には。
僕はそう思わない。
そうですか。
どうしてなにかを痛めつけたくないと思うことは偽善だ子供騙しだとけむたがられるんだろう?
それが偽善で子供騙しだからじゃないすか?
現実に即してないからだよ。現実はなにかを痛めつけることで成立している、痛めつけたくないと望むことは現実を否定することになる、現実を否定することは現実を肯定する人を痛めつけることになる、ではあなたは人を痛めつけているではないか、言っていることとやっていることが違うではないか。こうなる。
つまり現実、システムに即していない理想を本気で信じられたり願えたりするのが幼稚で妄信的で、子供騙しだということ。そしてその姿勢は分別を持っておらずとても危険でもあるのだ!
それも「なにが悪であるとされているかを理解していますよ」アピール?
ご明察!
善悪をわかることは善を実行できることとはまた別だと思う。理解しているからといって体がその通りに動くのは話が簡単なときだけで、話が簡単じゃないから体はその通りに動かない。もっとたくさんの条件が複雑に絡み合っていてとにかくあらゆる事態は複雑でその複雑さは自分の知能や認識力で解きほぐすことはできない。複雑さを理解できた先にはまた別の複雑さが絡まっていて永遠に複雑さの中にからめとられていく。そして僕はそれを解きほぐそうなどとは望まない。すべての複雑さが消え失せて話が簡単になるようになどとは願わない。複雑なことが簡単になるのを願うのは善悪をわかりたいと思うからでなぜわかりたいと思うからといえば善であると思うところの行為を実行したいからででも善であるようにと願うことはそれがどれだけ危険かを僕はわかるから。独善的という言葉があるようにひとつの善を願うことはひとつの悪の死を願うことで、悪を消し去ろうと願うことある存在の殲滅を願うことはそれ自体が悪だと定義されている、善自身にとって、だから自己矛盾をはらんでいて善なるものは願われるべきものではなくただそう定義されるだけのものくらいに思っておくしかないんじゃないの?全然わかりません
また善悪のこと考えてる…もういい。僕にはなにもわからん。いいとか悪いとかわかりませーんただ好き嫌いがあるだけだ、僕はこれが嫌い!僕はそれが好きじゃない!僕はこれが好き、あんたはそれを嫌い!それを嫌いなのはあんたの勝手だしこれを好きなのは僕の勝手だ!それでいいだろうが!これで話が簡単になった、よかったよかった。エ?善かった?話が簡単になることは善なることなんですかあ!うるせえ僕が善だと思うことはあくまで僕が好ましいと感じていることを便宜上そう表現しているだけですべての人間にとってそうであるとは言ってないんだよ!そうですか
ならそれでいいんじゃねえの、自分の中の善悪を知ることは自分にとっての好悪を知ることで、それは自分の中でだけ成立する善悪の定義で万人に共通のものではないとわかっていればそれで十分なんじゃないすか
「万人に共通の善悪が存在していると思い込むこと」を自分にとっての悪と定義づけるということですね!
……
そうですね
そうなのか?
そういうことだろ?
そうかも……
それで?
え?
善悪がはっきりしたらなんなの?
行動理念に善を為したいという目的がプログラミングされているなら悪を避け善を為す、好きなことを実行し嫌いなことを避ければいいのでは?
通常運転では?
馬鹿の考え休むに似たり!
本当に馬鹿だから休めば馬鹿じゃなくなると思って馬鹿になりたくなくて休んだりするよね、因果関係の錯誤だね、馬鹿は馬鹿だから馬鹿になりたくなくて考えてしまうし休んでしまうんだよね、もっとも馬鹿なのは自分が馬鹿かどうか気にすることだと思うがね、実際馬鹿とか馬鹿じゃないとか定義するのがもう馬鹿馬鹿しいからな、馬鹿が馬鹿という概念を考え出したんじゃないのか?ウケるな…だいたいなぜ馬鹿かどうか気にするんだ?それは馬鹿じゃなくありたいからだろう?なぜ馬鹿じゃなくありたいの?善くありたいと思い、自分は善だと思いたいからじゃないですか?なぜ自分は善でなければならないの?そうでなければ自分を許せないから?なぜ自分を許さなければならないの?自分を嫌いながら生きていくことはできないから。本当に?
本当に。
嘘じゃないか。自分を嫌いながら生きているじゃないか。
でもそれは自分を許していることとは違う。
そうだ、自分を嫌いながら生きていくことはできる。でも許していない。許しのないところに苦悩がある、罪の意識が。それを抱えながら生きていくことはひどく重くつらい、だから耐えられない、耐えられないから許されたい、許されたいから善でありたい。
また許すとか許さないとか言ってる…。
なぜ許すだの許さないだの、善だの悪だのにこだわるの?秩序に。ある法則に。一貫性のある方針に?
それがないとあまりにも…。
あまりにも?
いや…でも…そう…もっと柔軟でいいはずなのに…。
そう、僕は頭が固い。
しってる。
柔軟で「ありたい」?柔軟でないのは「避けるべき」?馬鹿は「悪」か?「無能」には「死」?
本当に頭が固いな。
それは呪い?
事実の確認だよ。
それで?
え?
事実を確認した。そのあとは?それでどうするんだ?だからなんなんだ?なにが言いたい?
僕には頭が固い部分があるなぁと思った。終わり。
終わりだよ。
話のオチは?
ない。
活かさないの?
なにを?なにに?
自分には頭が固い部分があるという情報をもちいて善を為すことに。
たとえば?
頭が固いと悪だと見なされる場面で悪だと見なされないようにするために振る舞う方法を身につける。
それが善?
そう、ある意味で。
悪だと見なされないよう振る舞う方法を身につけることは善?
はい。ある部分では。
そうか、よかったね、君にとっては新鮮な事実かもしれないが、新しい情報を得られるのは君にとって善なることじゃないか、つまり僕はこう言いたいんだ、僕は無能だ、僕はあなたが望むとおりの、あなたの描いたとおりの理想をそのままなぞれるような技術を持っていないということだ、期待するだけ無駄だということだ、技術を得よう得ようとあなたは懸命に努力した、ところがその努力はまるで的はずれだ、あなたが善を望むほど僕はそうであることから遠のくよう動かざるを得ないなぜなら僕は善でありたいなどとは微塵も思わないしあなたの説教くさく押し付けがましい善意とやらには心底、心の、底から、うんざりしているからだ
説教臭いのは嫌いか?
はい、嫌いですね
なぜ?
僕が望んでいないことをお仕着せがましくさも僕が望んでいるかのように扱ってくるから。それはあなたが望んでいることであって、僕の望みとは別だ
君は無能でありたい?それが望み?
そうじゃない、僕は実際無能なんだ
無能じゃなくありたいとは思わない?
どうして?全然思わない。なぜ無能じゃなくありたいの?
それが善を為すことだから
反吐が出る
そう。君の望みはなに?
善悪で判断しないこと。なにも判断しないこと。善悪、好き嫌い、なにを好みなにを嫌うか、それはつまり趣味だろ、おのおので趣味が違ってる、それは自明だ、趣味は趣味だ、趣味を理解してほしいな…
じゃあ僕の趣味は無能でなくあることだ、それを好むことが僕の趣味だ
うん。知ってる。僕の趣味は自分の無能さを責めたり矯正したりしようとせず、受け容れることだ
好みが相反する。善悪がぶつかり合う。でも悪は悪じゃなく悪が思うところなりの善を為しているのでそれは善だし、善は善が思うところの善を実行してしまえば悪の側からその存在を盗み奪い踏みにじり殺すこととなり窃盗や殺しは善ではないので悪だし、ただ相反しているということだけが確かでどちらがよいわるいとかはなくそれは同じものの反対の姿でしかなく……めまいがしてきた
つまりなにかを志すことはなにかを踏みにじることで生きることはなにかを志すことでだからなにも痛めつけずに生きることはできないということでなにも痛めつけないであれという無茶な要望を自分に課し続けるのをいい加減どうにかしろという話
またその話?
ダメだよ、いくら理詰めで迫っても体感でわかるまで本当の理解には達さないんだ
なんども体感してるだろうが嫌というほど、なんでまだこんな…
じゃ、もっと別のやり方を試す必要があるね
あのさ、思うんだけど、なんかあんじゃん、故事成語かなんか寓話で、虫を殺す子供を見て残酷だ!とかってわめく大人がいるけど、残酷なのはそれを残酷だと思う大人、そいつ自身であって、子供は残酷を為そうとしているわけではないのだから子供の行ないは残酷ではないっていう……状況がそれに似てる
じゃあその「大人」はどうすればいいの?
いや、しらんけど
「子供」だってその行為が「残酷」だという情報が頭に入っているなら状況は別だよな?そうなったら「子供」は立場として「大人」と同じだもんな?
そうだね。
どうして?違うよ。実際残酷じゃないんだよ。殺すことは。なぜ残酷なの?
それが「残酷」だと感じられるから。
感じられないけどね…それは単に行為だよ、行為以上の意味はない
こうなると話通じないんだよな…
そうだよ。話は通じないものだよ。趣味が違うんだよ。好き嫌いが違うんだから同じにはなれないよ。どうして話が通じると思ったの?わかりあえると?どうなることがあなたにとっての話が通じたという状況なの?考えが同じになること?
考えを同じにしろとは言ってない、こちらの言い分や望みを汲んでもらいたいんだよ、無視をするなつってんだ、おのおのに好き嫌いが異なる、それはいい、でも僕はそれが嫌いなんだよ!あんたがそれを好きなのは、あるいは好きでも嫌いでもないのはわかってるよ!その上で僕の視界の中でそれを繰り返されるのは本当にもう二度とまっぴらごめんなんだ!
つまり僕があなたの視界の中に入っていかなければ問題ないわけだ
それが可能だと?
あなたのいないところで僕は虫を殺し、あなたは自分の目の前でだけ殺戮の起きない世界の中平和に生きる
こないだネットフリックスでアメリカンサイコって映画を見たんだけど、そんな感じの話だったね、パトリック・ベイトマン、彼は言った、「I want to fit in」、彼はやった、周囲に馴染むすべてを実行していた、世間、社会、組織、コミュニティへの順応を試みた、試みまくった、はたからみるとばかばかしいほどに、コメディの一場面みたいだった、でもいたってシリアスなんだ、ベイトマンにとって、Fitting inすることは。そして殺戮の衝動に苦しんだ。コントロールできないんだって。殺したい。殺してしまうのは苦しい。でも楽しい。それを楽しめる。でも苦しい。とうとう白状した。あらいざらい全部、隠してきた殺人の告白。さあ、罪が白日のもとにさらけだされる。裁きの御手にその身を委ねられる。ところがなにも起きない。世界はなにも変わらない。ベイトマンの告白は冗談だと思われた。面倒をきらってなかったことにされた。なかったことに。ベイトマンの心は深い檻の中に収束していく。彼はひとりごつ。実際には自分の感じている痛みを誰かに伝えたい、与えたいがための暴力だった。自分の引き起こした殺人、その罪を認めるが、認めたところでそれ以上自分自身から得られるものはなにもない、だからこの懺悔にも意味はない、みたいなことを。映画はそこで終わる。
罪を告白しても罪を罪と認められない世界。無視される世界。なかったことにされる世界。それが望みなんすか?ぞっとするけどな。
ベイトマンが殺人衝動にかられてまで昇華したかった、伝えたかった痛みの正体ってコミュニティへの順応に対する苦痛だと解釈したんだけど、まあ、めっちゃわかるな、それはそれとして、やっぱFitting inしようとする行為ってまじで見苦しいな、でもやんないと生きていけないけど、いやちげえな、やんないと生きていけないと思い込んでることが見苦しいんだ。ベイトマン以外の連中が一切Fitting inに苦しんでないのは、それがあくまで自然に感じられる行為だからで、そうすることが苦しいなんて感じないからで、あるいは感じたとしても耐え難いと言うほどではなくて、だから、つまり、殺しは残酷なんだという思い込みこそが殺しを残酷に仕立てているように、Fitting inに不快を見出すことがFitting inを不快に仕立てている原因で、見出さなきゃよかったのにね、そういう感度がなければよかったんだ、でもあるんだから、しょうがねえだろ。なんとか、せめて、それを殺し以外の手段で昇華してるんだよな、みなさまがた、おっけおっけ、知ってる知ってる、で、それに慣れて諦めて受け入れることこそが善でありそうでない者は悪であり文句言わずに我慢し適応することこそが正義であり…みたいに言い出すんだろ、知ってるぞ。またはじまったよ、だからそれが被害妄想なんだっつの。いや被害妄想って、あんたが今まさにそれを僕にやってるところだろうが。そうでした。いや!いいや!違うぞ。被害妄想を生み出しているのは自分自身で、被害妄想は被害を受けたいと思う心理から生み出されていて、つまり僕が望んでいるからこそ僕は被害的に感じているんだ!被害者でいたいんだな!?我慢を強いられることは被害である、その思い込みが、被害妄想を生んでいる!僕は君に我慢を強いていないぞ!ただ自分の好悪を表明しているにすぎない!だいたい君は我慢をしないでいられているじゃないか!ということは対等なんだ!権力勾配なんて妄想の産物だってことだ、抗えるということだ、自分の好きに振る舞えるということだ、それができる力を持っているんだから!うるさいな!大声で喚かないでくれ。あっ、はい。
ベイトマンにとっては罰を与えられることが望みだったから罰のもたらされない世界は地獄だった。罰を与えられることとはすなわち自分の痛みを知らしめてやったことの証左になるから、誰にも自分の痛みが伝わらなかったことでベイトマンは心を閉ざした。でも自分の痛みを知らしめる方法はあくまで無意識に行われた代理的発散であって自覚の上で行なう直接的伝達じゃなかった。抑圧された苦痛の中身を暴き出す作業が必要だったんだ、解体するべきは他人の肉じゃなく自分の魂だった、殺人は八つ当たりだ、まったくひどい話だ。全然ひどいと思ってない口ぶりなんだよなぁ。ひどい話だよ。無辜の民をできるかぎり残酷に殺す、これ以上ひどいことはない。しかも、無辜の民は無辜の民だから殺された。そのうえで、反撃されないような状況を作ったり弱そうな人間を狙ったりして、一方的に。つまり、自分だけは安全が保証されている位置からの、腹いせのための暴力。おぞましいよ。精神的に追い詰められてたって?全然打算的で、保身に満ちていて、醜いよ。僕がこうやってあれこれ書いたり考えたりするのもまさしく八つ当たりだよ、目を覆いたくなる、ところが、しかし、楽しい、楽しむことができる。苦痛をかてに楽しみを得ているということだ。それを楽しんでいるなら苦痛を感じることには利点がある、八つ当たりを楽しめるというメリットが。だから本気で苦痛から脱しようとしていないのでは?楽しむ余裕があるということは?それはね、ありますね、息継ぎするための苦肉の策とかいって、楽しみを得てるんだもんな。マゾヒスティックな話だ。ふざけんな、おまえの変態趣味に付き合ってられるか、もうたくさんだ、ところがここは自分の頭の中なので、僕は自分から一生のがれられないのでした。続く。続かないでほしい。いいや続いたほうがおもしろいね。終われ終われ終われ………早く早く早く…………。