頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

祈り

またアレが来た。

情緒不安定。

このまま嫌な気分が続くだけなんだったら今すぐ死んだほうがマシという意識にとらわれて、嫌な気分になる状況に身を置き続けるor死ぬの二択で脳の思考領域が100%占められて動けなくなる状態。

今週の頭がそれのひどい状態のピークだった。

今は落ち着いてる。これが書けるくらいには。

とりあえずまた丸々一週間休み取った。職場の人たち呆れてるんだろうな。2ヶ月連続これか。『まじで使えないヒューマンリソースですね。』そうだね。僕は今これ居ても居なくてもどうにかなる程度の労働力だからまだ呆れるで済む(済んでるのか?)けど。『不審がったり迷惑には思うだろうけど、それは君の行動が突発的かつ深刻そうに見えるからだよ。自分の状態を把握して事情を説明できれば納得はしてもらえるよ。君が自己説明をしないから不審がるんだよ。対応に困るんだよ。無駄な心配をかけるなよ。困らせるなよ。隠したり平気なフリ大丈夫なフリして嘘ついたりしないで説明をしろよ』はいそうですね。『社会人舐めてますよね』いやすごいよ社会人、毎日規則正しく出社して時間管理して多少の気分のムラではびくともしない強靭な精神鍛錬と習慣付け。舐めてない、ただ僕はその一員には加われないと思う、加われるときは自分を騙し通すことと心身を壊す覚悟とを決めたときだと思う、我が身が可愛い限り無理。

 

一週間、ひたすら寝込んでた。平均12時間睡眠。寝る、たまに起きてトイレ行って寝る、起きる、飯食う、寝るのループ。起きて活動してるときは、泣くか、泣くのを忘れられる低刺激な娯楽に興じて感覚を麻痺させるかの二択だった。あらためて書いてて笑ったんだけど病人やんけ。病人でした。うける。うけねえよ。いや超笑えるな。

いよいよつらすぎてやべーと思ったとき取り乱しておかんにLINEとか飛ばしてしまった。

"働くのが苦痛で働きたくなくて、でも働かないと生きていかれない世界なら死ぬしかなくないですか?助けて"

電話でやり取りをした。

"でも嫌なことばっかりってわけでもないよね?"

そうだね。

"今の職場環境だってこれ以上望めない妥協点ないくらい条件いいよね。"

そうですね。それくらい恵まれてても常時激痛を感じてる自分ってなんなんですかね。

"辞めたいなら辞めていいと思うよ、一人暮らしやめて実家帰ってきたら?"

いや帰っても結局労働して金を得ないと立ち行かないっていう現状に変化はないじゃないですか、他にどういう選択肢があるのかわかんないんですよ。どうしたらいいのかわからない。

"それはすぐにはわからないけど…"

 

声が出なかったり泣き声で上ずったりしながらしゃべった。

泣くときは、泣くモードに入るスイッチがある。スイッチというか性感帯みたいな部位が。頭の中の。その部位が刺激されると涙が出てくる感じ。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。それでいっぱいになる。しゃべるという行為、特に自分の考えを述べようとするとき、がその部位を刺激する要因になっている。

起きて活動してる間、なるべくその部位を刺激しないことに執心した。自分の考えに触れないこと。考えないこと。それは功を奏した。落ち着いた。自分の考えに触れても、自死を願ったり泣かずに済んだりする段階にまで。

 

 

『なぜ親に当たる。善意を利用するな。感情をぶつけるな。最終的に自分の中でしか結論の出せない自分の行動指針に関する禅問答に人を巻き込んで混乱を与えるな』

すいません。

『誰だって働きたくないよ。みんな同じだよ』

誰だって不満をこらえてるのは知ってるよ、僕は"みんな"が働きたくないと思ってるなら"みんな"が働くのやめたらいいと思うんだよ。なんでそんなに無理して、苦痛を感じて、我慢し続けて労働することが是としてまかり通っているのかが疑問なんだよ。

『まかり通ってはねえよ。だからぶらっくきぎょーとかさーびすざんぎょーとかが問題とされてるんでそ』

それは会社が労働基準に反してるからっていう理由でだろう。そもそものその労働基準とか求められる能力が自分にとっては耐え難いほど高く感じるって話なんすよ。

『で労働をやめてそれでどうなる。インフラや衣食住を維持するのにはカネがいるんだよ』

現状、全部飽和してるじゃん!あとはどうしても必要な人だけが向上を求めればいいじゃん。僕は贅沢は求めてない、バラエティ必要ないっす、十分だよ。なぜ全員が全員、生活の維持のために競争したり疲弊する必要があるんですか。

『多数決で贅沢が、便利であることが、高機能な道具が、求められているから。資本主義社会だから』

『君だって便利で贅沢で高機能な道具のお世話になっているじゃないか』

『それがなきゃないで欲しくなるよ、きっと。そのために働きたくなるよ、君も』

いらない。

『じゃ、文明を捨てて暮らしなよ。寒さ暑さに体を晒して、病気にはかかりっぱなしで、服も体も汚しっぱなしで、食べ物は自給自足か残飯あさり、そうして過ごせばいいじゃないか』

……。

『ほら、嫌なんだ。だったら働けよ。馬車馬のように働けよ。心身を壊す覚悟を決めなよ。社会人らしく振る舞いなよ。適応しなよ』

文明を捨てて暮らすor奴隷として生きるの二択なんですか?

『違うの?他に選択肢あるの?』

違うと思うし他に選択肢あると思うけど……

わからないよ!

具体的なことがなにも思い浮かばない。

文明のおいしいとこ取りはしたいよ。でも奴隷は嫌だ。待遇のいい奴隷のポジションを探す。ハイエナになって。"価値のある"ハイエナになって。いや、奴隷でいる限り待遇のよさに満足することはないと思う。奴隷制度自体が苦痛つってんだから。奴隷を雇う側にも回りたくない。常に自分のことで手一杯なのに人の面倒見れる余裕がこの先自分に生まれるとは思えん。奴隷として扱われない場所に行きたい。そんなところあるのか?あるだろ。どこだよそれは。わからん。やっぱ文明捨てるしかねえ。"扱われる"ってなんだよ。なんで他人目線なんだ?自分が自分をどう扱うかだろ?そうですね。

なぜみなさん当たり前のように働いていられるんですか、働きたくないですよ僕は。社会人らしく振る舞うのは苦痛以外の何者でもないですよ。それが苦痛じゃない人だけやればいいじゃないか。苦痛だよ。苦痛だよ。苦痛だよ。苦痛だよ。働くのやめようよ。ボイコットしよう。それでインフラが崩壊するって言うなら崩壊したらいいや、身の丈に合わない過労とインフラの崩壊の二択なら、僕は後者を選ぶ。そんなにインフラが大事か。

『大事だよ』

わかってるよ、言葉の綾だよ……

 

 

 

情緒不安定。

社会的死or自殺の二択に追い込まれて死にたい以外考えられなくなる。

PMSPMDDなんですかね。

月経前症候群ね。

気分障害と自分の体を結びつけて考えるとき、一つの観念にとらわれる。

情緒不安定を、これだから女は(笑) 生理(笑) メンヘラ(笑)みたいに半笑いで小バカにしたりイジりの対象にされる、そういう扱いを受けてるのをたくさん見てきた。

自分が情緒不安定入ると、今まさに自分がイジられる対象化してると思って、そのようにバカにされてる自分を想像する。悔しさを感じたり思い出し怒りしたりして情緒不安定に拍車がかかる。

情緒不安定になって苦しんだり、そうなってる状態を半笑いであざけられるくらいなら、情緒不安定になるような機能など要らない、そうである機能を所持していたくない。"それ"であるだけで"それ"を理由にあげつらわれ、からかわれ、そしられ、罵られ、サッカーボールかなにかみたいに、蹴れて遊べるおもちゃみたく扱われるなら、"それ"を持っている自分で居たくないと思った。"それ"を持っている自分を消し去りたい、殺したいと思った。

まあ現実は変わらないですけど。

女の体を持っていることにコンプレックスがある。

女の体を持っていると女の体を持っている人間として扱われる。

その体型が性的興奮を催す度合いがどうとか、その体の美醜の価値がどうとか。

ところで、女の体を持っている人間は「女らしく」ないと「おかしい」らしい。

そこに居ても違和感のない「女」的な存在でないと「違和感ない状態をノーマル」だと思ってる人を不安がらせる。ファッションとか。なにに関心を示すかとか。作法礼儀愛想。人間性はそういう部分と全体を見て判断される。そこまではいいよ。判断の結果違和感があると、なぜか違和感を矯正してこようと口出ししてくる人が多い。

「それはおかしい」「○○したほうがいいんじゃない?」

なんで?

僕から見れば、矯正してこようと人の感性に口出ししてくる姿勢のほうがおかしい。矯正しようとしないほうがいいんじゃない?と思う。

でも言い返す勇気、戦う度胸がない。そこまで我を通す胆力がない。そんなに僕が変で、おかしくて、あなたを不安にさせると言うなら、別に不安にさせたいわけじゃない、じゃあ隠すよ、と思う。そして、矯正されたくない部分は隠して、黙って、表面だけ"矯正済み"みたいな顔をして過ごしている。とても苦しい。

多くの社会的人間はそのようにして振る舞っているんだろう。でも僕はそうやって個人的感性を犠牲に安定して回る社会、経済活動に、魅力を感じない。それで得る豊かさのなにが豊かなんだ?と思う。僕だって文明の恩恵は受けてるよ。でも文明のための人間じゃないだろと思う。本末転倒だ。なにが社会的人間だよと思う。

お気づきかもしれないですけど、この段落における"女"は"男"に置き換えても成り立ちます。女だから男だからどうとかいう話がしたいわけじゃないってことです。大人/子供、老人/若人、社会人/引きこもり、同性愛者/異性愛者、とかでもいい。大筋の言いたいことは変わんなくて、ステレオタイプな"何者かである"とされる・見られる自分が嫌っつー大味な話なんで。その中でも特に「女体」として見られたり扱われたりするのに、過度な抵抗感と嫌悪感が強い(強かった)ということが書きたかった。それも自分の場合はそうだったというカギカッコ付きの話っす。たまにこうやってルサンチマン炸裂するけど。ある性質を指して、性的魅力があると認定されるのが褒賞になる人、そう扱われるのを喜ぶ人がいる。一方、そうじゃない人間もいる。それだけの話だ。(あっ!限局性激痛だ)

 

この話、根本的には性別をアイデンティティの基盤にしなきゃいい話なんです。個人レベルではそれで解決する。「女の体」=「自分の性質」だと思うから、自分が扱われたくないように扱われたとき、不快になる。「女体」は自分の部分ではあるけど、全体じゃない。取り沙汰されて語られる「女体」の話は、あくまで「女体」の話であって、「自分」の話じゃない。そこで語られる「女体」は単なる機能としての「女体」であって、「女の体を持った一つの人格」の話じゃない。もっというと「女の体を持った一つの人格」こと「女性」の話ではあるかもしれないけど、「自分」の話ではない。「女性」、それは性別として扱われる人格の呼ばれ方だ。

その切り分けができてれば無駄に消耗しなくて済む。僕はこの切り分けに苦労した。基本自他の境界が怪しいんです。念のため何回でも書くけど女体は男体に置換可能だから。

 

 

 

一人称の話。

僕は「僕」「自分」「私」「俺」というおおむね4種類の一人称を使い分ける。

一人のとき・くつろいでリラックスしているときには「僕」

体裁を気にするとき・初対面・フォーマル・社交的な場面では「私・自分」

匿名コミュニティを利用するとき・気分次第で「俺」

まあ場所と人を選んで使い分けてます。

思ったけど別にそれって普通のことだな。

上司と接するとき、部下に接するとき、友人と接するとき、家族と接するときの態度、どれも等しく一律である人間のほうが稀だ。というか一律同じ態度でいられる人間像、赤ん坊しか思い浮かばなかった。それと同じことだ。分人ってやつです。僕も赤ん坊でありたい、とても、切実に。そしてそうであれる人が羨ましい。そうありたい。でも度胸がないので諦めてます。キリストとかブッダでさえ分人的なんすよ。キリストは神と民草との間で態度を変えるし、ブッダは悟った者と悟ってない者との間で態度を変える。それは、自分と他者との間で共有してる、情報の有無に関係するのかもしれない。自分-神、自分-民草。悟っている自分-悟っている他者。悟っている自分-悟っていない他者。自分と他者との関係性によって、出すべき、見せるべき自分の情報が違ってくる。僕は……一番フラットな状態の自分のことを、その状態の自分の情報を、出すべきじゃない、見せるべきじゃない情報だ、と判断するんだろうな。『ああ?そりゃそうだよ、それを出すなら腹を決めないと。一番フラットでくつろいでいる自分をどう扱われてもいいって覚悟が、殴られてもいいって覚悟があればいいんだよ!そうじゃないから、覚悟がないから、殴られてもダメージが少ない昼行灯でいるってラクな方法を選ぶんだろう?』はいそうですね。まあ、この場所ではそのリスクを負ってる。とても小規模だけど。でも、一方通行で自己完結的だからリスク負ってる感覚がなくなってきた。殴られたらそのとき考える。

 

僕という一人称、使ってて一番しっくりくる。他じゃ替えが利かないしっくり感。「女体持ち」が「僕」を使うことへの違和感は、こと1人でいる状態においてはなんの違和感もない。慣れの問題かもしれない。なんだかんだ第二次性徴期以前から使ってるから。逆に「私」を使ってるときの違和感のほうが強い。付き合いが長いので愛着もある。最初使い始めたときも、やっぱり言葉の印象とか、しっくり感でええやんと思って使ってた。一人称のことは服みたいなもんだと思ってた。選んで着ていいんだったらこれ選ぶって感じ。カワイイとカッコイイと情けない感じが渾然一体になってて、とてもちょうどいい。それは別に今も変わってない。

みなさんはどういう理由でご自分の一人称を選択していらっしゃるんですか?

まあ全員スーツ着てる場面で1人だけはっぴ着てたらなにこいつとはなるよね、それはわかる。僕が疑問に思うのはなんで全員スーツ着とるんやってところなんですけど。なんで全員スーツ着てるんですか?

機械であるためだよ。機械には機械として求められてない・有益じゃない、余計な機能は不快で不要ってわけっす。

なるほどなぁ。

あと「スーツ着てないのはおかしいよ」っていう同調圧力。出る杭は打つ空気。

ははは。イエーイ。

 

 

他人の男らしさとか女らしさとかにとらわれなくなるといい。男らしいのが好きな人は男らしいのを選べて、女らしいのが好きな人は女らしいのを選べるようになれればいい。男体と女体、男らしいと女らしいの定義や境界が曖昧になったらいい。それが当たり前になったら嬉しい。それと同じようにあなたが、私が、固定観念を超えて自分の好きなものを選べるようになれるといい。そうして、個人の選択、個人の感性に、口出ししたり矯正するのがさも当たり前であるかのような風潮が廃れればいい。感性とその選択がぶつかりあって競合するなら、諍いが起きなくなる距離まで、お互いが快適に過ごせるスペースを取れたらいい。仕組みのためになら犠牲者を出す仕組みは、犠牲者を出さない仕組みになればいい。抑圧の数は少ないほうがいい。息苦しさは少ないほうがいい。苦しみは少ないほうがいい。

そういう祈りがずっとある。時代の流れは途上とはいえ今まさにそんな空気で、そのことにとても喜びを感じてる。

苦しみが多いほうが嬉しい人間もいるのかもしれんな。

ぜひ自己完結してほしい。

僕も苦しみのない自分を自己完結させよう。

だから死にたいんだよね。