頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

骨なし

嫌なことがあって、泣きながら帰ってきた。小学生みたいだな。帰りの電車に、乗るまでは平気だったのに、つり革に捕まってじっと目をつぶっていたら、コンパスが狂った。また電車の中で泣いているのか?失禁を抑えられないなんてだらしがない。1年前もそうしていた。もっと前にも同じことがあった。あれは6、7年前。15年前。どれもまったく同じ種類のフォーマットで、やり過ごし方もなにもかも。やってることがなんにも変わっていない、何回同じことを繰り返してるんだろうか。友達の友達。クラスメイトのクラスメイト。

なんにも大したことじゃない。しょうもない話だ。ただ人が人の噂話をしていた。僕はそれを聞いてた、それだけだ。なにも起きていない。しかも噂話の対象は別に自分じゃない。例の今度退職する人の話題だった。噂の内容もこれまたとてもありふれている。ヤフーのネットニュースかなんかで、若者のなんたら問題みたいなトピックスを適当に開き、そこのコメント欄で、一番数字を集めてるメッセージで見られる、そういう種類のやつ。ツイッターでバズってる、会社における新人社員の素行がなんたらみたいなツイートを適当に開き、リプライ欄の底のほうで団子になってるメンションで見られる、そういう種類の、管巻きだ要は。管巻き。なんならいつも僕が一人でやってるのを外で聞いたような感じじゃないか、まさしく。自己陶酔した酔っぱらいのざれごとだよ。真に受けるだけバカを見るんだ。だいたい壊れたレコードかっつーくらいテンプレおっさん発言と化して使い回されまくってるから聞き飽きてるんだよ。そんなんで今更こんなダメージ受ける?受けちゃった。液晶越し、スピーカー越しにはいくらでも見聞きしてきたが、肉声のライブ感すごいね。

社会はそんなに甘くないんだよ、努力が足りないよ、俺の時代は今よりもっとガッツがあってどうたらこうたら。僕に言わせりゃ逆だ。あんたが社会を甘やかしてきたんだろう。お得意の自己犠牲で、求めるものは命でも魂でも一生懸命与えて、そうやって肥えさせた社会が求める要求は果てしなくつけあがった、あんたと、あんたの時代のあんたのようなやつ一人ひとりが社会とやらをそのように育て、扱ってきたんじゃないか。なぜそれに加担する必要があり、加担することが前提であると思う。お断りだ、あなたのやり方にも、あなたの時代のやり方にも加担したくない。いや労働してる時点で加担してるでしょ。ネット弁慶の本領発揮だね!いきりたってますね。いきらせてくださいよ。僕にはやり場がないんですよ。どこにもないんですよ。僕はただ吸収してしまったエネルギーを変換してるだけなんです出さないと体に障るんですよお、ムカつくよ、胸糞悪いんだよ、銃社会じゃなくてよかったですね、夜道に気をつけろクソ野郎、僕が銃身の代わりになにを磨いてきたか教えてやる、呪詛だよクソッタレ。脇で、でもそういうの、直接言ってあげるだけ優しいですよ、つってヨイショしてた君。本気か、君にとっての優しさとはなんだ?靴のサイズが合っていなくてつらそうだ。それを指摘し、最適なサイズがあるという発想を持ち、どうやって最適なサイズの靴を手に入るか、あるいは靴のもたらす痛みを減らせるか、一緒に考えること。僕はこういうのを想像した、君のは違う?足に合う靴じゃなく、靴に合う足をってそういう方向性?ところで、君には君の靴のサイズと歩幅が、僕には僕の靴のサイズと歩幅がある。そうだよね?それは違わないよね?で、サイズの合ってない僕の靴を君に履かせたら、きっとそれは小さすぎて窮屈で、たいそう痛いだろうと思うな。また、僕の歩幅に合わせて歩かせようと思ったら、君には幅が狭すぎて、始終イライラすることになるだろう。それでも、せいぜいお互い違うサイズなりに、歩幅を合わせあうことくらいはできる、そりゃいいよ、でも、合ってないサイズの靴に履き変えろってのはなんなんだ?自分のサイズに合わない靴に、足の形のほうを合わせるべきだと、それに同調して、なおかつやって然るべき当然の行いだと考えてるのか、そのように言っているのか?そうかよ。僕は君たちを童話で見たことがある、シンデレラって話に出てくるんだが。君はまたこうも言った。みんなそんなに他人のことになんか興味ないですよ。そりゃそうだろう。自分の足先をけずることに熱心になってりゃ、その痛みにだけ神経の注意が集まって他を考えられなくなるのは極めて自然なことだね!血涙を流しています。ブーメランだ!戻ってくるけど当たりゃいいんだ!当たんねえよ!なにも喋ってないんだもん。バーカバーカ!アホ!マヌケ!うわーん。

頭の中でだけは元気いっぱいですね、チキン野郎。体の方は黙って聞いていないフリをしていた。話題に上げている人物と僕の共通点をあからさまに挙げて、チラチラこちらを意識しながら、こういうヤツはこれこれこうだからダメだよなぁ~みたいに言っているのを聞いていたが、とにかく無視した。なにも言えね~。ダメと言われりゃそれまで。あなたから見ればダメなのは確かだ。レスバトル、文字でなら受けて立ちますよ、肉声はダメ。言葉が出てこないし泣いちゃうしすぐ下手に出るから。戦う前から負け犬モードだし。雑魚!いや戦わなくていい……。そうだよ!そもそも戦う必要ない。あんたがたの基準からすりゃ僕は落第だ、そんなのずっとわかってる。でも僕があんたの基準に合わせることはない。そうすると僕はもう歩けなくなるから。ともかく止まらず歩くことが重要だと思うんだけど、どう?君に基準を合わせてたら痛くて止まっちゃうんだけどなぁ!?みっともないことしか言ってないのになんでこんなに偉そうなんだ僕は。なんなんだよ。まさに今言うけど、身の丈にあった振る舞いをしろよ。わかっている。また八つ当たりか?ごめんね。その通りだよ。僕は甘い。知っているよ。あなたがたはその厳しい適者生存世界で戦略を用いてこれまで生き残ってきた、サバイバルしてきた。それは褒められるに値する立派なことだったんだろうし、だからこそ自分を誇って、そして人にもその水準を求める。相手の程度が低いと判断すると、途端にやきもきイライラするんだ。そうやってあなたが成就を得られたその努力信仰で、僕は襤褸切れになる。もう十分わかったんだよそれが。無理なんだよ。根本から造りがちげえんだ。自分の基準をスタンダードに当てはめて考えないでくれないかな。無理かな。無理か。無理だ。僕はまずこの発作とビョーキをどうにかしたほうがいい。話にならない。アサーティブって知ってるか?知っているがなんだよ。それがなんなんだろう。なんで僕は相手に自分の話が通じるだろう、聞く耳を持ってもらえるだろうなどと思っているんだろう。通じないよ。それが正常だ。これを病気と呼ぶなら他の感情だって全部病気だよ。出たよ「全部」。エンジンかかってるときとのテンションの落差がすごい。しかしあのね、この人達、とっても素直で正直で人間らしくて可愛いじゃないですか、完全に僕が一人相撲でいかれてるだけでしょ。自意識過剰とそれがもたらす臆病さ、被害妄想から来るさもしい暴力性が、コントラストで際立つ。表現しないほうがいい。どっちにしろあそこじゃ黙ってて「正解」だった。わかってる。でもそれじゃ今までと同じだ。結局自己嫌悪に戻ってくるわけですか、また歩きやすい、道の固まった、思考のけもの道を歩いている。どうすりゃいいんだよマジで。つまみを調節するんだよ。最大値と最小値を把握する。暴力性と向き合うしかない。一つ一つ丹念に感情を味わい尽くしていくしかない。過剰な発露が無用な加害になる。たとえ最小の感情が暴力を帯びていたとしても最大よりはマシ、少なくとも、気分的には。音量を絞るように感情を絞れば暴発も防げる。そのためにそもそも表現や自己主張それ自体に慣れないと話が進まない。でも、だいぶ慣れたよ。それは重畳。ガンバレ。がんばりたくないな…。なにもがんばりたくない。生まれてきたくなかったな。誰も殴ったり殴らなかったりしなくてすむようになりたいな。そういう願いや期待自体が、誰かを傷つける発端にあたるとわかっていても?うん。いや、わからない。消えていなくなりたい。もうどこにもいたくない。もうこんなこと一切考えなくてすむようになりたい。なにもかも要らない。消えてなくなればいい。情緒不安定がすげえなおい。消えればいいだろう。そうできるよ。したいことがあるなら実行に移せばいいんだよ。結局それもできないくらい消極で受け身でそのくせ我が強い、だから今そんなんなんだろう?バカだな僕は。身の丈を知るっていうのはそういうことだよ。なんでこんな些細なありふれた取るに足らない出来事や言葉にここまでダメージを受けられるんだ?おかしいよね。おかしいかな。単に周期的な感度の差か?あるかもしれん。駄々をこねていないでよく観察する必要がある。もう赤ん坊ではないのだから。いや、情緒が赤ん坊なんで困ってるんですけど…。育て直しだね。

 

帰り道、気持ちを鎮めようと遠回りして、たくさん木のある道を通った。木を見た。自分の胴体の何倍も何倍も太い太い巨木の幹を見ていた。どれだけ手を伸ばしてハグしても両腕で輪を作れないであろう太さだ。とても大きい。空を見上げると、小粒な葉っぱの一枚一枚が黒々と空を覆って、雄大に、風にそよぐのが見える。根っこはヒトの手のようだ。ごつごつうねうねとした指が力強く地面から生えている。そうやって土から宇宙的速度で養分を吸っている。それはとてもステキだ。落ち着くまで、カラスや、鈴虫の声、木の葉のさざめき、街の音を聞いて、ぼんやりしてから、家に帰った。夕方、学童保育から帰った無人の自宅で、テレビをつける。たまたまやっていたドラマの再放送で、人の消えた都会のビル群が、植物によって侵食され、ゴーストタウンと化す場面が映っている。それを見ていた時間のことをまた思い出した。なにかのタイミングでよく思い出す光景だ。そうだな。植物みたいになれたらいい。ヒトの時間を捨て、宇宙的速度で、土や、光や水や、大気から栄養を得る。死んで、それらに還元される。夢のようだな。今でも、意識すればそこに行ける。アパートのそばで、黒猫を見た。雲の流れが早く、秋の風で、寒かった。

いつもの

我、煩悩にまみれすぎ。

煩悩、108個あるんですよね、内訳知りてーと思って、煩悩 一覧 とタイピングした瞬間、めちゃくちゃおもしろくなって爆笑した。「煩悩 一覧」。煩悩 一覧!おもしれえ。

煩悩一覧を眺めてみて、なんの新鮮味もなくてがっかりした。それから、煩悩を滅したいという気持ちがそもそも煩悩なのでは?なんで煩悩一覧に含まれてないんだ?と疑問に思った。調べたらそういう欲求のことは菩提心と呼ぶらしい。また爆笑した。なにが菩提じゃ。立派な煩悩のくせして俺だけは違うとばかりに威張りくさりやがって。おとなしく煩悩一覧に数えられていろ。などと悪態をつきながらもうちょっと調べたら、煩悩具足という考え方があることを知った。人間はもともと煩悩でのみ構成された100%煩悩の存在だから、そういう存在から煩悩を消そうとすることは、雪だるまから雪を取り除こうとするのと同じ、とかなんとか。雪だるまから雪を取り除いたらなにも残らない。なるほどね。よくわかる。じゃ、煩悩具足たる100%煩悩人間はどう煩悩と向き合い付き合っていけばいいのか。そのページによれば、煩悩がそのまま菩提…悟りとして価値転換される境地まで行けばいいと。そうですか。悟りってなんなんすかね。多分、この結論らへん、100%煩悩でできた人間がどう煩悩と付き合っていくか、その部分が宗派の違いになってくるんでしょうか?いや、全然知らないけど。ネット付け焼き刃以上の知識はない。それでも、仏教で煩悩は、煩悩すなわち少なければ少ないほど善いもの、多ければ多いだけ悪いもの、諸悪の根源、害悪、滅菌の対象、人類の敵、滅ぶべし、滅ぼすべし!みたいな扱われ方なんだろう、どこもかしこもそんな調子だし、という刷り込み、思い込みがあって、必ずしもそうじゃないという認識の上書きができたので、そこには新鮮味があった。

仏教や宗教全般について、まじめに調べてみればおもしろいんだろうなと思う一方、知識量重視のかたい本を読むのは全然楽しくないので、腰が重い。無感情にデータが並んでるだけの教科書的な世界に全然入り込めない人間なので、まあその程度の興味。感情移入できるレベルに興味あれば違ってくるんだろうけども。こういうのって、いかに興味の支柱を自分で組み立てられるかがコツなんだろうな。だいたいなんで知識を仕入れるかっていうと、そのモチベーションはおおむね、まずなにか疑問があって、疑問を解消するために必然的に知りたくなり、流れで周辺知識も手に入る、そういうパターンが多いし。そういうのは知的好奇心っていうか、単に必要があるからそうしてる、要は追い詰められてるだけで、火事場の馬鹿力だし、猫に噛まれそうだから生き延びるために喰らいつく鼠と同じ、そういうノリで、好奇心とはかけ離れたもののように思う。別になににも追い詰められていなく、知る必要を感じないものに対してはそもそも疑問さえ持たないからな、僕は。好奇心薄いよ。ああ、へえ、そうなんだ、そういうのあるんだ、それで終わり。その程度の認識。その程度の関心。情が薄い。薄情なんです。冷たい人間だよ。浅い感性っす。

また卑下してる。いちいち自分を貶めなきゃ喋れないのかね。自分で自分に蹴りを入れる癖、これは予防線なんだろうな。他人から殴られる前に自分で自分を殴って、人に殴らせる手間を省いてる。自分には、殴られるだけのいわれがあることをわかっています、そういう自覚の表明、アプローチ。自虐。言われなくてもわかってる、本当かな。最低限このくらい自分にはメタ認知能力があるんだと、先回りして示すことはそのまま、その程度のメタ認知能力しかないことの露呈になっているんだよな。隙きをなくしてるつもりで、隙きをなくそうとする行為そのものが隙きになってるっていう…。けど、自分が殴られるいわれがあることは百も承知で、それでも、とその先を続けたいからこそ、防衛的にそう振る舞うんだろう。その先を続けるために、毎回自分を殴る必要があるのかという話だが。いや必要あるなしの領域じゃなくて、これはもう意識と無関係に自動で行われる習性なんだけどね…。喋るためには一回殴られとかないと進めないと思い込んでるのがオイオイって感じだ。あらゆる自分の思考、言動には、あらゆる方向から反論を…蹴りを入れることが可能なんだから、毎回それやってりゃきりないって、体でわかるまでにすごい時間がかかったよ。しかも意識だけは全方角から蹴りを入れたいと思ってるのに、実際に蹴りが飛んでくる方角はワンパターンで、視野が狭いのも丸わかり。ホゲ~。しかもしかも!自分で自分を殴るのに精一杯になって、いざ実際人から殴られるようなことがあったときにはうろたえて対処できないっていう…バカウケのオチつき。いやーアホすぎる。あはは…また自虐。自虐じゃなく、単なる事実確認では?単なる確認でアホとか嘲笑しねえよ。いやアホなのはアホやってるから事実確認だな…。

それにしても毎回毎回、殴ってくる人間を勝手に想定して、そいつを模倣して、暴力振るい倒して、自給自足、元気溌剌という感じですね。結局、「こういう言動を取ったらこういう反論があるだろう」という情報の集積、それが反映された人格を内面化して、そいつを必要以上に暴力的に再現してるんだろうな。僕の中では、なぜか反論と暴力が固く結びついている。反論を暴力だと思ってる、なんで? 単なる反対意見でも、じゃれ合いのディベートもどきでもなく、暴力をともなう強烈な否定として現れる、その必然性は? 僕はAだと考えるが、Aではないと考える人間もいる、以上。それでよくねえか。Aではないと考える人間は、僕をこういう風にこき下ろすに違いない!!!はい、まあそういうのもいるのは確かだが、いちいちそれを再現して打ちひしがれるの、本当疲れるからやめてほしい。僕の場合、頻出するのは「お前はこの程度、調子に乗るな、身の程を知れ」みたいな形の暴言で、ああ、じゃ僕は調子に乗ってる自分を抑制したいんだな、とわかる。これが意味してるのは、ものすごく人の評価、人からの目線を気にしているってことだよね…。自分の程度、身の程を、高く評価しても、低く評価してもだめで、適正な評価を下すのがよい、そして適正な評価に合った振る舞いをするようにと、こうだ。そして僕には「適正な評価」がなんなのかわからんので、そう言われても困るだけ。で、殴られて途方に暮れて終わるという。適正な評価がなにかわからないのに、適正な評価をわかっているように振る舞えと指示されても、どう振る舞うのが「正解」なのかわからなくて、大混乱。混乱しながら、見様見真似で芸を仕込もうと懸命になって、空回りして、そんな感じ。「正解」がなにか知ろうとしてみる。あれはだめな例、これはよい例。でも異なる場所で、真逆のことを要求されたりする。それがだめなら、これもだめなんじゃないの?いいえ、それは例外なんです。なんで?なんででも。これがいいなら、あれもいいのでは?いいえ、それはだめなんです。どうして?それは例外だから。そうやって「正解」の輪郭がわからなくなっていく。そりゃそうだ。もともと正解なんかないんだからな。というか、人によって異なる。人、場所、集団、土地、国。なにをいいとし、なにをだめとするかは、その数だけある。

「適正な評価判断に従ってそのように振る舞え」、それって、自分は客観的に見て変だから、変じゃないように振る舞え、そういう意味でもあるんだけど、変じゃないように振る舞えたらなんなんだっつう話だよ。馴染まなさ。居心地の悪さ。気まずさと、自分がそれをもたらしているという罪悪感。気を遣わせたくない。腫れ物のように扱われるのは嫌。心配や迷惑をかけるのは嫌。かといって、指刺して笑われるのも嫌。なるべく注目されたくない。悪目立ちして、やり玉にあげられたくない。そういうののごった混ぜで「変じゃないように思われたい」なのか。でもそうやってあれが嫌これが嫌で、回避回避抑制抑制で自分を装い続けるのは、常に関節外し続けてるみたいな感じだし、そういう回避抑制的振る舞いが自分の中の「正解」に当てはまらないこともわかっている、結局自分の望む「正解」がなんなのかわからず、「正解」通りに振る舞うこともできず、常に「間違っている」ように感じ、だから緊張するし、怯え、苦しみ、適応努力の反動で八つ当たり魔になる。そういうのに疲れて息ができなくなる前に、息抜きが、こういう場所が必要になる。なんも無理しなくていい、力を抜けて、だらしない自分で居られる場所が。それが許される場所が。まあ一人でやってろって話ですわ。ワールドワイドでやる意味とは。それ。以前はそういう姿も人に見せるべきじゃないと思った。ダサくてウザくてキモいしグロい、おまけにくどいしね。そう思わせたくない、不快にさせるのは嫌だと思った。もちろん同時に不快になりたくないとも強く願ってた。あらゆるダサくてウザくてキモくてグロいものは見たくない、存在してはならないものだと本気で思ってたと思う。だから引きこもった。あらゆる接触をシャットアウトした。それも違うんだと思った。やっぱりコインの裏表と、磁石の両極と同じなんだ。切り離せない。切り離しては存在していない。地続きで。煩悩即菩提。現状、僕は、人の中で生き続けるしかできないんだから、少なくとも人の中で生き続けてる間は、人の中でそういう、苦しくない場所を見つけられないと、作らないと、どのみち生きてはいられない。苦しいから呼吸ができる場所を探すし、そのために力を絞らざるを得ない。だからこうやって今生きてるし、そうじゃなきゃこうじゃない。最初から関節外す荒業ができない構造だったらよかった、下手に無理できるから無理して疲弊する、最初から無理できなかったら、無理をすることで苦しまなくてすんだ。最初から全部自己完結してられたらよかった、下手に人を意識するから自己満足で満足できない、最初から人目を気にしなければ自己完結して楽しんでいられた。ああだったら、こうだったら。でも、そうじゃないんだし。そうじゃないから、こうでしかない。それは善いとか悪いとかじゃなく、ただそうなだけっていう。ダサくてウザくてキモくてグロいの、いいじゃない。そういうのもある。そういうのを排したくなる気持ちもある。否定したくなる気持ちも、肯定したくなる気持ちも、無関心も執着も全部ある。それいでいい。ダサくても、ダサくなくありたくても、ダサくなくありたいと願うことがダサく感じるのも、なにかをダサいダサくないで判断する次元に立ってる時点で世界は閉じていて、鈍さと鋭さ、利益と無駄、損害と治癒、二項対立で捉える以上、一方が一方を内包しているのは、それが自然だと思う。太極図みたいな感じで。清浄すぎるとグロいし、グロすぎるとむしろ清浄で、あまりにくどいと逆になにも言ってないのと同じだし、閉口がすべてを語ることもある。なんにしろあらゆる欲求、なにかを欲する気持ちは、全部煩悩だと思う。100%煩悩よ。でも煩悩が悪とか善って話じゃなくて、それはただそうだよねって話なんです。結局僕が言いたいのは…煩悩を煩悩だと認識するそれがまず煩悩ありきですよねっていう…。煩悩を煩悩だと認識しない境地に行きてえ。特に僕は菩提心って煩悩がもっとも嫌いなんだよ。煩悩を滅したいという煩悩を滅したい。それとはどう付き合っていけばいいの。悟れって?煩悩即菩提、煩悩があるから悟りの境地もある。そうだね。でも悟りなんかいらねえから、煩悩もいらねえよ、そういう場合はどうすりゃいいんだ。煩悩を捨てようとする、清浄と静謐を求める所作こそが、相当醜く汚れた暴力的所作だと感じる。清浄を求めるのは醜く汚い自分であることが耐えられないからで、でも、清浄を求めようとすると醜く汚い自分になる。また、醜く汚いと感じる感覚、それ自体が醜く汚いものだと感じるし…。めんどくせえ。捨てたい。全部捨ててえ~一生このループに縛られて身動き取れないでいるの、圧倒的にヤダなんですけど…。でも捨てられないからこうなんだよ。悲しいな…。憐れですね。はい自己憐憫〆。

日記

5年とかさかのぼったら僕は今以上に無口で陰険だったし、とにかくなんにでも閉口してて、口におもりが付いてるみたいだった。もう少し今に近づくと、1年前あたりは、無口と陰険が怒りに進化して、怒って怒って怒り散らしていた。子供の癇癪が、もっと陰惨になったバージョンの爛れた怒り。それでも無口は無口だったので、破裂するような怒り方じゃなくて、鬱血した皮膚から血がしみでてくるような怒り方。少し前までは悲しくてしかたなかった、泣いても泣いても痛くて悲しくて耐えられないと思った。意外と耐えられた。だいたいなにに怒ってるのかとか、なにが悲しいのかとか、きっかけはなんであってもよくて、というか、なにであってもすべてがきっかけになりうる、少しの刺激が劇物になる、きっかけになる現象自体はむしろ、感情の発火の中で重要性を失っていく、打つ手がない、過ぎ去るのを待つ以外に。でも喉元すぎるとみんな他人事みたいに感じる。忘れっぽいから。諦念と癇癪と悲観は地層を形成するように保持されたまま、持て余しているなりに騙し騙しやってこれた。すごいね。今は恥ずかしいな。すごく恥ずかしい。

また趣味のことを聞かれたよ。休みの日はなにして過ごしてるの?趣味?趣味ってなんだろう。趣味なんかないな…。そのときのタイミングでやっていることをそのまま答える。最近はNetflixで映画とか見てますよ。ネットでアマチュアの人が作って公開してるゲームが遊べるんですけど、そういうのやったり…。だいたい家にずっと居てツイッターとか見てますね。一日寝て過ごしてます。なんだろう、読書したりとかしてますよ。ネットで動画見てます、今はゲーム実況が面白くて。雑談が長続きしない状況、帰り際のすれ違いざま、急ぎの用事の途中で用事を言いつけた伝えたついでにとか、そういう場面でとっさに聞かれて、とっさに答える、なぜかそういうパターンが多い。それで一方的に、しょうもない趣味だなあとか、苦笑気味にわかりましたとか言って、雑に話を切り上げられるとわりと傷つくんですけど…。なんで話振ったよって。興味ないなら興味ないでほっといてくれないかな。まあ、そうもいかないか。従業員の人間性を把握するのも仕事のうちだろうから。もうちょっと僕に積極性があったら、なんか、自分から自分の話をきっかけに雑談振ったり、場を和ませるようなこと言ったり、敵意がないです、あなたがたに興味があり、ちゃんと気にかけていますよ、そう振る舞うこともできるんだろうか、でも嘘っぱちだから無理だな、敵意あるし、興味はないし、なにがどうなってもどうでもいいと思ってるから、嘘をつけないのでそのかわり最低限、求められている仕事だけやるっていう。暗~。

休日は、最低12時間眠っている。疲れているからたくさん眠る。眠りすぎでまた疲れる。前日、帰ってきて風呂に入って、食事をとったらすぐ眠くなる。それで夜20時に寝たら、深夜0時に一度目が覚めて、それきり目が冴えてもう眠れなくなる。夜中の間、もう一度眠気が来るまで起きて活動していて、朝6時とかにまた寝る。目が覚めたら夕方18時。翌日が出勤だったら、朝6時に寝つけたその2時間後とかに起きて、這い出すように出かけていく。ようやく眠れたところですぐ起きないといけない状況では眠気のあまり、自分で自分を呪い殺したくなる。自己管理がヘタクソです。生活リズム乱れまくっている。でももうずっとこうだから、乱れていない状態のほうが逆に異常事態だと感じる。

昨日の台風は被害がなかったどころか、直撃した当日はシフト通り休みで、今日は交通網麻痺ってて事実上出勤不可能ってことで代休扱いに。でも両日とも引きこもって、ほとんど一日中寝てた。それ以外なにしてたっけ。延々動画見てた。動画見るかツイッター見るかしかしてねえ。不健全だなあ。災害となるとおかんがめたくそに元気になって、ラインからいきいきと心配のメッセージが飛んでくる。これこれこういう対策をとか、避難経路がどうとか。テンションの落差がすごい。もうめちゃくちゃダウナーになって、そうだねー怖いねーって相槌打つのもだるい。怖いどころか、地球に殺されるならそれが一番いいやと思う。だるい、どうでもいい。気分だけはむしゃくしゃして、全部なくなれ、全部死ねと思いながら、頭はよたよたふらふら。でも、ひどい目に合ってる人には、それ以上ひどい目に合ってほしくないから、ひどい目に合ってる人の世界から、ひどい目に合わせるものが薄れて全部消えて、都合よく快適な世界になったらいい、ぼんやりと思考を上書きする、でも、そんな世界は相当嘘くさい、また脊髄反射の幼児みたいな価値観で気に入らないものを消そうとする自分に嫌気が差して、僕は誰かにとっての、ていうか自分にとってまず気に入らないもの側だから、真っ先に消えるんだろうな、ひどいとかいうけど、どういう因子がどういう結果につながるかなんてわからんのだから、結果をコントロールするような考え方に支配されてるの、本当嫌だ、人間万事塞翁が馬、気に入らないとかこういうのはひどいこととか全部主観でしかなくて、じゃあそういうのを排していった世界はその主観の主以外にとっての不都合で非快適なひどい世界だよ、とかなんか、気分で出てきた言葉になんかごちゃごちゃ考え出して、うるせえめんどくせえ、なんもかんも一回全部滅びればいい、で一周回って全部死ねに戻ってくる。安全な屋内にいるから、こういうことも考えられる。安全な屋内、それがある、そこに至るまでの歴史に思いを馳せる。気が遠くなる。

なにもする気が起きない。気圧の影響かしらないがずっと気分が悪かった。頭痛とめまいと吐き気がして気持ちが悪い。寝ても寝ても眠い。ぼーっとしてなにも考えられない、なにかをしようとか、なにをしたいとかいう気持ちが薄くて、湧いても力が出ず行動に移すまでに至らない。疲れているとしか表現できない。疲労。疲れました。こういうのも、メンタルクリニックで処方される薬と、永久の自助努力で適応可能になるんだろうか、と思い、次の瞬間即座にめんどくせえに変わる。生き延びる努力をする前に生き延びる意味を考える。生きていればそれなりにおもしろおかしいことはあるのに、そのためにがんばろう、力を発揮しようという気持ちにならない。適当でいい。なんとかなるならそれでいいし、なんとかならないならそれでいい。そのくらいでちょうでいい。それでいいです。それがいい。燃え尽きるまでなにかに命をかける、命を削る、そういう体力がない。走って、歩いて、止まって、その繰り返し。ずっと走り続けるのは無理で、走れる距離は短くて、歩くのもすぐ疲れて、気づいたら止まってる時間が長い。それだけ。なんでこんなに疲れるんだ。

シロップのライブに行ってからもう一週間以上経ってる。そうか、早いなあ。ツアー自体はまだ続いてるけど、自分の中では早くも思い出になっている。思い出になってるのか?頻繁に思い出すけど、思い出すのは画像としてのイメージで、音の記憶はもうあんまりない。会場で聞くまで、あんまり印象に残ってなかった曲のメロディーと歌詞が、聞いて以来ずっとループし続けている。悲しみを追い払ったら、喜びまで消えてった、あの日から僕は全力で、走ることをやめたんです。(I'm not)by youってタイトルで、何度もこのタイトルがサビで繰り返されるんだけど、アイムノットバイユー、リンキングのせいで、アナルバイユーって言ってるようにしか聞こえなくて、絶対笑う、連呼すんな。情けなくて悲しい、ちょうどいい。

 

なんかね、自分に酔ってないと生きてられないんですかってくらい、自己憐憫がすごいよね。昔だったらこれでまた自分を殴って消耗してたんだろうな。矯正矯正で…。今はもういいや、いつものことだ、自己憐憫が平常運転っす。

自己憐憫って検索すると、どうしたらそれを克服できるかって記事が上位に出てくる。うける。パーソナリティに関するあらゆるハウツー、対処、克服法が、こういう具合に手短で簡潔にわかりやすくパッケージ化されて、まとめられているんだろうな。全部おなじになるように。全部望まれたおなじ形に収まるように。でも、こりゃ自分の手に負えないなと思ったら、どう対処すればいいのか、どう克服されてきたのか知りたくなるのは、それも道理か、とも思う。体験の中から手探りで、過去のデータベースをあたってとか、手法の差はあれ。それはいいんだけど、その方法を探る動機が、こんな風に自分や人を苦しませたり悩ませたりするようなものは良くないもので、良くないものはこの世から消えてなくなって然るべき、みたいな思考と結びついている、それがね、長く根付いてた、10代はずっとそうだった。正義。正しさを信じてる。なにか正しいものがあるとか、より善いものがとか。自分の正義になんの疑いも持っていないのは怖い。自覚したあとでさえ無意識的に同じことを繰り返し、今後もずっとしていくんだろうな。それも怖い。それで、無口で陰険に。でも、そうやって正義心に不寛容になって、正義を否定することででも、対処も克服もできなくて、期待はずれだったよね。今でも正義心強い人を見ると、反射で同族嫌悪を感じるし、自分の正義心が自分にやってきたことを思い出して、なんなら憎悪も感じる、もしくは、無邪気さへの羨ましさ、軽蔑、微笑ましさ、距離感や温度差に感じるズレ、そこからくる寂しさ、そういうのがない混ぜになったような。前はこういうグチャッとした感情に引きずられ倒してたけど、今は、わりと遠目で見てる感じ。あるよね、そういうの。あるある。アンチ自己コントロール、正義アレルギー、そういうのにまた苦しんで。あはは。まじでよく飽きずにこんなことばっか考えてるな…あーあ。要領悪いから、それに人生と頭が支配されている。スイッチ切り替えられたらいいのにね。やるべきことがあるときは、なにも考えずにそれだけに集中できるように。やるべきこと。なにもやるべきこととかないんだよな。本当になにもない。全部余生で。だから切り替える必要性にも駆られてないっていう。こういう状態にならないように、人は生きる上でやるべきことを作ろうとするのかな。やりたいこととかないの?ねえよ。ないなあ。中、長期的な目標、計画、将来設計。孝行、貢献、奉仕。夢、進学、貯金、交友、恋愛、就職、昇進、結婚、繁栄…文明や科学の発展、人類の進歩と調和…。コマーシャルの世界だ。ビジネスだね。busy-ness…。忙しくしていれば、その間は考える余裕も生まれないから、考えないためには、忙しくしているのがいい。考えすぎて憂鬱になるんだから、体を動かして忙しくしてりゃ治るって論法。反吐が出るが、一理ある。まあ、ビジネスとコマーシャルの世界はごめんだ。

 

 

台風が明けて、夕方起きて、外に出た。もう日が落ちて、空が紫と桃色で、歩いていくうちにも鮮やかさがあせて、どんどん青く暗くなった。川は増水して、流れが早かった。川に反射する灯りの光がつやつやして、なまめかしかった。橋の上で、ジャージのおじさんがスマートフォンを空に向けているのを見た。なにを撮っているのかと思って振り向いたら、気が狂いそうなくらい黄色くて巨大な満月があった。空に穴が開いてるみたいだなと思った。

はい夜ですね 台風が 来てて 今ちょうど 台風の目の中心に 入ってるのかさっきまでものすごい 雨と風の音と振動が レイジを揺らしてたんだけど りってなんだよ レイジー 家中って言ったのに 今はもうかなり落ち着いてますね鈴虫とか泣いてる この文章は Google音声認識機能を使ってスマートフォンで入力しているんですけど なんかちょっと喋るの中断すると 入力モードがオフになって 一切声が届かなくなって 声が文字として認識されなくなるので しゃべるのを止めるのに対する恐怖心がすごい煽られる なぜ音声認識機能を使って喋っているのかと言うと 別に意味はない この機能あったなって思い出したから使ってるだけ なんかいつも脳から直接 文字列を抽出してますみたいな文体で 書いてるから 多分喋っても同じような感じになるんだろうなと しゃべって書いても同じような感じに まあ似たような感じにはなったな 文章で読む時と声で聞く時って同じ内容だったとしても 例えば今ものすごいつっかえつっかえでたどたどしい喋り方ですけどでも文章だと が途切れることがないから言葉が 言葉と言葉の間が 間が空くことがないからすげー饒舌というがしゃべりスムーズに感じるんだけど実際全然肉声だとそんなことなくて 聞いていても自分がしゃべっていても もどかしい 音声入力だと 思ってもない変換になるのが結構面白かったりする でも抜けが多いから 言ってる意味わかんなくなったり前後のつながりと 意味が分かんなくなるのが困りますね でも概ね正確に出力 してくれてるので すごいですね すごい 台風 台風でもこれからまた もう1回暴風とか雨とかすごくなる のでしょうね 思ったよりなんか 停電とか そういう直接的な被害なくてただ 強い音とか震度2 終わって思ってんだけって言う 早速意味わからん変換になって面白いです 基本的に簡単 C だと 認識が 甘くなるっぽい 感嘆詞って言わない簡単 言うよね簡単し 感嘆詞 単体だと変換するのに文章の中で繋げて言うと変換しないんだ 感嘆詞感嘆詞 変換できた これすごいデジャヴがあるなと思ったらあれだわのラケットがやってました のラケット ノラキャット野良猫 vtuber すごい vtuber 変換できるんだそのまま やっぱりはーとか O とか感嘆詞だと省略されてしまうようだな めちゃくちゃ簡単 C 対応するから不便 対応対応 多様多用する そうですね 疲れるなこの入力方法 内容がない