頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

アリから見た僕のサイズってどんなふうに見えてるんだろう
微生物から見た僕のサイズは?
僕から見た象くらい大きい?
巨木くらい?
それとも高層ビル
天体?
僕からはアリがよく見えるが、アリからは巨大なものの一部としてしか、部分的にしか姿は捉えられないんじゃないか
そしてそれは僕も同じで、僕から見た別の巨大な生物に対してもそうなんじゃないか
その生物はアリから見た僕の全体像くらい部分的にしか見えない
天候や銀河や星は別の生命体の部分的に見える部位の一部でしかないのではないか
そう思うとおもしろい

自分の今いるこの環境って、宇宙規模で見たら一瞬のうちの一部でしかなくて

ちょっと産まれるのが100年遅かったら全然、今みたいな人格形成されなかったわけだし

狩猟採集の時代から国家って仕組みが確立されるにいたるまで

人類がどうやって現在の環境を構築してきたのか

いかに社会的動物として集団の統治で利益を得、効率上昇を求めてきたか

そういう流れとかを通して、現代における自分を俯瞰してみたとき

今ここにいる社会的な自分のどうでもよさっていうか

でかい流れの一部に過ぎない感じ

権利を持った人格だの、個としての人間存在みたいな、大仰な気張ったもんじゃなく

それはなんていうかもう、動物、天気、自然現象の一部じゃんねっていう

自分があくまでも一運動エネルギーの運動に過ぎない感じ 

僕、つまり、個としての人格を持った意識は

人類っていう一個のでかい生命体の活動における

おまけみたいなもんだなと思う

そういう感覚がなんかすごい救いに感じる

というようなことを歴史系の本読んでて頻繁に思うこのごろ

自分にはなにか足りていないんじゃないかとか

変わるべき、変えるべき部分があるんじゃないかという

自己批判的な目が

この頃ひどく鈍っていて、泥の中を這っているよう

自分のそういう視線によって悶え苦しみ続けてきて

そういった苦悩から脱したい、苦悩のないラクな状態を欲し続けた

でもいざそうなってみると、それはそれで欠乏感がある

自己批判的な視線は完全に消えたわけじゃなく、常に漂い続けているが

以前ほど芳烈じゃない

かすかに残り香を感じる程度で、明瞭に嗅ぎ分けられるほどはっきりとはしていない

それともこの鈍った状態も、単なるバイオリズムの巡りの一環なんだろうか

そんな気もするし、そうでないような気もする

 

自己批判的な視線の自分は、とかく向上を求める

あるいは適応を

ある環境における自分の立ち位置を最適化したがる

最適化とは

"居づらさ"をなくすこと

居づらさとは

自分がそこに居ることに違和感を持ったり持たれたりすること

僕は、どこに居ても誰といてもなにをしていても

常に居づらいと感じているが

居づらさに変化はないのに

居づらい状態から脱しなければならない、居てもいい自分で居なければならない

みたいな強い妄執が今は

ぼんやりとかすんでいて

今まで大音声で鳴っていたその音が

モスキート音くらいにまで下がってる

 

想像するに、今までの強迫観念っぷりを「病気」とすると

これが「普通」の状態なんじゃないか

なんとなく漠然と違和感はあるけど、無視できる程度の違和感

でも、僕はそれを「無視」できる、できてしまう自分に欠乏を感じるらしい

なんでやねん

自分を疑っていたいんだな

自分を正しいと信じきることに危機意識を持っている

ただ、感覚がぼんやりしていて

AならばB、みたいな筋道たった理解としてじゃなく

なんとなくこうっていう

方向性しか掴めない

でもそれはいつものことで、文章をおこすときだって

まず掴んだ方向性に従って、思い浮かんだ感覚を、それに近しい言葉に置き換えて

そうやって書いていくわけだし

はじめから筋道たった理解を思い浮かべてるわけじゃなく

書いたり喋ったりしてようやく自分でも理解できる感じ

まあそりゃそうか

そうじゃない書き方なんてあるのか

言葉にしてはじめて内側にあるものが形になる

言葉という形を与えてそれが意味するところを理解する

すげえ話が飛んでる

なんの話だっけ

疑うことか

自己懐疑は僕が後天的に手に入れたツールのうちで

もっとも自分を豊かにし、もっとも自分を苦しめた思考の手段

疑問に思うことは楽しいよ

不変でないということが嬉しい

なんで疑問に思うことと不変でないことがイコールになってんの

わからん

疑問には暫定の解を定めてみるが、でもそれはあくまでも暫定だから

情報の有無や状況の変化に応じて、いくらでも変わりうるから

そう思ったのかも

なんで変わることは嬉しいことなの

なんでだ?

自分には、自分が一貫した存在であるという不確かな、でもはっきりとしたそのような感覚があって

その感覚があるということだけは確かだけど

それもいずれ失われるし

でも失われる瞬間まで感覚はあると思う

今この瞬間にも消えるかも知れないけど

これを書いてるうちにでも

でも次の行に移れたということは

まだ感覚は消えてなくて

前の行の流れを受け継いで書いてるってことは

意識は連続してあって…

なんの話だ

それで、意識があるっていうことだけは絶対変わらないけど

意識が意識しているもの、していくものは

いくらでも変わっていくから

それが嬉しいんだが

意識だけは絶対で

それ以外は絶対じゃないっていうところに

なんか喜びを見出す

ずっと同じ状態であることを嫌うっていうなら、そこに喜ぶのをわかる気もするが

でも、ずっと同じ状態であることのほうを比較的好むよ、僕は

静かに研ぎ澄まされたところで、一人、くつろいでいたい、なんの圧力も感じたくないし、楽しく、愉快な気持ちを吸っていたい

もう頭回らん

むっちゃ眠い