頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

自分にはなにか足りていないんじゃないかとか

変わるべき、変えるべき部分があるんじゃないかという

自己批判的な目が

この頃ひどく鈍っていて、泥の中を這っているよう

自分のそういう視線によって悶え苦しみ続けてきて

そういった苦悩から脱したい、苦悩のないラクな状態を欲し続けた

でもいざそうなってみると、それはそれで欠乏感がある

自己批判的な視線は完全に消えたわけじゃなく、常に漂い続けているが

以前ほど芳烈じゃない

かすかに残り香を感じる程度で、明瞭に嗅ぎ分けられるほどはっきりとはしていない

それともこの鈍った状態も、単なるバイオリズムの巡りの一環なんだろうか

そんな気もするし、そうでないような気もする

 

自己批判的な視線の自分は、とかく向上を求める

あるいは適応を

ある環境における自分の立ち位置を最適化したがる

最適化とは

"居づらさ"をなくすこと

居づらさとは

自分がそこに居ることに違和感を持ったり持たれたりすること

僕は、どこに居ても誰といてもなにをしていても

常に居づらいと感じているが

居づらさに変化はないのに

居づらい状態から脱しなければならない、居てもいい自分で居なければならない

みたいな強い妄執が今は

ぼんやりとかすんでいて

今まで大音声で鳴っていたその音が

モスキート音くらいにまで下がってる

 

想像するに、今までの強迫観念っぷりを「病気」とすると

これが「普通」の状態なんじゃないか

なんとなく漠然と違和感はあるけど、無視できる程度の違和感

でも、僕はそれを「無視」できる、できてしまう自分に欠乏を感じるらしい

なんでやねん

自分を疑っていたいんだな

自分を正しいと信じきることに危機意識を持っている

ただ、感覚がぼんやりしていて

AならばB、みたいな筋道たった理解としてじゃなく

なんとなくこうっていう

方向性しか掴めない

でもそれはいつものことで、文章をおこすときだって

まず掴んだ方向性に従って、思い浮かんだ感覚を、それに近しい言葉に置き換えて

そうやって書いていくわけだし

はじめから筋道たった理解を思い浮かべてるわけじゃなく

書いたり喋ったりしてようやく自分でも理解できる感じ

まあそりゃそうか

そうじゃない書き方なんてあるのか

言葉にしてはじめて内側にあるものが形になる

言葉という形を与えてそれが意味するところを理解する

すげえ話が飛んでる

なんの話だっけ

疑うことか

自己懐疑は僕が後天的に手に入れたツールのうちで

もっとも自分を豊かにし、もっとも自分を苦しめた思考の手段

疑問に思うことは楽しいよ

不変でないということが嬉しい

なんで疑問に思うことと不変でないことがイコールになってんの

わからん

疑問には暫定の解を定めてみるが、でもそれはあくまでも暫定だから

情報の有無や状況の変化に応じて、いくらでも変わりうるから

そう思ったのかも

なんで変わることは嬉しいことなの

なんでだ?

自分には、自分が一貫した存在であるという不確かな、でもはっきりとしたそのような感覚があって

その感覚があるということだけは確かだけど

それもいずれ失われるし

でも失われる瞬間まで感覚はあると思う

今この瞬間にも消えるかも知れないけど

これを書いてるうちにでも

でも次の行に移れたということは

まだ感覚は消えてなくて

前の行の流れを受け継いで書いてるってことは

意識は連続してあって…

なんの話だ

それで、意識があるっていうことだけは絶対変わらないけど

意識が意識しているもの、していくものは

いくらでも変わっていくから

それが嬉しいんだが

意識だけは絶対で

それ以外は絶対じゃないっていうところに

なんか喜びを見出す

ずっと同じ状態であることを嫌うっていうなら、そこに喜ぶのをわかる気もするが

でも、ずっと同じ状態であることのほうを比較的好むよ、僕は

静かに研ぎ澄まされたところで、一人、くつろいでいたい、なんの圧力も感じたくないし、楽しく、愉快な気持ちを吸っていたい

もう頭回らん

むっちゃ眠い