頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

あちい。

今年はめずらしく涼しい日が毎日続いて、雨もたくさん降った。

朝の6時で、窓を開けている。

蒸し暑い。

怒った猫の声がする。

キーボードを叩く音と雀の声。

この街に越してから3年経って、3回目の夏で、なんか早すぎる。

去年の夏は引きこもってた、おととしは朦朧としてた。今年も朦朧としてる。僕には朦朧としていない瞬間なんかないんではないか。生まれてこの方朦朧とし続けている。

6月楽しみにしていた催しが終わって、もうなんもやることないと思ってたら、10月にまた楽しみができたので、それまでなんとかという感じ。

月に約9万。家賃が約5万。交通費、食費、光熱費がそれぞれ約1万。

なにも思い入れがない。なにも大事じゃない。なにも嬉しくない。なにも要らない。

繰り返すだけ。

朦朧と漫然と一瞬一瞬を切り抜け続ける、それを繰り返すだけ。

人生に対する興味がない。

繰り返すだけ。

思い残すこともやり残したこともない。

いつ死ぬんだろう。

どうせ死ぬなら全部ぶっ壊して死にたい。

自分の全部ぶっ壊したい。自分の中の当たり前、自分の中の堅牢な動かない部分。

ムカつく。

やることを作って、人生に目標を、タスクとノルマをコツコツ、そういうの。多分そういうのがないと正気を保てないんじゃないだろうか。生活習慣とライフワークが正気を担保する。

昔撮った写真を整理していたらまだ犬が生きていた頃の写真があった。母や弟の写った写真や、友達の写った写真。でもここに写ってるのはもう全部今はいない人の写真だと思った。写真の中で時間は止まっているから。記録は現在を記録することはできなくて、記録した瞬間過去になって、今は永遠に今の中にしかない。過去を今にし続けられるのが記録で、記録を見るとき過去は今になって……。時間は水で、記録は氷、解凍して、過去を浴びる……。

浅いところをふらふら。

働きたくないな。

働きたくない。

働きたくないなぁ。

笑いたくない、気を遣われたくない、怒られたくない、怒られるところを見たくない、忙しいのは嫌い。

時間の流れがもっとゆっくりした場所へ行きたい。説教や詮索や教育のない場所へ。

もっと適当でもっと大雑把でもっと大らかでなににも追い詰められていない場所に行きたい。誰も。誰もなににも追い詰められていない場所に行きたい。誰もなにも必要としていないところ。

一人になりたい。

永遠に一人で居たい。

なにも成し遂げていないしなにも見えていないのになにかをわかった気になって終わったことのように感じているのが滑稽だ

認識の檻の中で人間は本質的に孤独で、すでに十分そうなのに?

憂鬱を結晶にして味わうことを繰り返すから憂鬱中毒になる

呑気

 

さっき見た一枚の写真をずっと探しているのに見つからない。どこへ行ったんだろう?

精神的な麻薬について書かれた本の一ページ。思考に打つ文化的な麻酔。酔うことは楽しみになる。酔うことは気分がいい。酔うことは苦痛を忘れさせる。忘れた。でもそんなことは書かれていなかったと思う。なんて書いてあったんだっけ?

シラフの人間などいないのでは?

朝で、蝉が鳴いてる。

バイトは不定休、週3日休み取るようにしてから、前みたいに急に無理がたたって全部のルーティンが崩れるってことがなくなった、今のところ。

休みに入るとすぐに生活リズムが狂って、よふかしからの朝寝昼起きになる。

仕事のある日は朝起きて出勤して夕方帰ってきてすぐ寝て、夜中に一度起きて食事してもう一度寝直してまた朝起きるというパターン。

僕は相変わらず鈍臭いし気が回らない。人から向けられる「こいつアレだな」という視線を敏感に察してヤベッと思う瞬間を何回も積み重ねてはどうすればそれを取り繕えるかに執心するのも変わらない。ヤバい空気察~知する能力オ~ンリーで~生き延び~た~。

全然取り繕えてないすけど。

職場には最近新しく人員が増えた。

新しく入ってきた人と客の対応がない二人きりで作業する機会があって久々に長い雑談をした。地雷原を歩いてるような感覚。なんという緊張感。そして地雷が埋まっているのは自分の頭の中だ。ウヒャヒャ。自分不真面目でだらしない人間なんですよおっていう情報を織り交ぜないと自己開示できない。なんの予防線なんだ。明かす情報全部が卑屈を帯びている。だから自分のこと喋るの嫌なんだ。口を開けば劣等感が見え隠れする。自意識過剰感にとらわれている自分を意識しながら喋るのも嫌だ。意識が自分にしか向いてないのが嫌。

基本的に話をする時は相手のことをもっと知りたいと思っているが踏み込もうと思うと自動でセーブがかかる、自分がいかに迂闊なのかを知っていて、迂闊さを恐れてるから。僕の一挙手一投足は常に顰蹙を買う対象だという感覚が染み付いていて、実際にそうだと思う。それで、どういう言動が顰蹙を買わない行動なのかを見て真似て、演じるが、ぎこちないし息苦しい。顰蹙を買うかどうか常時気にしながら行動してるわけだから、そりゃそうだろ、と思う。僕の行動は恐怖に支配されていて、僕は恐怖から解放されたいが、なぜ解放されないのかというと恐怖から解放された自分もまた恐れているからで、何重にも恐怖が。だもんで常に自分の緊張した神経に注意が払われており、そこ以外に向けたい視線が塞がれるのが不快だ。それ塞ぐのヤダからやめていこうねというモノローグを延々繰り返してるんだけど、やめたいけどやめられないんだから、じゃあどうすればいい塩梅のとこに落ち着くんだろうねっていう。ここにシフトするのにえらい時間かかってんな。やる必要があると思ってるからやってるんで、必要があると思い続けてる限りはやり続けてるだろう。必要があると思っているところ無理矢理やめさせようとするのは横暴だし、逆効果だし、目的は達されない。

顰蹙買うのを恐れるというが、だいたい実際に頭がおかしいのに「あいつは頭がおかしい」みたいに言われることにビビったり、必死で頭がおかしくないふりをし続けるのはどうなんだ。ていうかふりはふりだから完全に頭おかしくない人になることはできないし、開き直っておっしゃる通り僕は頭おかしいですと言って回ったほうがマシ。いや既にそれに近いことはやってる自覚ありますけど…ていうかそれが本来やりたいことなんだし。でもまあ頭おかしい部分以外にも比較的物分りいい部分もあって、そこは比率の問題なんで…。それで自分の中の感覚を頭おかしい部分とそうでもない部分で切り分けて前者を隠し通そうとするの?でもこの切り分けが全然うまくいかないのでなにがあたおかでなにがあたおかじゃないのかが判断できないんすよ。正常な判断ができない。正常な判断ってなんだ?正常と異常の境目ってどこ?とか一生考えてるからラチあかん。だいたい「頭おかしい」とかそれがもう。比較でしかないし。アイツと比べたらコイツは頭おかしい、みたいな話になってくる。僕を誰かと比べたら誰かほど僕は頭おかしくなくなるんだろうし、また別の誰かと比べたらそいつよりは僕の頭はおかしい、そういう話で、本当にどうでもいいな…。でもどうでもいいと思い切れないからぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ延々考えてるんだろう。思い切りてえー。

環境を構成するしきたりや規則にそむいた価値観とその行動を指して頭おかしいと言うんだったら、その環境における常識に反するすべては頭おかしいのくくりに入る。常識は環境によって違うし、そもそも個人単位で異なる。頭おかしいとか言ってひそひそやるのは異文化理解を根本から拒絶する態度で、僕は理解を拒まれたくないと思うから、ひそひそ言われるようなことはやるまいと思い、でも同質にはなれず、いやなりたいとも思ってなくて、そうやって僕自身異文化理解を拒んでるし。なんで同化=異文化理解だと思ってるのか謎だし。くしくし。へけっ

また同じことぐるぐる書き続けるモード入ってる。もう既にどこかで吐き出した内容をなぞることほどつまらん話はない。なんのために出すかつったらもちろん感情の痰壺的な役割もあるけどそれ以上に情報の整理や状況把握の道具も兼ねてるわけです。あんまそれが機能したことないけど。痰壺としての役割に重きをおいて吐き出された文章はマジでうんこじゃんと思うがそこに含まれた要素を分析したり解体することで得られるデータもあるんだよ!つまらん言うけどデータ云々とかの前に結構僕は感情的になってるときの自分を眺めるのを面白く思っているので別にそこに文句はない。うんこはうんこだけどなんでうんこのことをそこまで嫌うんだ?

だって汚いから…。

僕は汚いと感じる感覚こそが汚いと思う。でもなぜ汚いものを嫌うんだろう。

伝染される感じするからじゃないか、病気を。

感情は病気?

病気病気。

 

どうも現状感じている問題に対して根気強くアプローチすることよりも、現状含めたすべてを無に帰したくなる衝動に駆られる習性があり、従って極端な思想を持ちがち。

問題が起きたら、なぜそれを問題だと感じるんだろう、つって、問題だと感じる感性に対してメスを入れはじめる。それを問題だと感じる感性が求めていることはなんなんだろう。求めているもの、満足は、ひとつの問題が解決されれば満ちるものなんだろうか。生きている限り問題は絶えず起き続け、生きている限りずっとその満たされなさ、渇きに飢え続ける。途方もない話だ、と思って、渇きが起きる感覚自体に、変化を期待する。渇きの感覚自体がなくなることを。なんでやねん。喉渇いてるから水飲みてーっつってんのに。身体の機能なんで。身体をなくせば喉の渇きが満たされますよとか言われてもね。心頭滅却?水だよ欲してるのは。でもそうだなぁと思う。身体がなかったら渇きもないよなぁと思う。水がない状態で渇きにうんざりしてくると、じゃあ身体なくすかぁみたいに思う。いや水を飲め。また希死念慮の話してる。なんかナチュラルに死にたいから諦めの早さオイと思う。手を尽くしてから死んでも遅くないじゃんね。手を尽くすって?どこが渇いていて、なにが僕にとっての水なんだ?そして思いを馳せてみると、人格から生活から限りなく認識全域が砂漠の様相を呈するので、思考停止して匙投げる。投げるな投げるな。

 

感覚が泥のようになっているときほど、高く開けた視界の中に空の色味が飛び込んできたり、木や葉や、濃い影の輪郭だの、花の形だのをじっと見ていると、脳内麻薬がドバドバ出て、これのために生きてたんだあと思う、他はなにもいらないし、すべてが些事に感じられ、些事なんで匙投げちゃう。