頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

ねじまき鳥クロニクル

 

「ねえ、ねじまき鳥さん、あなたがあそこの井戸の底にいるあいだ、私はだいたいここに寝ころんで日光浴をしていたのよ。ここから空き家の庭を見ながら、体を焼いて、井戸の底にいるあなたのことを考えていたの。あそこにねじまき鳥さんがいるんだって。あの深い暗闇の中であなたがお腹をすかせて、ちょっとずつちょっとずつ死に向かって近づいているんだって。あなたはあそこから出られない、あなたがあそこにいることは私しか知らない。そう思うと、私はあなたの苦痛やら不安やら恐怖やらをものすごくありありと感じていることができたの。ねえ、わかるかな? そうすることによって、私はねじまき鳥さんという人間にものすごく近くまで近づけたような気がしたのよ。本当に殺しちゃうつもりはなかったのよ。本当よ、これは。でもね、ねじまき鳥さん、私はもっと先まで行くつもりだった。 ぎりぎりのところまで。あなたがぐらぐらして、怖くて怖くてしかたない、これ以上は我慢できないくらいになるまで。その方が私にとっても、あなたにとっても、いいことだと思ったの」

 

「ねえ、ねじまき鳥さん、私は自分が汚されているとかそういう風には感じないわよ。私はただなんとかそのぐしゃぐしゃに近づきたかっただけなの。私は自分の中にあるそのぐしゃぐしゃをうまくおびきだしてひきずりだして潰してしまいたかったの。そしてそれをおびきだすためには、本当にぎりぎりのところまで行く必要があるのよ。そうしないことには、そいつをうまくひっぱりだすことができないの。おいしい餌を与えなくちゃならないの」、彼女はそう言ってゆっくり首を振った。「私は汚されてはいないと思う。でも救われてもいない。今のところ誰にも私を救うことはできない。ねえねじまき鳥さん、私には世界がみんな空っぽに見えるの。私のまわりにある何もかもがインチキみたいに見えるの。インチキじゃないのは私の中にあるそのぐしゃぐしゃだけなの」

 

さて私は思うのですが、世の中の人々の多くは人生とか世界というのは、多少の例外はあるものの、基本的にシュビ一貫した場所であると(あるいはそうあるべきだと)考えて生きているのではないでしょうか。まわりの人たちと話をしていて、よくそう思わされるときがあります。なにかが起こると、それが社会的なことであっても個人的なことであっても、人はよく「つまりそれは、あれがこうだから、そうなったんだ」というようなことを口にして、 多くのばあいみんなも「ああそうか、なるほど」となっとくしてしまうわけだけれど、でも私にはそれがもうひとつよくわからないのです。「あれがこうだ」「だからそうなった」というのは、ちょうど電子レンジに「茶碗むしのもと」を入れてスイッチを押して、チンと鳴ってふたをあけたら茶碗むしができていたというのと同じで、ぜんぜんなんの説明にもなっていないんじゃないかしら。つまりそのスイッチとチンとのあいだに実際になにが起こっているのか、ふたを閉めちゃったらまったくわからないんだものね。「茶碗むしのもと」はみんなの知らないあいだに暗闇の中で一回マカロニ・グラタンに変身して、それからまたくるっと茶碗むしに戻っているのかもしれないじゃない。私たちは「茶碗むしのもと」を電子レンジに入れてチンしたから当然結果的に茶碗むしができたって思っている。だけどそれはただのスイソクに過ぎないと私は思う。私はむしろ、「茶碗むしのもと」を入れてチンしてふたを開けたらたまにマカロニ・グラタンが出てくる、なんていう方がほっとしちゃうのね。そりゃまあもちろんびっくりはするだろうけどね、でもやっぱりちょっとはほっとするんじゃないかな。少なくともそんなに混乱はしないと思う。 だってそのほうが私には、ある意味ではよほど「現実的」なことのように感じられるから。

「それがどうして現実的なのか」というのを筋道だてて言葉で説明しようとするとすごくむずかしいのだけど、たとえばこれまで自分のたどってきた道筋みたいなのを実例としてつくづく考えてみると、そこに「一貫性」なんてものがほとんどないってことはよくわかると思うの。まずどうして私があの雨蛙みたいに退屈な夫婦の娘として生まれたかというのが謎です。ひとつの大きな謎です。何故なら自分でいうのも何だけれど、私はあの夫婦を二人あわせたよりもまだまともだからです。エバッテいるんじゃなくて、これはじつに本当の事実なのです。両親より私の方が立派だとはいわないけど、少なくとも人間としてはまともです。ねじまき鳥さんだってあの二人に会えばきっとわかると思う。あのヒトたちは世界というのは高級建て売り住宅の間取りみたいにシュビ一貫して説明がつくと信じています。だからシュビ一貫したやり方でやっていけば、すべては最後にはうまくいくと思っているのです。そして私がそうしないことに混乱したり、悲しんだり、腹を立てたりするのです。

どうしてそんなとんまの両親の子供として私はこの世に生まれてきたのだろう、どうして私はそのヒトたちに育てられながら、同じようなとんまな雨蛙の娘にならなかったのだろう? 私はずっと大昔からそれについてずいぶん考えてきました。けれどうまく説明できません。何かちゃんとした理由があるような気もするのですが、私には思いつけないのです。そういう筋道の通らないことがほかにもけっこうたくさんあります。たとえば「どうしてまわりのみんなは私のことをそんなに毛嫌いするようになったのか?」とかね。私はとくに何かまずいことをしたわけでもない。私はごく普通に生きていたのです。なのにある日ふと気づくと、私は誰にもすかれていなかった。それは私には本当によく理解できないことだったの。

そしてミャクラクを欠いたことが別の非ミャクラクを導いて、それでいろんなことが起こってしまったように私には思えます。 たとえばそのバイクの男の子と知り合って、ろくでもない事故をおこしちゃったりとかね。私の記憶の中で、というか私の頭の中の順序として、「これがこうだから、こうなって」というのがそこにはないのね。チンしてふたを開けるたびに、自分でもまったく見覚えのないものがぽっと出てくるみたいなの。 

それとも世の中には何種類かの人間がいて、ある人にとっては人生や世界は茶碗むし的に一貫したものであって、またべつの人にとってはそれはマカロニ・グラタン的に行きあたりばったりのものなのでしょうか。私にはよくわからない。でも私は想像するのだけれど、私の雨蛙みたいな両親は、もし「茶碗むしのもと」を入れてチンしてマカロニ・グラタンが出てきたとしても、たぶん「自分はきっとまちがえてマカロニ・グラタンのもとを入れたんだな」と自分に言いきかせたりするんじゃないかな。あるいはマカロニ・グラタンを手に取って、「いやいや、これは一見マカロニ・グラタンに見えるけれど実は茶碗むしだ」と一生けんめい言いきかせたりするかもしれない。そしてそういう人は私がもし「茶碗むしのもとを入れてチンして、それがマカロニ・グラタンに変わることもたまにはあるのよね」と親切に説明してあげても絶対に信じないだろうし、逆にかんかんに怒ったりもするんだと思う。ねじまき鳥さんはそういうのってわかりますか?