頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

多分僕は親切な人間になりたいんだと思う。

自然な手助け。困っている人を手伝ったり声をかけたりすることが当たり前にできるような。それはやりたくてやっているのだから、当然相手になんの見返りも期待しない。自分の期待、相手の問題が解決されるという結果が得られなくても、それはあくまで自分の勝手な期待なのだから、拒まれたり非難されたりしても、失望も逆恨みもない。相手の意向を無視して押し売りするような形でも、独善的でもない、単に不足を補うだけの、淡泊なほどに自然な関わり。

僕は自分が僕の思い描くような親切な人間ではないから、いつも自分に怒っているんだろうか。だから自分の期待からはずれた、似たような親切でない人物に対して、同じように怒りを感じるんだろうか。嘘でもいいからあの人やあの人のように、親切に振る舞うことができたら、自分に対する失望もなくなるんだろうか。

独善でも押し売りでもない親切ってなんなんだろうか。『粘着でも不精でもない愛』…。

困っている人。ハンデを負った人間。そこに向ける視線。「親切な人間でありたい」という動機から人に対して優しく振る舞うことは、それがすでに独善だと思うけど。でも、骨折をした不便を補う手助けをすることと、骨折したから優しく振る舞うこととは、全然違っている。行為は同じでも、後者はエゴを満たすことを目的にしてる。あくまで前者、自分の満足じゃなく、相手の満足を目的にした行為が、偽善と親切の分かれ目なんじゃないのか。相手が満足を得ることに自分が満足を感じるんだから、やっぱりそれだってエゴの一種ではあるんだろうけど。それで言うと、鬱になったと申告しはじめてから突然友人に対して気を揉みだすのは、お手本みたいな偽善で、笑ってしまう。僕は、あの人達に対して、自分がちっとも「友人」らしくなかったと思うから、罪悪感もある。どこかへ出かけて遊んだり、自分の手の内を明かしたり、雑談を楽しんだりするのは、僕にはものすごい高負荷で。それでも一度流れに身を任せてしまえば、時々はそれだって楽しむこともできた。でも、何年経過しても、自分からそれを求めるという気持ちにはなれなかったし、今になってもそういう気持ちは沸かない。僕はいつも受け身で、ただ同じ時間を共有しただけ。お互いに縁を切ることがなかったから、その間つながっていただけ。眼中にないというほど無関心でもなく、でも自発的に干渉もしない。なぜなら、人との関わりを楽しむより前に緊張が走るから。僕は全然およそ友人らしくない。向こうがどう思ってるのかは知らないけど。

親切。僕の中で一番問題にしているのが、あくまでも相手の不快感を減らすというところにあって、だから僕の中でのもっとも最適化された親切心は、自分が関わった結果相手にもたらすかもしれない不快感を減らすこと。最初から関わりを持たないこと。最初から自分がそこにいさえしなければ、自分がそこにいる結果生んだかもしれない不幸を回避できる、という論法。それが、人に対して与えられる自分なりの最大のサービス、最大の善意だと本気で思ってるから、息を潜め逃げ隠れするし、簡単に自死を願える。自分を殺そうとしたり、息を潜め逃げ隠れすることが善意?どこが?どこがどうしてこうなった。減点方式の世界観で生きていて、自分がなんかするごとに、人に不快感をもたらすと思ってる。そうかもね。でもそれだってたかが知れてるじゃないか。だいたい自分がやってることで人に不快感をもたらすとしたら、逃げ隠れすることを真っ先に不快に感じるだろうね。こういううじうじした性格にも不快感を催すだろうな。僕に不快感を感じるであろうタイプの人の生きる世界、価値観、そのシルエット、すべて簡単に想像できる。タイプを想像?こんなものは誰だって見たり聞いたりすれば大なり小なり不愉快になる。石の裏に張り付いた有象無象の虫。僕は自分が人の不快を催すものだけで構成されている人間だと思う。だからなんだよ。だったらなんなんだよ!堂々としてればいい。所詮私は人に不快感を及ぼすしか能のない存在ですと胸を張ってればいいんだ。卑屈になられると余計不愉快だよ。そして僕自身は石の裏の虫や人のうじうじした側面を見ているのがすごく好きだから、「誰だって不快になる」というのは言い過ぎだと思う…。それは「不快感」が癖になるから好きなんであって、不快だってことに変わりはないでしょ。ああ、はい、そうなのかな。そんなに人が不快に思うかどうかって重要なのかね。重要じゃないの?だいたいそんなおおごとに捉えられるほど、人に及ぼす影響力を自分は持っていると思い込んでるの、すごい自己評価高いと思うんだよな。どうしてそんなに自分に影響力があると思えるんだよ。たかが知れてる、それは本当にそうだよ。たいした人間じゃないのに、そうやって卑屈でいられるのは自己評価が高いからだ、自分のことをたいした人間だと思ってるから…。人はそう簡単に影響を及ぼされたりはしない。そうかな…。僕は自分が影響を受けやすい性質だと感じるから人もまた同じだと誤解する?自信がないことに関して自信があるから卑屈でいられる。なんでそんなに自分を高く評価するんだ。自分をよく知っていればそんな風には解釈しないはずだ。つまり僕は自分のことをわかっていないしよく知らない……。そりゃそうだ、こうやって受け売りの思想を切って貼ってしただけのワードサラダで遊んでるんじゃね。自分の考えじゃない。どこかで入手した道具を自分で試し切りしてるだけ。自傷行為

 

 

人と同じ空間にいるときに感じている感覚を、誘拐犯と同居している気持ち、と例えているツイートを観測した。

『何をするにも気を使って、ニコニコして、好きに発言はできなくて、怒らせないように顔色を伺ってしまいます』。

それに共感を示す別の人のツイート。他人の気持ち、状況、文脈を推し量る能力が自分にはない、だからこそ攻撃、怒られから身を守ろうとして、結果鎧のように笑顔を貼り付け過剰に謙遜して振る舞う。『わたしは基本的に他人が怖い』。

 

今働いている職場には事務所があって、職員は日中ずっとそこにいる。電話対応をしたり事務作業をしたり食事をとったり。10前後ある机はそれぞれが、長く努めている職員専用の席になっていて、僕はそのときどきで空いている席を借りて食事をする。かかってきた電話には、事務所に誰もいなければ、自分が出て対応するように指示されている。相手の名前と電話番号、要件を控えて職員の誰かに引き継ぐ。そういう指示を受け、一年近く在籍しているのにも関わらず、僕はまだ電話対応をしたことがない。事務所には対応できる人が数人駐在していて、ほとんど無人になることはないから、自分が出なくても大きな支障はないとか。僕は業務全体の流れをぼんやりとしか把握していなく、細かな作業の内訳を全然把握していないので、専門用語や言ってることの意味が理解できていない。今話している仕事の内容が、全体の流れのどの部分に当たるのか、そもそも全体がどういう流れになっているのか、わかっていない。こういう認識の人間が対応することで、余計現場を混乱させるんじゃないかとか。このように脳内で勝手に理屈づけて、電話対応に消極的な自分を正当化しようとしているけど、そうやって考えたもっともらしい言い訳も、述べることすらしない。傍から見たら単なる怠慢で、業務放棄してるようにしか映らないだろうから、印象最悪だな、と考える。「適材適所だからね」。あれは僕のことを僕に向けて言った言葉だったんだろうか、えらいひとが誰に言うともなく空中に放った言葉を思い出す。それを免罪符にしているのか。

見てわかれ、わからないことは聞け、やる前から失敗を恐れるな、自分で考えろ、考えてわからないなら教えを請え、とにかくやろうという姿勢は最低限持て、主体性を持って自分で動け、逃げるな。

そういう声を頭の中で聞く。

体は萎縮している。

なにをどこからどう聞き出せばいいのかがまずわからないので、なにをどこからどう聞いたらいいのか手をこまねいているうちに、質問の機会を逃し続ける。

言い訳はいいから体を動かせ。やることをやれ。

主体性を持って動いた結果失敗したり、よかれと思ってやった行為がかえって周囲の手間を増やしたり、邪魔になったりする。そういう経験を踏まえて、人の迷惑になるようなことはするな、迷惑をかけるな、言われたことだけをやっていればいい、余計なことはするな、という命令も、頭の中で同時に生み出されている。

この二つは葛藤している。

そして実際、言われたことだけやっているのが一番効率がいい。言われたこと以外をやるのは怖い。

主体性を持つとか、自分で考えて動くっていうのは、具体的にどういうことなんだろうか。ある問題に対して不足してるもの、求められている解決方法がなんなのかを瞬時に判断して、穴を埋めることができる能力のことだろうか。「察しのよさ」。それはどうしたら身につくものなんだろうか。仮に察せたとしても、萎縮して体を動かせないのであれば、実行に移しようがない。なんでこんなに萎縮しているんだろうか。どうしたら萎縮しなくてすむようになるんだろうか。そもそも萎縮してしまうような場所にいる必要性をなくせばいいんじゃないんだろうか。

……。

事務所にいるのは昼休憩のときだけで、それ以外の時間は事務所の外にいられる。清掃と、簡単な店番をやっている。そうしている間は、ほとんど一人で過ごせるから、気が楽だ。

 

どうして同じ空間に人がいると萎縮してしまうんだろうか。相手が家族でも友人でも、程度の大小はあれ緊張を感じる。どうすればそうならなくなるんだろう。でも、それはあって当たり前の、普通の状態なんじゃないんですか。それをなくしてしまえるなどと考えるのは、心肺機能停止した状態で呼吸をしたいと願うようなことなんじゃないですか。僕は、この緊張感がなくなると、自分はすごくひどい振る舞いをして全部台無しにしてしまうと感じるから、緊張感は「ひどい自分」を抑制する働きを担っていると思う。ただその程度がちょっと病的なだけで。緊張したり萎縮したりしていれば、意志のない受動的な人間にはなるけど、少なくとも積極的に「自分の言動」で周囲をめちゃくちゃにしたりはしない。緊張のかせがなくなったら、能動的になれるかわりに「自分の言動」で全部台無しにしてしまうリスクも負うことになる、それが怖い。台無しにするとか、ひどいこととか、めちゃくちゃにするって、具体的に何を指して言っているんだ。世の中やすべての存在に対して満遍なく感じている悪意や嫌悪や、否定的で攻撃的な感情、暴力性を発露してしまうことへの恐れ。でもそれと対になるような感情も持ってるんでしょ。うん、でも世界やすべての存在に対する好意的な感情だって、それ自体が暴力性を帯びている。どうして好意を向けたり向けられたりすることが暴力的でないと言える?だいたい、肯定的な側面があるからといって否定的な暴力性が消えるわけじゃない、表面上隠されているだけで…。いや、それはみんなそうだよ。みんなそうだから何?自分だけ特別苦しんでるわけじゃない。十分知っている、だからそれがなんなんだよ?そんなことでいちいち苦しんでいるのは時間の無駄だよ。じゃああなたは無駄を切り捨てて合理的効率的に過ごしていけばいいんだ、あれこれ思い悩むのは時間の無駄で、悩んでる人間に関わるのも時間の無駄なら、あなたは今まさに時間を無駄にしているというわけだ、僕はあなたのように割り切れないから、こうして無駄に過ごしているんだし、割り切れていたら最初から悩んでいない。ぐちゃぐちゃうるせえな。そうやって卑屈を正当化してるのが望みなの?いいえ。

 

今日読んだ漫画に、こういうような一節があった。自分は、人に何も与えることができないかわりに、人から何かを与えられることも求めない。しかしここに来て、ツケが回ってきた。他人から離れ、一人で全部解決して楽をしようという今までの生き方が、今自分を悪い状況に陥らせている。……