頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

ブログ開設してから1年経過した。

はてなブログは概要の詳細ページを開くと、こよみモードという画面に切り替えることができる。一年前のその月に書いた記事を、さかのぼって表示してくれる機能がついていて、それで、ブログをはじめて一番最初に書いた記事を読み返していた。これね

脳から直接転写したみたいなお喋り。お得意の雑なやつ。まあそれでいい。目的は中身を開陳することだから。なにも見えないなにも言えない、精神性の聾唖状態から脱したい。そのために書くという行為の薬効を頼ってる。でも書くことのハードルを上げると書くこと自体がおっくうになる。おっくうになるとすぐに放り投げる。体裁を保って、目的を意識してそれに忠実に、独り善がりにならないように、誰が読んでも伝わるように、論理が文体が構成が推敲がセンスが思考回路が価値観が…もっとああで、もっとこうでと欲張りだすと、そういう望み一つ一つに一回一回こけて、勝手に責任感じて勝手に緊張して勝手に怯えて勝手に嫌になり、まばたきの一瞬で一連のそれが感情全体に感染する。そして全身は諦めに支配され身動きが取れなくなる。自分にたくさんの期待と制約を課して、それを叶えず守れないと自分を嫌い責める。うん…。僕は自分のそういう性質を嫌というほど知っている。だから期待値は下げるに限る。

この最初の記事で僕はこういうようなことを言っていた。

自分がなにを考えたり感じたりしているのか、ものを書くことによって確認したい。ところが、どうしても表現が抽象的になってしまい、もっと具体例に沿って語りたいのに、具体的な話ができない。けれども、もし具体的に語れるようになったらなったで、次はもっとこう、そこはもっとああだと、またできないこと探しをはじめて、自分を責めだすに違いないだろう。

まさにそうだね、今でも同じだ。なにかものを書くのは自分を確認していたいからだし、具体的な話をするのは苦手だし、表現が抽象的になってしまうのもコンプレックスだし、できないこと探しをしては自罰的になるのも相変わらず。

自罰。僕には自罰癖があって、なにかと言うと、自分の一挙手一投足につっかかっている。それは変だ、おかしい、ひどい過ちだ、間違った考え方だと言って、鬼の首を取ったように嬉々として自分に罵詈雑言を投げつける。正そう、矯正しようとして、罰を与えたがる。こうであるほうが望ましい、こうであるべきだという信念。信念は善意や正義に通じている。僕の中に生じた「それができるようになりたい」という些細な願いは、即座に「それができない自分などみっともないゴミだ」という道徳心の凶弾に倒れる。一事が万事その調子で。まあ今は昔よりましだけど…。

とにかく僕は自分のこの習性と、この習性のために身動きがとれなくなる自分自身を嫌った…それで一計を案じた。これをしたい、そうありたい、あれが欲しいこれが欲しい…そういった、願望という願望を捨て去ってしまえば、自分から責められることもなくなるのではないか。なにも願いさえしなければ、「願いが叶わない」という状態も生まれない。したがって「願いを叶えることのない自分」を責めることもない…。苦悩を消し去りたい。煩悩があるから苦悩が生まれる。苦悩を消し去りたいのなら、煩悩を滅すればいい。という発想。で…今度は、煩悩を滅したいという煩悩に取り憑かれはじめる。「なにも願いたくない」というもうそれ自体が一つの願いになっているから。そして、その「なにも願わないこと」を願っている自分の声を聞く。曰く。苦しみたくないと言いながら苦しんでいるのはおかしい。なぜなら、苦しまずにすむ方法は現実に存在しているから。期待するから裏切られたと感じる。苦しみたくないのなら、はじめからなにも期待せず、なにも望まなければいい。自分が勝手に期待して勝手に裏切られているだけなのに、自分以外のなにかを怒ったりひがんだり恨んだりするのは筋違い。すべては自分の意志と自分の気分が招いた結果。自分がなににも期待しなければいいだけの話。苦しみたくないならすべてを手放せばいい。

僕は、この発明をすぐに気に入った。なににも期待しない。すべてを手放す。それでずっと、その考えを根本に据えていた。これがアパシーを誘発し続けた。

いずれにせよ、自分を認めたがらなかった。自分を認めないこと。これが、自分の認識にまつわるあらゆる感覚を狂わせている元凶だと思う。そしていい加減学んだ。意識の上で認めまいが否定しようが、そこにあるものはある。いくら「ない」と言い張っても、無視しても、殺し続けても、あるものはある。消えずにあり続ける。期待も、それに伴う失望も怒りも悲しみもなんもかも。かえって見ないふりをすればするほど、感情は無意識の影の内側で、より強力に存在感を増す。本当に手放すために必要なのは、なにを手放さんとしているかのを見ることにある。なにも見えていない状態では、手放すものも手放せない。執着。執着を手放したい。自家中毒から脱したい。そのために言葉が必要だった。なにを手放したがっているのかを見るためには。まず認める以外にない。認める、それは、全受容とか全肯定とか、そういうこととは違う。そうじゃなくて、ただそこにそれがあるということを確認する。確かに認めること。存在そのものの存在に気づく。そこにそれがあるとわかっていること。これだよ。それでようやくスタート地点。

問題はでも、存在を認めたその先にある。認めたくない、否定したい対象とどう付き合っていくかという。僕は、見たくない聞きたくない関わりたくない、それについてなにも言いたくないと、そういう状態を自分に許し続けた。語る言葉を持たない。なにも語れない、なにも言うことがない…。それは当然だ。自分の一部を殺すことに慣れて、見たり聞いたりすることを避けているから。

それで僕は、認めたくない、否定したいものとの付き合い方が、関わらない、なかったことにする、逃げる、見ないふりをする…と回避一辺倒で、白紙状態なんだ、という自覚を経て、今に至る。はい。すぐ臭いものに蓋しようとするし、逃げ出したくなる。僕の意識は、見たくない部分に対して、それを都合よく見ないでいるようにできる。無視。それを僕は嫌だと思う。すごく嫌だと思う。どうしてだろうか。自分の意識や行動に対して、自覚的になっていたいと思うから。なぜ自分はこう動いたのか、なぜそう考えたのか、それを理解していたい。逃げるにしても、なぜ逃げようと思ったのかとか。なぜ無視したのか自分でわかっていたい。わけがわからないままなのは不安だ。僕は不安に気分を支配されやすい。不安に支配された状態は不自由だ。不自由な状態は望んでない。せめて心の中でだけは自由でありたい。欺瞞なく自分の状態を自覚したり言葉にしたりすること。それを一番強く望んでいる。でも欺瞞だらけだから。自分の欺瞞を暴きたいんだと思う。

べつにオチとかはないけど。生きてる間は気が済むまで自分を暴くのをやり続けていると思う。