頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

気分が悪い。

 

駅の階段を降りていたら、階下から蝶が一羽のぼってきた、背が黒く、その反対が暗い橙色の羽。

 

妙齢の女性に相づちを打つ。そうなんですね、うんうん、ああ、そうなんですか、などの鳴き声の、調律を巧みに操作して演奏するように声を弾く。僕に意味はわからない。内容が一ミリも頭に入ってこない。ぼんやりしている。全身に膜ができる。つついて破れたら膿んだ血と糞と吐瀉がはじけ出る膜。笑っている。婦人は上品な仕草でゆっくりと絶えることなく喋る、語り、伝えたいことを言葉にする。相づちの合間に、それは素敵なことですね、これってこういうことですよね、解釈と感想を挟んでみる、一瞬困ったように眉をハの字にして微笑し、話の続きをはじめる。どういう意味だろう。答え合わせの機会は失われる。膜の弾力が強まる。顔の筋肉は不気味な形を作って力む。その醜悪さと不愉快な感覚を遠くのほうで感じている。喋っている僕は考えている僕と関係なく動き、喋る。感じている僕はいつも遠くのほうにいる。書いている僕はそれらを統合してみようと試みる。身体の僕はうまくやっているとおもう、頭の僕の倫理にもとる恥部をうまく隠しているとおもう。喋っている僕は身体と頭の間で翻弄されているとおもう、両者がうまく結びつかなくてたえず混乱しているとおもう。書いている僕はそれぞれの部位がこのように感じているだろうという感覚を想像のまま言語化してこれ意味あんの?ぐちゃぐちゃになって収集がつかねえな、とタイプする。

意味。それをすることで得ようとしている結果、目的、指標の妥当性。

意味はね、記録だよ。

なんで記録するの?

記録したいから。

なんで記録したいの?

自分を確認していたいから。

なんで自分を確認したいの?

鏡の中を覗き込むように?

そこには自分以外なにも映らないのに?

自分以外に目を向けるのが怖いから自分を見ようとするの?

他人を避けるために、自分の中に逃げ込もうとしてるの?

そうだよ。逃避だよ。

なんで逃げるの?

怖いから。

なにが怖いの?

値踏みされること。

値踏みって何?

優れているとか劣っているとか、値付けされること。

どうしてそれが怖いの?

優越感と劣等感、そこから生じる価値観と競争に巻き込まれるのは嫌だ。

それが怖いの?

巻き込まれたくない、嫌だと、駄々っ子のように拒絶するだけでは、困らせたり、迷惑がらせたりするので、困らせたり、迷惑がらせたりするのが怖い。

そうなんだ。

 

サンドバッグ。サンドバッグは喋らないし考えない。意志は必要ない。言われた通りに言われたことだけ。望まれた通りに望まれたことだけ。それ以上でも以下でもダメ。相手が望むことを自分ものぞみ、相手が望まないことは自分も望まない。従順に犠牲的に、進んで滅私奉公しようとする自分が、まったくそんなことはしたくない、一切そんなことは望んでいないと絶叫して抵抗する自分を、倫理にもとる恥部として処理していく。倫理にもとる自分は、仕返しに、崇高な道徳観念に糞を塗りたくり、罵倒し、踏みにじり、解剖することで復讐する。

 

エスカレーターで、僕の前に立った背の低いお婆さんの、小さな背中を見るともなしに見る。へべれけに酔った赤ら顔の老いた僕が、いますぐそいつを蹴り飛ばせと下品に笑う。怒気と精力を持て余した若い僕が、同調して興奮する。視界に入った、自分の邪魔になるものは、持てる力を存分にふるって、消し去りたいという衝動。曇りない心。一瞬で絶望する。なにを言っている?体は、お婆さんの細かな歩幅に合わせてエスカレーターを降りる。追い抜く。食料を求めて歩いていく。虫の居所が悪いことを理由に誰かに暴力を振るう可能性。それを自分の中に認めている。気分が悪い。吐き気がする。死んでしまいたくなる。下品に笑う僕はこう考える。尊厳には興味がない。だれにも尊厳などない、それが正常だ。刺激が欲しい。自分の尊厳はとっくに毀損されているのだから、いまさら他の誰の尊厳が毀損されても、なにも不思議じゃない、不思議がるな、みんな自分と同じ目に遭え、同じように苦痛を感じて、同じように毀損されればいい、それが正当だ。精悍な僕はこう考える。苦痛で、不当だ。苦痛な状態を引き起こすのには原因があるはずなんだ。そしてその原因こそが諸悪の根源なんだ。諸悪の根源は討ち滅ぼさねばならないんだ。怒りで脳の血管が膨れあがる。不当に対する、これは正当な怒りで、神聖な反撃で、自由への一歩なんだ。死んでしまいたい僕はこう考える。自分の都合のために、誰かの尊厳を毀損するくらいなら、今すぐにでも死んだほうがマシ。誰かのなにかを損なう自分を、永遠に許すことはない。喪失を想像し、打ちのめされる。打ちのめされ、自分を許せないまま、生きていくことはできない。だんだんと定義があやふやになる。物事の境界線がつかめなくなる。毀損って何。尊厳って何。誰かのなにかの誰かとなにかって何。特になにも考えていない僕は深く考えずにこう思う。この人たちどこの世界線に生きててなんの話してるの?お婆さんの背中を思い出しながらキーボードでその背中を描写する僕はこう考える。どうしてそういう衝動をわずかでも抱いたのか今ではまったくわからない。勝手に好き放題想像の種にされて、こういう風に自己陶酔の肴にされるのは本当に可哀想、この行いこそが尊厳の毀損だから、やめてほしい。やめる。やめて、それで、誰かを想像の俎上に上げることそのものが罪とされ、誰にもなににも触れず、感じず、考えないよう訓練し、それで、抑圧でパンパンになった自意識をどうするの?なにも感じず、考えず、手がかりはは無意識という忘我に融解して形を失い、あとにはクソ曖昧なポエジーだけが残って、誤魔化しと朦朧の彼方に。ポエジーの輪郭として残っていた、死んでしまいたいが肥大化して、今すぐ死んで罪を償えになる。でも、死はなんの償いにもならない。死は償いじゃない。死は単なる死だ。死に償いという意味付けを持たせるその発想自体が、生や死に対する冒涜であり罪だ。一生それと向き合い続けることが唯一償いになる。どうしてそんなに罪罪と、罪人でありたがるんだ。なんでそれを自分から望んでる。非合理的だ。自分の加害性をただわかり、意識し、そいつの手綱を握ることに集中することが目的のはずで、そのためには自責も憐憫も陶酔も不要で、それらは無用で、有害な過程だ。そうじゃない。罪悪感が手綱を握らせている。罪悪感には憐憫と陶酔という副作用がついて回る。なにかを罰することは気持ちがいいことだ、それが他人であれ自分であれ。なぜ罰したいのかというと憐憫の情があるからだ。情けをかけたい対象を守ろうとする一心で罰する。情け。一方的な自己投影。利己的な慰み。欲にまみれた酔いと同情。汚らわしい。汚らわしいと感じる感性こそが汚らわしい。ばかっていうやつがばーか。以下繰り返し。何回繰り返し?地獄。一刻も早くここから立ち去れ。二度と振り返るな。ここにはなにもない。

 

みんな自分と同じ目に遭えだって。僕が苦しんでる人の苦悩を読み取るのが趣味なのは苦しんでる自分を自己投影して間接的に自己愛を満たしてるからなんだろうな。

僕は僕の苦悩から誰かが誰かを自己投影して誰かの自己愛を満たすことを期待していると思う。

表面張力を超える一滴のしずくがこの一滴なんじゃないかとずっと騒いでる。その一滴自体は問題にならないほど微細な量でも、ちっとも落ち着きがなく冷静に対処することは難しい。物事を抽象的に大袈裟に捉えたり誇張して考えたりする癖が抜けない。極端から極端へ思考と感情が右往左往する。

とにかく、境界線の狂った人間の誇大表現を真に受けるのは危険行為ですよ。

境界線の狂っていない、誇大じゃない表現の例を見せてみろ。

自分とそれ以外。それだけが狂っていない線引きで、自分とそれ以外が溶け合っているのは狂った線引き。

自分の中の立ち入り禁止のテープの向こう側を覗こうと思う。タブーを暴くことに興奮を感じる。

無編集に出力される思考の流れは意味不明。でも意味がわからないほうがいい。作為の鼻にかかった小賢しさから逃れたい。理屈が通ることや意味がわかることに本質的には意味を感じない。意味がわかることの先は行き止まりでその先にアクセスできないからその先にアクセスするためには意味がわかることに用はない。いやマジでなに言ってん?

無編集に出力されるものなんてあるだろうか、言葉は意識という編集装置を通して出力され、意識は五感や認識システムを通ってくるし、五感は刺激が変換された情報データだし、データ読み取るために編集の過程踏んでるから、全部編集済みだよ、これも記事編集画面から書いてる編集済みの記事。編集!編集!作為!作為!ラリッてる。シラフです。